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直筆原稿を受け取って
『紅葉する老年――旅人木喰から家出人トルストイまで』
  (みすず書房、武藤洋二著)紹介文
 萱原健一

武藤先生が新著『紅葉する老年――旅人木喰から家出人トルストイまで』を出されました。 1997年に卒業した萱原健一さんから熱い思いのこもった紹介文を戴いたのでここに掲載します。 萱原さんは、卒業後も武藤先生と交流を続けられており、本書の出版にも関わっています。 なお目次・内容は、みすず書房の書誌情報をご覧ください。2015.11.01掲載(HP管理人)
 
武藤洋二著『紅葉する老年――旅人木喰から家出人トルストイまで』
●「老を片づけてはならない」
 直筆原稿の束を受け取ったのは昨年(2014年)7月末のことだった。罫線のないA5サイズの白い紙を埋め尽くした横書きの文章は、すべて鉛筆書き。 ところどころ赤や緑のボールペンで加筆修正の書き込みがある。束の一枚目には大きな文字で「人生の紅葉について 武藤洋二」とあった。
 スターリン時代を舞台に「交響曲」的な大著をなした前著『天職の運命』(みすず書房)が大震災の直前に出版されてから3年5ヵ月。 以来、待ち望んできた新著、実際は本になる前の生原稿だった。全十話の題をみれば、「ムスフェルト先生」「アヴァクーム」などロシア人の名前もある。 「ゴヤ」「レンブラント」「浦島太郎」のようにロシアと関係のない主人公も多い。
 
 2012年冬、先生は次作の主題を「生と死と仕事、そして老(ろう)」と決めていた。65歳以上が3000万人を超す21世紀の日本。その老人たちに「老を片づけてはならない」と呼びかける必要を感じていた。 本屋に並ぶ新書の類いは、老を死ぬ前の準備期間にしている本が多いが、先生はこれを否定する。 マヌ法典は人生の区分として「林住期」を設け、家族への務めが終ったら「世間」ではない「林」に移り住むことを勧めているが、これも拒否する。 「林には入らない」。「林住期」ではなく、先生は「紅葉期」を提唱する。「老」について書こうと思ったのは大学退官後、つまり自由になってからも休みなく続けてきた研究の、新著はひとつの実りである。
 
●「ロシアだけでは駄目」
 武藤先生が大阪外大を退官して早10年。ということは、先生を知らない卒業生も少なからずいるということになる。 教え子への奉仕と併行して論文を書き続け、『ゴーゴリの世界から』『詩の運命 アフマートヴァと民衆の受難史』などを刊行し、退官後は、詩集『地球樹の上で』、そして『天職の運命』を世に贈った。 専門の「ロシア文学」は、研究者にとっての一つの場にすぎず、追い求める主題は一貫して「人間」だ。「ロシアだけ勉強していては駄目」と繰り返し教え子に説き、自身、宮沢賢治を主人公に講義した年もある。 最終講義は明治維新から話をはじめた。教え子から解放され、ようやく執筆の時間を得たら、体も変化してきた。学生たちと酒を酌み交わし、何でも、いくらでも飲んだ体は、70代にはいって自然と酒を受けつけなくなった。 年を重ね、知識は積り、考えが熟して言葉が生れてきた。その間、先生と会い、食事をしながら、その言葉につぶさに耳を傾けてきた。
 
●「昔の上に横たわらない」
 「最近、よくわかってきたんだけどね」が先生の口ぐせのひとつだ。毎年会うたびに、この台詞を聞く。 そして新しく仕入れた知識を教え子に楽しそうに話してくれる。新著には痛烈痛快な次の文章がある。「高齢になるにつれて人生の比重が前半に傾く。 老人の多くが昔話の語り手になるのはそのあらわれである。新しい支えを作れないから過去の自分が人生の英雄になる。 若者は、年輩の上司から手柄話を聞かされたら、この男にとってすでに比重が前半に移動している、と思えばいい。手柄に恐れいることはない」。 先生は昔話をしない。強いて訊ねても話はすぐに今の関心事に戻る。新聞を賑わす時事問題、最新の科学の成果など。新著の主人公たちも誰一人、「昔の上に横たわらない」。 手柄話、昔話とは無縁の「紅葉人」ばかりだ。
 
 退官後、先生が披露してくれる新しい知識は、ほとんどが「健康と食」に関するもので、栄養学の専門用語と具体的な数値が次から次に出てくるから、せっかくの教えを筆記するこちらの手は追いつかない。 手元に残ったメモは「赤いピーマンはビタミンAが豊富で、眼の疲れをとる。ただし、生(なま)で食べないと駄目」という結論だけだ。 新著では「貧弱な精神生活を送っている者は早死する」という先人の言葉を引用し、重視しているが、先生は単なる精神論者ではない。医学も否定しない。 重要なことは、「命の事情が人によって千差万別」であり、その「命の個性の幅は、常識の幅より広い」ということ。古今東西の歴史的実例でこれを示している。
 
 先生の頭のなかには、どれほどの知識が詰め込まれているのか。どんな話題もすべて空(そら)で話す。執筆時は、紙と鉛筆だけをもってカフェテリアに行き、記憶していることだけで原稿の芯を創る。 その直筆原稿の「断片」の集積が、受け取った束であった。直筆原稿をパソコンで活字にし、印刷したものを先生に郵送する。そこにペンや鉛筆で加筆修正が入り、送り返されてくる。 これを何度も繰り返し、一応の完成稿ができあがった。2014年の紅葉の季節もせまる頃。内容は恐ろしく重厚なのに、本にすれば100ページ足らずであった。
 
●「道徳教師を破壊する」
 新著の第二部「トルストイ八二歳」は当初の予定にはなかった。みすず書房から原稿の増量を求められた時、先生は即答だった。「追加するなら、紅葉の英雄、八二歳のトルストイ」。 将来の一冊になる予定だったトルストイをここで登場させる。手持ちの材料は山とあり、先生なりのトルストイ像も頭のなかで熟成していた。しかし、文章にするのはこれからだ。刊行は翌年の紅葉を目指すことになった。
 
 トルストイと武藤先生。この組合せを「意外」と感じる外大卒業生もいるだろう。先生自身、それを否定せず、「(自分には)トルストイもドストエフスキイも評価に大転換があった」という。 それはいつか。「政治的人間トルストイを造形できたとき」だった。1996年にはすでに「あれほど偉大な老人はいない」とトルストイを絶賛していた。 2005年1月の最終講義でも取上げた。新著の眼目は「道徳教師という日本のトルストイ像を破壊」することだ。テロリズム、反戦論、貧富の差など21世紀が抱える大問題が、トルストイの政治的発言をとおして浮き彫りになる。 そして、そうしたトルストイはとりもなおさず、「誰にもまねのできない史上一回かぎりの紅葉」であった。
 
●「皆、老人になる」
 『紅葉する老年』は特殊なつくりである。トルストイは150ページ以上あるのに、ファーブルが登場する第六話は5ページしかない。
しかし、どちらも対等に紅葉人である。先生の文章は、喉越しのいい流動食ではない。自分の歯で噛まなければ飲み込めない歯ごたえ抜群の栄養食だ。 噛めば噛んだだけ味が出る。トルストイ劇は生涯最後の10日間にしぼってあるのに、場面は縦横無尽に古今東西を往復する。人物描写は時に絵画的、物語の展開は時に映画的である。 詩人である先生は、作り上げてきた文体に安住せず、常に挑戦的に自分だけの文体を追求してきた。その姿勢にあざやかな紅葉を見るだろう。新著の読者は老人に限定されず、中年期にとっても他人事ではない。 武藤先生は笑いながら話していた。「人は生きていれば、皆、老人になるのだから」。
 

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