top  1-3  4-6   7-9 10-12 13-15  16-18 19-21  22-24 25-27 28-30  31-33 34-35

チェチェン挽歌
十九
ようやく待望の掘削現場に入る。色々な機材が散乱している。
パイプの置場やマッド(掘削泥水)の状態、掘削装置などを視察し、会議室に入る。
現地での水平ドリリングの概略説明(掘削深度、傾斜角など)、破断時の運転状況の説明あり。
当方より破断時の運転データ(トルク値、引っ張り荷重など)呈示を求めたが、「ない」と言う。 事故発生時、ビクトルがデータを消してしまっている。よくやってくれる。
小生、「これでは補償など論議の対象外だ。但し、先ず何が起こったかを分析する必要があろう。 そのため破損切片を出して欲しい。モスクワまで送って頂ければ、あとは当方が第三者機関の分析に廻す。 私の推測ではトルクのかけ過ぎが原因と思える。 これが明確になれば事故責任はオペレーター側が負うことになる」と話した。
掘削局長、「誰も傷つかない方法はないだろうか。あなたと同行したビクトルは助けてくれと泣いている。 我々だって同じだ。近々、ペトロスはドリルパイプを大量発注する予定だ。 あれこれをうまく噛み合わせて善処願えないか。 この一本だけで当方の損害額はざっと見積もって最低200万ドルほどだ」とあわを食っている。
やった、いい手ごたえ! あと一押しだ。
小生、暫し天井を睨み、「分かった。それではこうしよう。 勿論、契約単価と数量にもよるが、新規契約の調印と同時に相当量のドリルパイプを別途無償提供するという協定を結ぼう。 当方は今から決めるスペックを基にパイプ素材を押さえておこう。他社より2〜3ヶ月は先を行くことができる。 貴方が納期を最優先としてくれれば、大概のコンペチター(競争相手)を脱落させることが出来る」と答えた。
局長は喜んでOK、「ペトロス本社には納期が最優先事項と要求する」という。
さて、問題はこの次だ。新規スペック(買い付け仕様書)を共同で作らなければならない。 しかも、本来要求される強度を持ったジョイントではなく、ぎりぎりで切れるものでなければならない。
まず、会議室の壁に掲げられた大尺地図を覗き見て、小生「ええっ、まさか!」
無数の河川が東のカスピ海に注いでいる。彼らはこれら全てに川底トンネルを通すという。 跨川橋にすれば安上がりだが、テロリストの絶好の標的となる。跨川橋は絶対だめだという。 しかし、これは大事業だ。稼動条件も種々雑多だ。
それでも、大体三つのカテゴリーに分けてスペックを決めた。 ここでは掘削局次長のビクトルがよく働いてくれた。結果、ぎりぎりで切れるスペックが出来上がった。
これで一応準備は整ったが、言うまでもなく最終的には小生が責任を問われることになろう。 せめて計算違いによる過失(単純ミス)ということで会社を追われれば御先祖様に顔向けが出来るのだが..
この日の夕方、掘削局長主催の大宴会。またまた出てきた、山羊の頭。
これはダゲスタンの北、カスピ海の北西部、カルムイキアという地方の山羊。
カルムイキアには日本人や朝鮮人に似たアジア系の民族が住んでいて仏教寺院もある。 寺院はちょっとけばけばしいがチベット仏教の流れを汲んでいる。山羊はサイガという。 このサイガの角がまた精力剤になるという。 どうも、彼らにとっては山羊の頭は日本人にとっての蟹の甲羅のようなものらしい。 バキバキ割って、中身を美味しそうに食べている。脳味噌が一番美味だという。 どっさり脳味噌を食べさせられて小生、頭痛と吐き気で帰路につく。
モスクワの飛行場では、例によって、精魂つき果てるほどの手続きをクリアして、 ようやく出口に辿り着いた。会社の運転手が待っているのを見て、ほっと心が救われた。 暗いモスクワの街が懐かしい。車を降りると、待ち人のいない愛しの我が家だ。
冷蔵庫の音だけが無感動に響いている。ばあさんの灰は今ごろどこを流れているのだろう。 もうボルガについたかな。
ページの先頭へ戻る

二十
テレビのスイッチを入れると、ちょうどチェチェンの現地報道をやっていた。
それによると現在、戦闘は主に山岳地で行なわれている。チェチェンに近いロストフの陸軍病院の院長の話しでは 週に50〜60名の負傷兵がこの病院に運び込まれてくる。殆どがチェチェンテロリストのしかけた地雷によるものか、 一般人になりすましたゲリラの後方破壊活動によるものだという。尚、戦死者数は不明。(公表を避ける)
 
チムールは相変わらず鬚だらけの顔で闘っているのだろうか。自分のことを「狼」と気取っていたが、 あのとっぽい顔はどう見ても「山ねずみ」にしか見えない。
そういえば、我々4人は無事救出されたが、軍曹セルゲイや他の兵たちはどうなったのだろう。 チムールに助命を頼むのを忘れた。気にかかる。小生、なんという間抜けだろう。
チェチェンでの出来事をあれこれと思い出しているところに電話がかかってきた。
ララが今からこちらに来るという。「この2〜3日ずっと電話をかけていた。とても心配していた」という。 (心配するならチェチェンの山中にいるときに欲しかったよ)
我がアパート近くの街路樹の喫茶店で夕方8時に会うことにした。白夜の時期だから夕方8時といっても昼間と変わらない。 外は涼しいというより少し肌寒かった。
8時ちょっと前にララは来ていた。ロシア人は時間にルーズだから普通20~30分は待たされるものだが、 チェチェンはすこし日本に近いようだ。
彼女が手を振ると、まわりのみんなが彼女とその手の指し示す方向に立つ小生に眼を向けた。 オリエント系の美人はモスクワでは目立ってしまう。
「何か飲むか」と訊いたらコーヒーを注文したという。酒とタバコはやらないという。
「いまダイヤの原石をそっくりそのまま持ってきている。 おばあさんがあのメモに『お礼はララから』と書いてたでしょ。せめて幾つかでも」という。
「ダイヤの原石などには本当に興味ない。お礼というなら、チムールに伝えてくれないか。 私と一緒に拉致されたロシア兵を無事解放してほしいと。彼らが拉致されたのは私が原因だから、、」
ララは黙ってうなずいた。彼女は何も言わないが、その黒い瞳は「毎日、何百人もの命が奪われている地獄のなかで、 そんなことを言っても無意味ではないの」と語りかけているようで、小生、それ以上何も言えなかった。
いきなり、ララが「おばあさんが最後に暮らしていたところを見てみたい」と言い出した。 まあ、いまは単身中だから、他人に見つからなければいいだろう。
夜はララがダブルベッドの寝室を占拠してしまったので、小生は子供が使っていた2段ベッドで寝ることになった。
 
翌日、寝ぼけ顔で会社に出勤すると殺人的な量の仕事が待っていた。
溜息をつきつつ、300通を越えるメールを斜め読みする。活字が殆ど頭に入らない。 ふと、ロシアの石油ガス産業に関する情報誌 "Petroleum Report" に目をやる。
「ソ連崩壊後のペトロスの民営化当時の経営者が不正に株を取得し、これを運用、不正利益をあげていた。 既に昨秋、経営者の入れ替えは行なわれていたが、検察庁は今年に入って改めてこれを起訴。 本日、ペトロス会社名義の優先株150万株と8500万ドルの銀行口座を差し押さえた」と記載されている。 すごい金額だ。この記事を見る限り、検察は経営者個人というより組織を叩いている。
エリツィンの後を継いだ現政権は、ロシアが大国として生き残る道は政治経済を再度、 中央集権化すること以外にないと考えているようだ。
現政権は「汚職摘発」の名のもとに一旦民営化(=privatization=この言葉は国営をやめて民営化するという意味だが、 私物化という意味も含まれる。ロシアの場合は後者の匂いが強い)した私企業の再国営化を目論み、 それに批判的なマスコミは徹底的に叩いた。 黒い顔隠しのマスクをつけた機動隊が銃を携えメデイアモストに突入した。 国家社会主義の再来か。(戦前のドイツを思い起こさせる)
ページの先頭へ戻る

二十一
ペトロスの「銀行口座差し押さえ事件」は現政権による再国営化、中央集権化策の一環であった。 政府はロシア全土の送油事業が一時的に衰退してもこれらの国策を推進することを最優先とした。だが、これは他人事ではない。
我が方にとって状況は複雑になってきた。 ドリルパイプを大量発注すると言っていたペトロスが検察による差し押さえのため 支払い不能に陥る危険が出てきた。
小生、すでに東京本社を通じてメーカーHKKには鉄源を押さえてくれと要請している。本件が没になったら大変だ。
秘書に命じてペトロスのマハチカラ支部に下記内容の至急レターをファックスさせた。
「至急:ペトロス・マハチカラ掘削局長御中
先日貴方と合意したドリルパイプ無償供与の件につき下記確認いたします。
口頭にても申し上げたとおり無償供与の総量および実行については新規契約ドリルパイプの単価および数量しだいである事。 具体的には200万ドル相当の無償供与については新規契約金額が2000万ドルを下らない事。 且つ無償供与に関する協定発効は新規契約の支払いが履行された後とする事。 細目につき打ち合わせたく貴方の早期モスクワ来訪を望みます。 COPY: ペトロス掘削局モスクワ本部長あて 草々」
上記ファックスに対しては幾日も回答がなかった。
ロシア企業のことだからレスポンスが悪いのは当然のことか、、 いや、ペトロスは例の差し押さえ問題でガタついているのだろう。腹を据えて待つしかない。
寒さがおさまった初夏の朝、我が社のモスクワ支店長室にロシア大統領府から電話がかかって来た。 大統領府経済部長が本日午前11時に支店長および鉄鋼担当者とお会いしたいと言っているという。 ペトロスではなく、大統領府からとは、どういうことだろう。
朝の11時きっかりに、支店長のBMW大型車でゴシック調の豪華絢爛な大統領府の玄関に横付けした。 面談室に案内される。空気が冷えている。長らくモスクワにいるが大統領府は初めて、緊張感とともに経済部長を待つ。
さすがに支店長はこういう場には慣れていて落ち着いている。入ってきたのは経済部長とプロジェクト担当の経済部次長だった。
時候の挨拶のあと経済部長より「ミスターアンドがペトロスの要請でマハチカラの掘削現場に入られ、 交渉の結果、ドリルパイプの新規契約を条件に無償供与のかたちで損害補填に応じてくれたことを 高く評価する」との発言あり。
支店長「長いあいだ我が社はロシアと商売をさせてもらっている。その基本は相手に良かれという事だ。 常にその考えで仕事をやらせてもらっている。アンドの対応はそういう意味では当たり前のこと。 特別なことをやった訳ではない。我が社は今後ともロシアの発展のために努力するつもりだ」と 支店長として一応当たり障りのないことを言ってくれた。
経済部長「ぶちあけて話したい。おそらく御存知と思うが、ペトロスは検察庁による資金差し押さえにより当分、 資器材の新規買い付けを行なう可能性はない。因みに現在ペトロスは再国営化に向けて組織改革、人事刷新を進めつつある」
小生、なるほど、やはり再国営化・中央集権化への「揺り戻し」は着実になされているようだ、 と自分なりに納得した。しかし、決して嬉しい話ではない。
経済部長はこちらの反応を待って、「たとえペトロスに資金はなくても、 当該パイプラインは国策として早急に完工させねばならない。そこで大統領府が支払いを実行する。 今後、ペトロスは単なるオペレーターと理解いただいてよろしい。 このパイプラインがロシアの国家的重要案件であることをご理解いただき、まずパイプの緊急納入をお願いしたい」という。
小生、ここで悪役を買って出た。「製造に6〜7ヶ月。輸送に2ヶ月。どんなに急いでも8ヶ月は必要。 トルクメン、ウクライナなどの政府機間とも契約しているがすべて納期は8〜9ヶ月となっている。 最近、ドリルパイプの供給が更にタイトになってきているから.. 」と顔をしかめた。
経済部長「それでは話にならない。前回契約単価に10%上乗せするから納期は2ヶ月とすること。 予算総額は2500万ドル。以上だ」と、有無を言わさぬ命令口調だ。
さらに声をひそめ「口外無用だが、我々はペトロスのみならず全ての有力石油企業を再国営化の方向で検討を進めている。 貴方が本件で協力してくれれば、今後の石油企業関連の取引は大統領府のバックアップで貴方に有利に展開しよう」という。
ページの先頭へ戻る

前のページチェチェン挽歌・トップページに戻る続きのページ