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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
三十一

旦那と呼ばれた男の名はグサロフといった。
グサロフから札束を受け取った山賊兄弟は嬉しそうにニキタに 「これで別れることになるが、お前も体に気をつけてな」とまるで加害者の意識はなかった。
ニキタは山賊兄弟が立ち去って行くのを遠い過去の出来事のように眺めていた。
彼らが視界から消えてしまうと、ここが農家というより廃れた教会のようなものだと気付き 「これから先も、ちゃんと食わせてもらえるだろうか」と、胴震いするような不安感に襲われた。
グサロフはニキタのまわりを二度三度歩き回って目で品定めしたあと、彼女の髪を摘まんだり、 口を開けて歯並びを調べたり、あげくは体のあちこちを触りだした。 ニキタは目をつむって、ぐっとこらえた。
そのとき平手打ちが両頬を襲った。ニキタの目から火が飛んだ。
ふらついてその場に倒れる。何がなんだか分からない。
恐ろしい顔をしたグサロフの女房が彼に焼け火箸を持ってきた。これが烙印というものか。 ニキタにはこれを正視するだけの勇気はなかった。
黒い湯気を立てているようだった。
グサロフが「立て。お前に焼きを入れてやる。腕を出せ」という。
ニキタは声も出せず、いやいやをする。その頬に再び平手が飛ぶ。唇が切れた。 ニキタは諦め、腕を差し出す。グサロフの女房に後ろから羽交い締めにされる。
一瞬の強烈な痛みが脳髄を走る。腕が焼ける。ニキタは気を失って倒れた。
何時間たったのか見当がつかない。痛みで目が覚めた。
薄汚れたベッドに寝かされていた。最初は自分がなぜここに寝ているのかさえ分からなかった。 しばらくぼんやりしていたが、腕の激しい痛みがグサロフを思い出させた。鬼のような顔だった。
ニキタの腕には何かの薬草と布切れが巻きつけてあった。
女が逃げ出したり、誰かに掠われたとき、その女が自分の所有物であることを証明するための重要な印だという。 サイズこそ小さいが牛馬につける烙印と同じものだ。
山賊にお金が渡され、烙印を押されたことによりニキタはグサロフの所有物となり、 彼女を生かすも殺すもグサロフしだいとなった。
次の日、さらに東に向かって一日半歩かされた。あの忌わしい教会跡から離れることが出来て嬉しかったが、 この先がまったく見えず、身も心も文字通り五里霧中だった。
何とか逃げ出したいが、逃げても裸同然で生きていく自信はなかった。 それにグサロフも彼の女房もポケットに拳銃を隠し持っていた。逃げれば殺される。 殺されないまでも、また焼きを入れられる。それだけはいやだ。 ニキタは家畜のようにこづかれながら歩いた。
途中、何度か赤軍の歩哨に遭遇したが、グサロフは何かの書類を見せ、 隊長らしき者に小銭を握らせて哨所を難なく通り抜けた。
深夜、到着したのはグデルメスというチェチェンの町で、今は赤軍の駐屯地となっている。 旧市街の掃き溜めのような場所に壁を赤黒く塗った建物があった。
淫売窟だった。娼婦は主にロシア人だったが、たまにグルジア、アルメニア系のコーカサス人だったり、 それらとロシア人の混血だったりした。
現地チェチェンの男たちは「自分らの女」が売春することを決して許さなかった。 もしそのようなことをすれば、女も淫売窟も血の制裁を受けた。
グサロフがニキタを買うことに難色を示したのは、勿論、商売の常道「買い叩き」もあるが、 それだけでなく彼女を「この地の女」だと勘違いして、ヤバイと思ったのがその主な原因だった。 お蔭で、彼は思わぬ安値で上玉をせしめることになった。
60歳に近い魔法使いのような顔をした女がやってきて、馬でも洗うようにニキタの体をなまぬるい水と たわしで洗った。そのあと髪を洗い、軽くカールをかけ、黒い服を着せ、真っ赤な口紅を塗り、 どぎつい匂いの香水を振りかけた。この魔法使いのばあさんは名をマリアといった。
マリアは誇らしげに新装のニキタをグサロフ夫婦に引き合わせた。
グサロフは鬼の顔に初めて満面の笑みを浮かべ、ニキタに三階の小部屋を与えた。 「夕方には男どもがやって来るから」とマリアはニキタに脂っこいスープを運んでくれた。 それに「多いときは一日に連続で3〜4人は相手することになるから、 絶対に一人一人に気を入れちゃいけないよ。でもフリだけはしっかりやって、 早く行かせちまいな」という。
ニキタはマリアが親切で言ってくれているのは分かるが、煮えたぎるの釜の中に突き落とされたような 気持ちになった。ここは文字通りの淫売窟だった。
「でも目をつむって耐えよう。そのうち何とかバトミに行く手立てを考えよう」と心に決めた。 今はバトミという言葉だけが支えだった。
夜毎に数人の男が廻されてくる。
彼らは山賊どものように強引ではなかったが、粘々した態度はニキタに悪寒を催させた。
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三十二

とにかく、早くそれを済ませて帰って欲しかった。
客がニキタにいくら優しそうに接しても、彼女は決して嬉しい顔はしなかった。
ここでは娼婦が客を一人相手するごとにいくらいくらと手当てが決められており、 月末に合計される。その中から部屋代、食事代、洋服代、化粧代などが取り立てられる。 頑張れば頑張るほどお金を稼ぐことができる、というシステムになっていた。 つまり、ここでは未だ資本主義の競争原理が生き残っていた。
ただし、部屋代、食事代などがべらぼうに高く、よほど頑張らなければお金を稼ぐことは出来なかった。 殆んどの女が親方に借金する羽目となっている。
客は気に入った娼婦に別途チップを渡すが、客のチップは半分を親方に納めなければならない。 娼婦の多くはチップを親方に内緒にしようとするが、もし、これがばれたら「焼き」を入れられることになる。 娼婦は皆「焼き」の恐さを骨身に沁みて知っている。 ニキタはお金にも客にも興味がなかった。逃げることばかり考えていた。
親方が彼女をいかに脅かそうと、なだめすかそうと、こんな所で客を喜ばす気などさらさらなかった。 絶対に気を入れまいと心に命じた。
媚びのない漆黒の瞳と野生の鹿を思わせるひきしまった体は逆に男達の欲情を駆り立て、 彼らを執拗にさせた。体はときに彼女の意思に逆らって波うち、別の生物のように男に反応してしまう。 心が麻痺してしまう。悲鳴に近い声をあげる。
そのすぐあと言いようのない心の責めに苛まれる。自分は、本当は淫らな女だったのか。 同じ瞬間にグダイが牢獄で死ぬほど苦しんでいると思うとこんな自分がはがゆく、口惜しく、 涙が止め処もなくこぼれ落ちた。死ぬことを考えた。だが「グダイを助け出すまでは」と耐えた。
彼女の気持ちとは裏腹に、ほどなく幾人かの常客がニキタにつくようになった。 マリアばあさんもニキタが気に入ったようで、色々と話しかけてくる。
「共産党がうるさいから、うちの旦那は下で表向き予約制の食堂を経営しているのさ。 食堂たって、普通にやってたんじゃ材料が殆ど手に入らない。旦那は頭が切れてね、 赤い将校さん達に闇で食料を運ばせているのさ。まあ持ちつ持たれつというところだがね。 それに二階だって、一応サウナをこしらえてサウナ風呂ということにしてんのさ」と、 この店のカラクリらしきものを説明してくれたが、その時は、ニキタは心そこにあらずで聞いていた。
この淫売窟は誰にもオープンという訳ではなかった。
物資横流しで稼いでいる赤軍将校とか、党地区委員会の幹部や、地回りの顔役などだった。 一種の閉鎖社会で、客の口は固い。そのお蔭で繁盛した。
店の入り口は狭く、赤黒い壁が目立つだけで外観はみすぼらしかったが、 中は立派な絨毯が敷き詰められた迷宮だった。外では目付きの悪い男達が辺りを監視していた。
夜逃げなど覚束なかった。しかし、それでも今のニキタにとってはこの淫売窟から逃げる方法を考えることだけが 心の支えだった。

カラバクとレナは愛馬ドンとともにコーカサスの山を越えた。
峠に向かう道でドンはその名にしおう事件を起こした。ドンとはドン・ジュアンの略称。 つまりドン・ファンだった。カラバクとレナがドンの背から荷物を降ろし、 昼食を用意している時だった。
ドンは草を食んでいた。先日の大熊事件もあったので、咄嗟の場合はドンが逃げ出せるよう手綱を緩めておいた。 それが事件のきっかけとなった。
ドンは「ヒヒヒーン」と高いいななきを上げ、手綱を引いて、その場から飛び出して行った。 カラバクは辺りを見回したが、熊や狼の気配はなかった。
彼は手綱を緩めておいたことを後悔したが、あとの祭りだった。 「仕方がないから、食事をしながら待つことにしよう。一日待ってドンが帰って来なければ、 歩いて山越えをしよう」ということになった。
夕方、ドンは牝馬を連れて帰ってきた。迷い軍用馬のようだった。
どこかの戦闘で負傷し見捨てられたのだろう。左の太股に貫通銃創痕が残っていた。 よく無事で生き残ったものだ。
初代を偲んで彼女をマリー・ジョアンニと呼ぶことにした。略してマリー。結局、前と同じマリーだった。 カラバクはレナに拳銃を持たせ、男装させたうえで夜行を続けた。
登り降りの急坂が多く、九十九折れが無限に続くコーカサスの山越えも、バトミ到着も、 マリーのお蔭で早くなった。
カラバクはバトミに着くと早速、グルコ・アリの消息を調べた。
アリの船会社はバトミ海運公社という名に改められ、国営化していた。
アリは当地ではブルジョア階級、すなわち人民の敵という汚名を着せられ、銃殺刑に処せられたという。 「こんな地方の船主ふぜいを人民の敵に仕立てることはなかろう」とカラバクは憤慨したが、 憤慨しても今更どうにもならないことだった。
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三十三

ロシアで社会主義革命が起こったのは1917年11月だが、グルジアはこの時点で即、 社会主義国に移行したわけではない。そこに至るまで不運の紆余曲折があった。
まず、翌年の1918年5月グルジア国民会議が(ロシア革命を好機として)ロシアからの独立を宣言、 グルジア民主主義共和国が誕生した。
同年5月、ドイツ軍がグルジアに進駐。グルジア政府はドイツ軍の助けを借りて国内の反乱を鎮圧。 1918年11月のドイツ降伏後、ドイツ軍はグルジアから撤収した。
ロシア内戦中、グルジア政府は白軍を援助し、嘗て勇名を馳せたデニーキン軍の敗北後、彼らに避難地を提供。 しかし赤軍の増強により状況は悪化。1920年5月、グルジア政府はソビエト・ロシアと講和するも、 1921年2月、赤軍に首都チフリスを制圧され、グルジア・ソビエト社会主義共和国の成立を見ることとなった。 グルジア政府はバトミに移ったが、同年3月に国軍は降伏、政府は国外に亡命。 これをもってグルジア全土が赤軍の支配下に入る。
政権を奪取した彼らは共産主義の建前からして、どうしても人民の敵を見つけねばならなかった。 バトミでも人民の敵探しが始まった。
船会社の親方グルコ・アリはちょうど手頃の「生け贄」だった。
実際、決して富裕とは言えない自作農が「富農階級」として攻撃の的となっている状況では 船会社の親方は人民の敵として十分な資格があった。(実際は、大手船会社はグルジア政府とともに亡命して しまい、残ったグルコ・アリは取るに足らぬ船会社だったが) 共産主義の実践現場でしばしば出くわすこの手のエセ共産主義者たちの浅はかさにカラバクは幻滅し、 溜め息を漏らすばかりだった。
せめてアリの墓参りでもしてやりたかったが、人民の敵に墓などなかった。
ただバトミ海運公社にはグルコ・アリに世話になった海運関係の専門家、船乗りが残っており、 カラバクとレナに(目立たぬようにだが)色々と世話を焼いてくれた。
彼らの一人がバトミの町外れに朽ちかけた小さな農家を手配してくれ、 そのうえ(カラバクの名前では秘密警察に摘発される危険があるので)別人の名前で海運公社の雑役の仕事も 与えてくれた。偽造の身分証明書も発行してくれた。
カラバクに与えられた仕事は船積み作業の他に貨物積付けのための大工仕事(固縛)などだった。 固縛が不確実だと船は揺れ、荷崩れを起こし、安定性を失い、転覆しかねない。 カラバクは遊牧のテント張りの要領で固縛も迅速確実にこなした。
彼は人の二倍も三倍も働いた。バトミというグルジアの西の果てまで来て、全てが行き詰まってしまった ところだったので、彼には人の親切が身にしみて嬉しかった。

冷たい海風の中で船荷役をしながら、彼は考えることが多くなった。
「俺はお尋ね者だ。このような俺に、今のソ連で何が出来るのか。このまま、船荷役で通すか。 そのほうがレナも喜ぶ。いや、しかしそれは駄目だ。ここで転んではいけない。 今誰かがやらねば、この国は永遠に奴隷国家となってしまう。苦しくても、戦わねばならない。 ここで最初から出直しだ。まず、仲間をつくることから始めよう」

仕事を終えて、レナと海岸を散歩する。黒海のさざなみは西日を浴びて煌いている。 風は冷たいが、二人なら寒くはない。レナは独り言のように語りかける。 「私は今が一番幸せ。このままでいい。何も要らない。でもあなたが望むなら、どこにでもついて行く。 何でもする。あなたの赤ちゃんが欲しい。でもあなたの足を引っ張ることは駄目かな.. 」

数日後の夕方、カラバクはいつものように船からあがって、家路についた。
バトミは黒海では有数の港町で、活気があった。色々な品物と人種が行き交っている。 黒海の北岸はロシア、ウクライナ、西岸はバルカン半島、南岸はトルコ。 トルコのイスタンブール(ボスポラス海峡)を越えれば地中海に出る。
バトミから船でヨーロッパに行くことも出来る。レナをギリシャ、イタリアなどに連れて行けば どんなに喜ぶだろう.. あれこれ考えながら家路を急いでいた。

その時「カラバク-ウルドビッチ!」と路上で自分の名を呼ぶ声がした。
追捕の手がここまで廻って来たのかと思い、ドキッとした。
とにかく知らぬふりをして、急いで歩き去ろうとした。
追いかける声は大きくなり、彼の耳に「カラバク隊長!」と響いた。
今度ははっとした。「隊長」というからには昔の騎馬隊の隊員ではないか。
彼は嬉しくなって、振り向いた。そこにはグルジアに特徴的な黒い目、黒い眉、黒い髪のアクシビリの顔があった。 アクシビリはカラバクに抱きついてきた。
「隊長、お久しぶりです。こちらにはご出張ですか」という。
「いや、私用で来ている。君は今何をやっている」
「はい、私は相変わらず騎兵です。一応分隊長ということになっていますが」
「そうか、それは非常に結構だ。狭いが我が家に来ないか。その後の自分の話をしたいし、 君のその後も聞きたいな。貧乏で何もご馳走は出来ないが、女房を紹介しよう」
「奥さんがお出来になったのですか。是非お会いしたいですね。そうですねえ、 私の想像ではどちらかと言うと田舎の娘さんで、健康で、朗らかで、すこし大柄で、歌が好きで.. 」と言っている内に二人はみすぼらしい倒壊寸前の農家の玄関についた。
中から金髪碧眼の美人が出てきたので、アクシビリは口を開けたまま立ち竦んでしまった。 カラバクが「大体君の言う通りだね。ちょっと大柄ではないけどね」と言うと、アクシビリは顔を赤らめて「失礼しました。しかし、さすが隊長は凄腕ですね」と頭を掻いた。
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