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「隠岐、戻り船」
 

今朝、紀美子は家に書置きを残して、伊丹までタクシーを走らせ、飛行機に飛び乗った。
「健吾様;色々と考えました。私はこの先、貴方とやって行く自信がありません。
今日、私は旅に出ます。こんな重大事を事前に説明も相談もせず、申し訳ありません。
急いで飛び出したため、離婚届を用意する暇もありませんでした。
あとで私の署名と押印した書類をお送りしますので、貴方もご署名、押印のうえ、市役所に提出してください。お願いですから、決して私を探したりしないでください。
私を自由にしてください。私はこれからは自分らしく生きていきたいと思います。
もう貴方のもとには戻るつもりはありません。
余計なことかもしれませんが、栄子さん(文字に間違いあるかもしれませんが)を幸せにしてあげてください。貴方はご存知ないかもしれませんが、よく寝言で栄子さんの名前をお呼びになってます。貴方は遊びのおつもりかもしれませんが、栄子さんはきっと本気だと思います。これからはもっともっと栄子さんを幸せにしてあげてください。
もう裏切りは駄目ですよ。
ともあれ、長い間お世話になりました。 紀美子 平成22年6月X日」

紀美子は隠岐空港からのタクシーの中でぼんやりと山や海を見ながら思った。
夫にはいつも馬鹿扱いされてたけど、実際、私もほんとに馬鹿だと認めるわ。
だって、あの時、小型漁船に追っかけられたフェリーの中でやっとあの年賀状の意味が分かったんだもの。漁船を操っていた男の子の目には、Don't You Know? 「君は僕の気持ちが分からないの?」って書いてあった。そのときは胸がきゅんと締めつけられたけど、それも、夢の中の一コマのように知らない間に意識から遠のいていった。私ってほんとに鈍感で馬鹿だったわ。今もそうだけど..もしかして別の生き方があったかも..

空港からフェリー岸壁まではタクシーであっという間だった。
タクシーから降りた紀美子は大きなスーツケースとハンドバッグ、紙袋を手にしていた。ハンドバッグには見覚えがあった。信はどきっとした。
紀美子は若くて美しい。俺よりも20歳は若く見える。いや、俺が老けすぎたのか..
紀美子はスーツケースを地べたに置いて二人用の椅子とし、茸(きのこ)のような形をしたボラード(港の係船装置)をテーブルにして紙袋から取り出したケーキとコーヒーを並べた。
二人は、ちょっとだけ距離を置いて横並びとなり、海を眺める格好となった。
「証拠物件は大事にしまってあるから、被告人はすべてありのままに話しなさい」
「被告人?」
「ええ、そうよ。もし、偽りの証言をしたら、たちどころにDNA鑑定となりますよ。なぜ、あなたはあのような犯罪行為に及ばねばならなかったのですか。
それに、なぜ、あなたはわざわざ携帯番号と証拠品を残していったのですか。
まず、ケーキとコーヒーを飲みながら説明しなさい」
「面食らうな。まあ、こうしてくれると気が楽でいいや」と、子供の頃からの自分史をかいつまんで説明し、自分の死が目前に迫っていること、死ぬ前に一瞬でもいいから紀美子を我がものとしたかった、あとでそれが間違いだったと気づいた、今、紀美子とまた会えた、もう思い残すことはない、と語った。
そして、「まさか、君がここに来るとは思わなかった。君の質問については、実際、どう言えばいいのかよく分からないが..ううん、正直に言うと、一人で死んで行くのは寂しかった。君に自分の手形のようなものを残しておきたかった。携帯の番号については、岬の絶壁から海に飛び込む前に君に『さよなら』を言いたかった。それに、これを残しておくことも伝えたかった」と、厚い封筒をリュックサックの中から取り出した。
封筒の表面に「紀美子さま、途中、中断もあったけど、一生、君のことを思い続けていました。君が好きでした。きのうは申し訳ないことをした。お詫びに、最後に残ったお金を贈ります。時には僕のことを思い出して、微笑みかけてくれれば嬉しい」と書いてあった。
「信くん、私も馬鹿だけどあなたも相当の馬鹿ね。でも、あなたの説明よく分かったわ。
だからと言って、無罪放免はしないわよ。証拠品など捨ててもいい。あなたを警察に訴えるつもりはない。でも、あなたの罪はあなたがそれを贖(あがな)うまでは絶対に消えない、分かってほしい。たとえ、あなたが絶壁から海に飛び込んでも、あなたの罪は消えない。だから、身を以って罪を贖いなさい。身を粉にして、ぶっ倒れるまで...なんて、ちょっと厳しいかな。
少し平たく言えば、私は、自殺をやめろって言わない。ただ、ほんとにボロボロになるまで、自殺を延期しなさいって言ってるの。つまり、執行猶予ということね。その間は、私の手伝いをしなさい。この司法取引に同意しますか、被告人、何とか信(しん)くん」
「いや、俺はもうボロボロ..息を吸うのもやっとなんだけど..それに、何とか信じゃなくて山口信(まこと)だけど..」
「ごめんなさい。山口信くん、ちょっと周りを見てごらん。爺ちゃんや婆ちゃんばっかり。あの人たち、これからどうやって生きてゆくの。あなた、死を目前にしているというけど、あの人たち、生きたいのに、どうしようもなく死と向きあっているのよ。あなたはまだ動けるでしょ。岬の絶壁に登る元気があるのなら、まだまだ動きなさい。爺ちゃんや婆ちゃんを病院に運んであげたり、ご飯を作ってあげたり、田畑を耕したり、魚を釣ってきてあげたり、お話を聞いてあげたり..それから飛び込みなさい」
「今までに犯した罪は数え切れんほどだ。これをすべて贖えってか」
「すべてとは言わないわ。でも、あなたにはまだすべき事がたくさんある。やれる」
「そう言われてみれば、そんな気になってくるものだな。判事殿、ありがとう。ひとつ、やってみることにする」
「信くん、私は一人でこっちに引っ越すことにしたの。ていうか、出戻りということね。実家の離れが空いてるからそこを拠点にする。信くんも来てもいいよ」
信は思った。「どうせ残り少ない、軽い命だ。人助けなどと難しいことを考えなくても、我が身が朽ち果てるまで動き回ればいいだけだ。あとで閻魔大王に会うのが楽しみだ」
隠岐の海はもうとっぷりと暮れていた。
二つの影はそっと寄り添った。
鯔(ぼら)が戻り船を祝福するようにぱちゃんと跳ねた。
明日も晴れそうだ。
伽耶雅人 著    
(注)これはフィクションである。過去あるいは現在においてたまたま実在する人物、団体、出来事と類似していても、それは偶然に過ぎない。
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後書き: それからの二人
 
紀美子は近所の町医者の協力を得て、老人ケアの活動を始めた。
この町医者(院長先生)は信と紀美子にとっては子供のころからの「かかりつけ医」だった。
「困ったことがあったら、何でも相談に来なさい」と言ってくれたが、決して羽振りが良いわけではなかった。患者は殆んどが僅かな年金で暮らしている老人たちだった。
紀美子は実家の離れを活動の拠点にした。法的な問題あるかもしれないが、ケア活動をしつつ介護の資格を取ろうと日夜頑張っている。院長先生が(生活費など)当面の資金援助を申し出てくれたが、辞退した。
当面の資金は信の(リュックサックの中の)茶封筒に入っている現ナマだけだが、節約すれば、暫くは大丈夫だろう。
信は「胸がときめいてしようがない。俺はそろそろ逝くぜ」を口癖にしながら、紀美子の手伝いに精を出している。
二人は「つかず離れず」のあいまいな状態を続けているが、信の体調は(紀美子という存在あってゆえか)決して最悪ではない。勿論、進行癌で他にも転移しているだろうゆえ、もう回復など望むべくもないが..とにもかくにも「幕引き前の一芝居!」と見栄を張って頑張っている。
先日、二人が老人に付き添って医院を訪問したとき、院長先生、ちらっと紀美子を見て、信に小声で「美人はいつ見てもええもんじゃのう。お前さん、知らんやろが、男の脳ちゅうもんは、美人を見るとのう、ドパーとエンドルフィンちゅう脳内モルヒネを出すもんやて。でも、誤解すなよ、モルヒネちゅうても、決して麻薬やないでな。まあ、快感ホルモンちゅう感じやて。これが血流を促して、男は元気になって、若返るんや。病気も治る。わしの目はいつも美人を追っかけとおる。ボケ防止やて。とにもかくにも、美人はそれだけで人助けしよるんじゃ」と「高説」を垂れて得意顔。そばにいた看護婦はふくれっ面だったが。
信は院長先生に(男の目が美人を追うなら)「女も同じか」と訊いた。
それに答えて曰く「ちょこっと違うな。この美男のわしを見ろや。一生、女を追っかけっぱなしじゃが、女から追っかけられたことは一度もありゃせん。一般に、女は男ほど異性に対して積極的ではないでな。男を追っかけるより、男に追っかけられるほうが好きのようじゃのう。まあ、それでちょうど世の中はええ按配なんやな。ところで、唐突じゃが、わしの見立てでは、あんたの連れあいはあんたにぞっこんやで、ずっと可愛がってやるんやど」と。信は、それを聞いて、胸がぐっとなった。
「あんたの連れあい」か、いい響きだ。今更とは言え、できれば「幕引き」の時間を遅らせたい..
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