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ビーズ
(パミールのはてに)
 
十五

焼いた魚を二人で食べた。
きのうの牛肉缶の残りのたれをソースにして久しぶりの贅沢だった。 新鮮な魚のおかげかアンナも少し元気になった。二頭の馬は川べりで草を食べていた。
ビーズはアンナに薬を飲ませ、足を温め、腰、肩を指圧した。熱もかなり下がってきたようだ。 まだ陽はあるが、今日はここで野宿することにした。アンナに無理をさせたくなかった。 ビーズはピストルを持ったまま寝た。朝冷え時は毛布一枚では寒かった。 ビーズはアンナを抱いて温めた。
朝早く、アンナが何も言わず出発の荷造りをし始めた。 「アンナ、大丈夫か。どうしたんだ」
アンナは目に涙を溜めて答えた。 「ビーズ、私はあなたを殺しあいに巻き込んでしまった。最初の約束を破ってしまった。 あなたに申し訳ないと思っている。一晩、思い悩んだ。 あなたと私は別の世界で生きる人間だと、、ここで別れましょう。 私はパミールに帰る、あなたはもとのキルギスに、、」
「アンナ、何を言うんだ。あの時、軍用犬もいたし、戦わなければ きっと二人とも捕まって殺されていたよ。だから、アンナ、君は俺を助けた。 俺も君を助けた。俺たちは同罪同犯だ。日本語では「同じ穴の狢」というんだ。 待てよ、ちょっと違うかな。とにかく、生きるも死ぬも、地獄に行くのも一緒だ。 しかし、やっぱり俺は医者だ。もう人殺しはしたくない。これ以上、人殺しはやめよう。 殺さず、逃げよう。そして、助けよう」
「ビーズ、一緒にいてもいいの?」
「勿論だ。死がふたりを別つまでって約束したじゃないか」
「ありがとう。あなたのためなら私は死ねる」

朝が来た。ふたりはブルガを目指し、さらに東進を続けた。道は山と谷の連続だった。
このまま進めば、南北に走る国道にぶつかる。 それを北か南に進めば、ブルガの町に着くはずだ。 東進を続けるうちに若いアンナはすっかり元気になった。 それでもビーズとの相乗りをやめなかった。 相乗りされる馬にはいい迷惑だが、ゆっくり進むぶんには文句はあるまい。
4日間、山中を東に進んだ。ところが幾ら進んでも国道が出て来ない。
ビーズは焦ってきた。道に迷ったのか。
とにかく、東に進むしかない。焦りを感じながら進むうちに小さな集落に差しかかった。
集落の入り口に、日本の神社の鳥居のようなものがあった。 その鳥居に三人の男が首吊りになっていた。ビーズの顔から血の気が失せた。
自分と一緒に馬の背に座っているアンナもおそらく同じだろう。
逃げようと思う前に集落の中から人が湧いて出て来た。 彼らは銃を持ち、ビーズとアンナに部落の中に入るよう手招きしている。現地語で何か叫んだ。
アンナが同じく現地語で何か答えた。鬼のような髭面の男たちがいっせいに笑い出した。
彼女が更に何か言い足した。それに対し、彼らは口々に何やら喋りだし、 両手をあげて喜びの表情を見せた。アンナがビーズに説明した。
「私たちが政府軍と闘って、敵のトラック三台を叩き潰して逃げてきたと話したら、 彼ら笑い出した。信じてないようね。それで、この人はお医者さんだと話したら、 それは神の思し召しだ。ここには病人や負傷者が多いので、是非助けてくれと言っている」
「OK、協力する。ただ、首吊りの人たちは何だ。何であろうと、取り外して地に埋めてやって欲しい」
アンナが話すと、彼らは目を吊り上げて声を荒げた。
「こいつらは政府軍に寝返って、味方を売った爬虫類だ。 白骨になるまで晒しものにしてやると言っている」
ビーズはしばらく黙っていた。首吊り男たちも確たる主義や思想で政府軍についたわけではなかろう。 人間の弱さゆえだろう。恐怖か、些細な欲得か。 だが、味方を売ってしまったことは、取り返しのつかないことだ。 ビーズはぶらぶら揺れる死体の顔に苦悶のあとを見た。 もう許してやってほしい。とにかく、このまま放っておくことは出来ない。

ビーズは髭面に向かって、「晒しものは良くない。死人を晒しておけば、死体に蝿がたかる。 その蝿によってチフスやコレラが広がる。地に埋めるか、焼いてしまうか、 それがいやなら犬にでも食わすべきだ。もしあんたの親兄弟がああなっていたら、 あんたはどう思うか」と四苦八苦のロシア語で話した。 アンナが即座にビーズのロシア語を現地の言葉に訳そうとした。
髭面はアンナを制し、正確なロシア語で「分かった。地に埋めよう。 ただ、交換条件というわけではないが、ここに暫し残ってくれ。 医者はここではアラーの次に貴重な存在だ」という。 大袈裟だと思ったが、ビーズは了解した。
集落の中に入って驚いた。傷ついた者がごろごろしていた。
確かにアンナが言うように、ここでは死ななくてもよい者が死んでいる。
「見ての通りだ。1週間前、政府軍が無防備の村を襲ってきて、村人を生け捕りにした。
数人の男が殺されたが、残りの多くの者は足や手を斬り落とされた。 若い女は皆連れ去られた」という。同じタジク人同士でここまで残酷になれるのかというほど残酷だった。
手や足を切り落とされたうえに、顔や胴にも深手を負っている。 耳や鼻をそぎ落とされたり、目を突かれたり... 
いずれかの時のために写真を撮っておいた。
まともな薬品がないので、ヨーチンで間に合わせている。 斬り落とされた手足は白い骨が飛び出しており、肉は腐敗臭を発している。 蝿がたかっている。その部分は当然壊死し、腐敗している。 もう一度切り直す必要がある。すぐに手術を始めることにした。
川の水を煮たぎらせ、メスやのこぎりを消毒し、すべての手足を縛り上げる。 それでも暴れる危険があるから、2〜3人の男に手足を押さえつけさせる。
その男たちも一方の腕か脚を失っている。
せめてモルヒネでもあれば(それがなければ、麻薬でも)と思うが、 ここにはないという。ないものは仕方がない。
砥石のような石鹸で手をよく洗い、患者の切除予定部分を入念に洗い、 マークをつける。強いゴムバンドでその部分の血止めを施す。いよいよ切除開始。拷問時のような絶叫。
アンナは必死でビーズを手伝う。ビーズの汗を拭き、患者の震える腕を渾身の力をふりしぼって押さえつける。 ビーズは鮮やかな手つきで肉を切る。
出来るだけ上皮組織を残して肉を切る。肉の収縮を待って、骨を切る。
患者の顔は土気色に変わる。
気を失ってくれればその方が良いが、激痛のため気を失うことなく、絶叫、悶絶を繰り返す。
アンナは汗と涙にまみれて患者を励ます。ビーズは針と糸で肉を縫う。 皮膚の乏しい肉は縫いにくい。これに長い時間がかかる。 貴重な消毒薬を使う。綿で手術部分を覆う。
患者はぐったりしている。水を飲ませ、濡れタオルで体を拭き、二重の毛布で保温する。 あとは患者の回復力しだいだ。綿は一日に二度は取り替えねばならない。 煮沸した水で患部をきれいに洗い、消毒薬を使う。大量の抗生物質がほしい。
同じような患者が何十人もいた。
あっという間に、医療品ケースの底が見えてきた。多すぎる患者数に対して焼け石に水だった。 勿論、注射針は使い回しせざるを得ない。ビーズは乏しい医薬品を薄く延ばすように使いながら、 最低必要な医薬品リストを作った。
集落の男達を呼び「いま私はここを離れるわけにはいかない。 ブルガのコマンジールにこのリストを渡して至急、医薬品と医療器を貰って来てほしい」と頼んだ。

男達はブルガと聞いて顔を見合わせた。
ビーズは「どうしたんだ。ブルガはここからそれほど遠くないはずだが」と顔を向けた。
「とんでもない。ブルガは政府軍の支配地域ヴァルナの向うにある。 今、ヴァルナを越えてブルガに行くのは至難の業だ。 それに、あんただから話すが、同じイスラム教徒でも、我々トプチャクはブルガの連中とは別の種族だ。 分かり易く言えば、我々はジンギスカンの子孫で、ペルシャ系のブルガとの間で昔から殺し合いを繰り返している。 あんたと一緒にいるアンナはペルシャ系だ。 あんたが医者でなかったら、彼女はここの男たちの慰み物になっていたところだ。 勿論、あんたはこの場で首を刎ねられていた」
ビーズは、山岳に棲む人々は一つの谷ごとに部族国家を構え、 部族間の争いが絶えないと聞いたことがある。 それは食料の乏しい山国の人々が、自然のうちに身につけた生き残りの術ではないかと思った。 奪いあい、殺しあい、数を減らしあうことにより、全体としての種を維持しているのだろう。
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十六

ビーズが医者でなかったら、道に迷った二人はこの村で殺されていたかもしれない。
だが、「死」に慣れきってしまったビーズには、殺されるという実感も衝撃も湧かなかった。 やるべきことが多かった。彼は患者の血と肉のなかで格闘していた。 鼻を突く血の匂いが自分の体から消えなかった。 この患者たちをいかに治療するか、医薬品をいかに入手するかで頭が一杯だった。
ビーズにとって重大事は、目的地ブルガとはまったく別の方向に進んでしまい、 トプチャクという異種族の村に迷い込んでしまったこと。 そして、目的地への途中にヴァルナという政府軍支配地域を挟んでしまったことだ。 予期もせぬことだった。しかも現在、政府軍とロシア軍はそのヴァルナに集結しつつあるという。

これは、最近、首都ドシャンベなどで多発するロシア軍や政府軍を標的にした自爆テロが引き金となっている。 因みに、自爆テロの主人公の多くは女たちだという。 この国では、警察でも「他人の女」に服の上から触れることは許されない。 爆弾を胴に巻き付け、それを上衣で隠した女が駐留軍の建物やトラックに飛び込み、自爆する。 彼女らは「カミカゼ」と呼ばれる。日本語の神風特攻隊が世界共通語となった一例だが、 あまり良い響きではない。自爆テロだ。
ただ、「女は身体検査を受けない」だけがその理由ではない。 思いつめると男より女の方が「捨て身」になる。
ビーズは思った。そう言えば、男は基本的には自己保存本能によって行動する動物だから、 いざという時には多くが「怯み」を見せる。 自爆するにしてもそれなりの「理屈」で武装したうえで決行する。 理屈抜きで「捨て身」になれるのは、母性本能という、男にはないものを持つ女性のほうだ。 特に、子供がロシア軍や政府軍に殺された母親は進んで自爆してゆく。

爆破テロに業を煮やしたロシア軍とタジク政府軍はゲリラ根拠地の掃討のためにヴァルナに軍を集結。 これから共同でゲリラの拠点に大攻勢を展開するという。 ヴァルナはドシャンベと東パミールの中間にあり、大河アムダリア沿いの交通の要衝である。
ロシア軍とタジク政府軍は現政権に反抗する諸勢力をひとまとめに武装イスラム(イスラム原理主義者)と呼び、 嘗ての十字軍の如く「敵地」に入ると誰彼の見境なく攻撃を仕掛けてくる。

「こういう状況の中で何をすればいいのか。何がベストか」、ビーズはしばし目を瞑っていたが、 「ふう」とため息をつくと、アンナから貰った海賊の黒い眼帯を久しぶりに着けた。
トプチャクの主だった者を集めた。「ここにアンナを残す。彼女に必要な治療方法を説明しておく。 誰か彼女をサポートをしてほしい。私には勇敢な兵士を2~3人付けてほしい。 首都ドシャンベに行き、赤十字とか国連機関などの代表と掛けあって医療用品を貰い受けてくる」
皆がこれに賛同した。ビーズは「赤十字とか国連機関など」と言ったが、確たるアテがあったわけではない。 ただ、皆を納得させるためにこれら権威ある中立機関を引き合いに出したまでだが、本人もこれにすがる思いだった。
同行者としてサラーム、ヤシク、ユーラ、ハリムという4人の若者が選ばれた。 出発にはそれなりの準備が必要で結局、出発は3日後と決定した。
アンナは「自分も一緒に行く」と言って聞かなかったが、ビーズは「二人が出て行ってしまえば重症患者を誰が看るのだ。 夫の命令だ。アンナは残れ」と黙らせた。本心は(自分のエゴかもしれないが)アンナだけは安全圏に置いておきたかった。 ただ、それから出発するまでが大変だった。
ビーズは患者の絶叫と悶絶の荒療治を終え、夜更けにふらふらになってアンナと一緒に宿に戻る。 アンナは患者一人一人の名前をあげて、その処置について詳しい指示を求める。
ビーズは患者の名前など覚えていない。 すごく眠たいが、「最初の男」とか、「2番目の」とか、「右足の男」、「白髭の男」などで識別して、 処置方法を出来るだけ分かりやすく説明する。アンナは超人的な吸収力で指示内容を理解した。
その後、アンナはシャツのボタンを外し、胸をはだけ、ジーパンのベルトを弛め、 白く艶めかしい肢体を見せつけ、ビーズを刺激する。 ランプの光でアンナの影が壁に揺れ、ビーズは我慢ならずダッシュする。 どこからこんな力が出てくるのか、自分でも不思議だった。このまま昇天してもいい。 もし昇天が許されないなら、アンナとともにこのまま奈落の底に落ちてもいい。 ところで、麻薬をやっている者もこうなるのだろうか、気が遠くなる、アンナの絶叫に誘われる...
刹那の嵐が過ぎ去ると、ビーズは昔、山寺の庫裏で見た妖怪のような影踊りをぼんやりと思い出しながら、寝入ってしまった。

村人は「アラーの次に大事な」ドクトル・ビーズに最高を食事を用意してくれた。
精力をつけるための「サソリの唐揚げ」「羊の睾丸の串焼き」「蛇の輪切りスープ」など 涙が出るほど強烈だった。勿論、こういう珍味はアンナと分けあった。 本当はアンナに完食してもらいたかったが、「今晩も頑張ってね」と無理やり半分は食わされた。 外見はともかく、味はまあまあだった。

いよいよドシャンベに向けて出発の日が来た。今夕、トプチャクを出る。
ビーズは帰宅して出発の準備をしていた。アンナが「今すぐ最後の一滴を出しなさい」という。 ビーズは吹き出しそうになったが、「あなたの子供が欲しい」という。アンナは真剣だった。
終わった後、アンナは上を向いたまま、「ビーズ、ありがとう。これで、もう思い残すことはないわ」という。 ビーズはそれほど深刻になることはないと思ったが、アンナの思いつめた顔を見ていると何も言えなくなった。 アンナの肩に手をやり、彼女の体をこちらに引き寄せようとした。
アンナは「だめ、そっちを向いたら貴重な一滴がこぼれる。それに涙もこぼれる」と泣き出してしまった。 出発のとき彼女は見送りに出なかった。

5人と7頭の馬は首都を目指した。ビーズとサラーム、ヤシク、ユーラ、ハリム。
馬を飛ばしたが、道なき道が多かった。道中の景色は緑の秘境そのものだった。高山が多い。 眼下に雲海が流れる。こんなところでアンナと羊でも飼いながらゆったりと暮らすのもいいなと思った。 あとでアンナに見せるために、ここの景色を写真に撮っておくことにした。
2〜3枚撮ったところでディスクが一杯になった。 息を吸うのももったいないほど見事な景色だった。 ビーズは予備のディスクを使ってこれを写真に収めた。 満杯になったディスクは念のためズボンの裏ポケットに隠しておいた。 ついでに電池も交換しようとしてジャンパーのポケットに手を入れたところ、 紙片とそれに包まれた一把の毛髪が出てきた。 「見送りもせず、ご免なさい。あなたが出て行く時、きっと私は泣いています。 門出に涙は禁物だから、あなたを見送りません。必ず私のもとに帰って来てください。 これは私の体の一部です。いつもあなたのそばに置いてください」

ロシア軍と政府軍は共同作戦を開始した。ヤシクの無線機に情報が入ってきた。
敵の集結地ヴァルナから東や南に向けて数個のトラック部隊が進んでいるという。 つまり、自分たちはドシャンベに着く前にトラック部隊と遭遇することになる。
年長のサラームが「ドシャンベ行きを取り止めて、トラック隊から医薬品を奪おう」と言い出した。 「ドシャンベはまだまだ遠い。敵を迂回しながらでは往復するには気が遠くなるほどの時間がかかる。 重症者を待たせたくない。トプチャクでは毎日、人が死んでいる。 どうせ敵と遭遇するなら、こちらから仕掛けて薬を奪おうじゃないか」という。
ビーズはなんとしても殺しあいは避けたかったが、ドシャンベまでの距離が見当つかず、 重症患者を放っておくわけに行かず、仕方なく「殺しあいは回避する」という条件でサラームに同意した。

彼らは即座に作戦を行動に移した。まず、トプチャク=ヴァルナ間の川沿いの国道に小穴をあけ、大量の爆薬を仕掛けた。 車や人通りがないことを確認したうえで導火線に火をつけた。 物陰に隠れ、暫く待つと「ドドーン」という大音響とともに大量の土砂が吹き飛ばされ、道路に大きな穴が開いた。
5人は遠くに離れ、双眼鏡で様子を窺った。
夕方近く、政府軍のトラック隊がその場所に接近してきた。道路の損壊に気付くと、 ゲリラの待ち伏せを警戒して兵は全員トラックから降りて臨戦態勢に入った。 間もなく攻撃ヘリが上空を旋回し、サーチライトがゲリラを探し始めた。 しかし、結果は何も発見できず、道路が走行不能となったため、その夜、隊は道路脇で野営することとなった。

5人は深夜を待った。夜の二時過ぎ、河沿いの道路に軍用車が並んでいる。
予想通り車列後尾の赤十字マークのついた医療用車両には護衛が手薄だった。
サラームはビーズとユーラを指差し、その指を下に向けて振った。 「二人は川岸に降りて、そこで待機してくれ」という合図だった。
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十七

上に残ったサラームたち三人は医療用トラックに近づき、 短い三日月刀で護衛兵を刺し殺した。殺された兵は声を上げる間もなく、その場に倒れた。
もしビーズが現場にいたら、これを止めようとしていただろう。 少なくとも大騒ぎとなっていただろう。 サラームがビーズとユーラを下に降ろしたのは、それを見越してのことだった。 彼はこんな場所でビーズと「もめ事」を起こしたくなかった。
ところで、もしこの現場を目撃した者がいたら、 あまりの早業のため「おそらく人間には必殺の無痛ツボがあるのだろう。 あの三人はそのツボを突いたのだろう」と思ったかもしれない。 しかし、実際には彼らは左手で敵の口を塞ぎ、同時に右手で喉を斬った。 刺したのではなく、一瞬のうちに喉を掻き切った。もしこれが殺人でなければ賞賛に値することだが。

死人となった護衛兵を道路脇の茂みに隠すと、サラームたちは医療用トラックのフロント・フックにロープをかけ、 そのロープを谷底に投げ落とした。ユーラがロープを拾い、上に合図を送った。 上の三人は変速ギアをニュートラルにして、後ろからトラックを押した。
下のユーラとビーズはロープを引張った。 トラックは音もなく動きだし、路肩を越え、ゆっくりと谷底に落ちていった。
数秒後、トラックは「ガシャンガシャン」とけたたましい音を立てたが、 川の手前の岩にぶつかり、大破して止まった。
これからが勝負。出来るだけ多くの医薬品を出来るだけ短時間に掻きあつめ、持ち去る。 ビーズは「強盗そのものだ」と思いながら、医薬品を掻きあつめ始めた。
トラックの内部では医療機や医薬品が散乱し、思いも寄らぬことだったが二人の兵が負傷して倒れていた。 トラックの中で寝ていたようだ。寝ている最中にどんでん返しになって怪我をして、気を失ったようだ。
ユーラは医者のビーズに勝手なことをされてはまずいと「手を出すな」と叫び、倒れている兵に当て身を入れた。 そして、「ドクトル、急いで必要な薬を選んでくれ」と叫んだ。
薬品名はロシア語で書かれているため識別がむずかしい。 ビーズは手当たりしだいに掻きあつめた。他に血圧計、点滴液、注射針、メス、包帯、消毒液など、、 医療用品に飢えているビーズにとっては宝の山だった。 まもなくして上の方で兵隊の騒ぐ声が聞こえて来た。
さあ、逃げよう。サンタクロースのような泥棒袋を満杯にして皆で馬を隠した場所まで走った。 上からパンパンという銃声が聞こえて来る。政府軍兵は下に転落した医療用トラックの辺りを狙って撃っているようだ。
五人は馬の背に盗品を載せ、音を立てぬよう急ぎ足で進んだ。 川に沿って一時間以上進むと銃声も聞こえなくなった。もう大丈夫だ。
「やった。これで多くの人を助けることが出来る」ビーズは大漁時の漁夫の気分だった。
一方、政府軍兵は殺された戦友の死を悼み、泣いた。そして復讐を誓った。
道路の損壊部分は急ピッチで修復された。 憎しみに燃えたトラック部隊は急拵えの橋道を越えて先を急いだ。
そのようなことは知る由もないビーズたちは貴重な「戦利品」を確実にトプチャク村に持ち帰るべく、 敵との遭遇を避けて昼は動かず、夜に並足で(馬をゆっくり進ませて)で道なき道を進んだ。
その結果、トプチャクの近くまで辿り着くのに三日かかった。 安全のため、無線機は電源を切ったままにしていたので、トプチャクの様子が分らなかった。 ビーズは村が目前だと思うと、胸が張り裂けんばかりだった。 アンナに早く会いたい。あと一息だ。 馬さえも、自分たちの村の匂いを嗅いだのか、知らず知らず急ぎ足になっている。 目を凝らして山の彼方を見た。まだ何も見えない。
ただ、向かう先に不吉な煙が立っている。
五人は馬を降りて歩いた。部落が見えてきた。物音がしない。
ヤシクが小声で「俺が様子を見に行く。あんたたちはここで待っていてくれ」と言い、 物陰を利用して村に近づき、中を窺った。

ヤシクが見たのは、あちこちに転がる死体だけだった。
彼は呆然として歩き出した。残り四人もヤシクにつられて村に入った。
人馬の死体、焼け落ちた家、くすぶり続ける家。
ビーズは息を呑んだ。アンナはどこだ。アンナはどうした。
見える片目を血走らせてアンナを探した。焼け残った家の屋根裏からうめき声が聞こえて来た。 これは、手術してやった「白髭」ではないか。アンナはどうした。
アンナを知らないか。
白髭が言うには、「二日前に政府軍のトラック部隊が攻めて来た。大勢だった。 アンナは必死で病人や怪我人を守ろうとしてくれた。わしを天井裏に押し込んでくれた。 わしの体が小さかったから、うまく収まった。政府軍兵は家捜しを始めた。 奴らは村人を見つけしだい殺した。アンナは重病人を屋根の上にも匿ったが、 空のヘリから通報されて、結局、一人残らず殺されてしまった。 アンナは軍幹部の前に引き出された。政府軍の大佐がアンナに手招きした。 大佐は彼女の体に触ろうとした。彼女は腰に隠した小刀を抜くと、 その大佐に踊りかかった。大佐の腕に小刀は突き刺さった。
軍兵が彼女を取り押さえた。兵の一人が彼女を射殺しようとした。 しかし大佐がそれを制した。彼は腕に突き刺さった小刀を引き抜くと、 その小刀で彼女の服を引き割いた。 アンナに『俺の女になるか』と訊いた。彼女は答える代わりに大佐の顔に唾を吐いた。 大佐はにやにやしながら、部下の兵にアンナの脚を開かせ、彼女の下腹部を小刀で下から突いた。 真っ赤な血がほとばしった。アンナは『ビーズ!』と叫んだ。 ここには、もう生きている者はいない。 わしも死ぬ。アラーのもとに行く。 お医者さん、本当にありがとう。あなたにアラーのお加護を」
白髭は目を閉じた。口も体もぼろぼろだった。 もともと重傷の彼が今日まで生き延びたのが奇跡のようだった。

ビーズはアンナを探した。部落の水場の近くで死んでいた。
衣類を剥がされ、乳房と下腹部はずたずたにされていたが、 政府軍の兵たちにも心はあったのか、アンナの顔は汚されていなかった。 その黒髪に、白い小さな花が刺されてあった。
彼女は、今日ビーズが来るのを待っていたかのように微笑んで死んでいた。
ビーズは部落の傍の野原に穴を掘って彼女を埋めた。
ビーズはアンナを埋めたまでは覚えているが、そのあとは覚えていない。

彼はその場にずっと立ちつくしていた。
ヤシク、ユーラ、サラーム、ハリムの四人がビーズの立っている場所に走り寄ってきた。
「ビーズ、攻撃ヘリがやって来る。急いでこの場を離れるんだ。早く!」
ビーズは呆然としたままだった。彼らはビーズの腕を取ってこの場から引きずって行こうとした。 ビーズは抵抗した。アンナを埋めた場所から離れようとしない。
二機の攻撃ヘリが旋回しながら彼らの方に近づいてきた。

ユーラが「ヘリがすぐ近くに来ている。今すぐ逃げろ」と叫びながら、 二機のヘリに向かって撃ち始めた。他の三人も援護射撃を始めた。
ヘリが頭を下げ、攻撃態勢に入った。回転式の機関砲が火を吹いた。瞬間、ユーラの体がぼろぼろになった。
ヤシク、サラーム、ハリムは木立の影に隠れた。ビーズはそのまま立ちすくんでいる。
三人は前と後ろから攻撃ヘリに挟まれた。
後ろに回ったヘリからは彼らの姿は丸見えだった。 耳をつんざく機銃掃射の音。三人の男がいた場所には血と肉片だけが散らばっていた。
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