思い出の地 金官伽耶 中林速雄(大07)
前置き
諸兄姉の作品を興味深く拝読しています。「チェチェン挽歌」には殊の外感銘を受けました。 その作者の名が「伽耶」とあったのでふと思い立ち昨夏参加した「古代日韓交流セミナー〜伽耶」の 現地研修の感想文(主催団体の会報に記載)を投稿する気になりました。
思い出の地 金官伽耶
私は昭和11年、慶尚南道城陽面で生まれ、父の転勤で国民学校入学は巨済島の長承浦、 程無く梁山に転校、夏休みの終わりに釜山に移り、4年生になる前に金梅に転校して、 終戦後大阪に引揚げました。両親は京城(ソウル)にも住んだそうですが、 私の「朝鮮」は慶尚南道だけ。思えば、全て「伽耶諸国」の領域です。 このセミナーで「伽耶」という呼び方を認識しました。私の知識は「任那」です。 そして金海が任那の中心だったと教えられました。
今度の現地セミナーに参加したかった理由は、一にかかって思い出の地を専門家の解説を聴きながら廻れる ということに尽きます。朝鮮が植民地だった昭和20年当時、金海の王墓、王妃墓は、一応柵で囲われ、 立ち入りは禁止、番人がいました。今度廻って見たように、古墳の円丘は沢山あり、 それは子ども達の格好の遊び場でした。ある時、何人かで勇気を奮って柵をくぐり王墓の傍に行きました。 年取った番人は、長煙管を口に咥えたまま椅子で居眠りしていました。私達ははじめオズオズ、すぐに図々しく、 上に上がって「バンザーイ」と叫びました。とたんに目を覚ました老人が、 「コラア!」と日本語で喚き駆け寄って来ました。私達は一目散に駆け下りて逃げました。 誰も捕まらずに済みました。
さて夕食の席で、得々とその話をした途端、「馬鹿者!」と父に一喝されて縮み上がりました。 「あのお墓は、朝鮮の人にとっては神武天皇の御陵のようなものだ。 そこに土足で上がるとは不敬にも程がある!」以来、二度と足を踏み入れず、 そこは聖域だと敬遠したことを、ほろ苦く思い出します。
十数年前、引揚げ以来はじめて金海を訪れた時、王陵、王妃陵が 見違えるように整備されていたのに感心しました。そして今回、更に感心したのは、 古墳群や博物館が立派に整備されていることでした。「任那」ではなく、「金官伽耶」の中心として。
博物館といえば、行く先々の「伽耶諸国」の故地に、それぞれ立派な博物館が在ることに、 嬉しい驚きを禁じ得ませんでした。せっかくの朴先生(現地セミナーの講師、慶北大学教授の朴天秀氏)のお話をよそに、展示品やパノラマに見入って、 遅れてしまうことがしばしばでした。朴先生は本当にすばらしいガイドをしてくださいました。 大阪大学で学ぱれたと聞きましたが、はじめ時々 ? と思えた日本語が、 いつの間にかすっかりよく分るようになっていました。
なにより、あの熱の籠った話しぶりに圧倒されました。学識と人柄と情熱と、 そして私にはもう遠くなった若さとが、先生の魅力です。ありがとうございました。
その大阪大学の考古学教室の学生達が飛び入り参加したのは愉快でしたね。 それ以上に、ソウルに帰省中の梁君がずっと一緒だったのは嬉しいことでした。 初対面の私でさえ、すぐに、ああ、いい青年だなと感じましたから。名古屋で再会するのが楽しみです。 そして、これらあれこれをセッテイングしてくださった後藤さんはじめ事務方の皆さんに拍手を送ります。 ありがとうございました。
今回、慶尚南道を東から西へ横断して、つくづく感じたのは、山々の緑の深さです。 昔「朝鮮の山は禿山」でした。今、「韓国の山は緑豊か」です。たしか朴大統領の時代に「国中を緑に」と いう運動が、政策として実行されたと聞いています。その結果がこれなら、毀誉褒貶さまざまな 朴正熙(パクチョンヒ)の、間違いなくプラスの業績の一つだと思います。経済復興と共に。
5日間、「お勉強]もさることながら、私は彼の国の自然の美しさを再認識していました。 山も川も海も田畑もです。韓国には何度も行っていますが、たいていは賑やかな街中や観光名所で、 美味い酒を飲み、旨い料理を食うのが目的です。それはこれからも変りませんが、この次はもっとあちこ歩きたいという気がしています。なんと言っても生まれ育った土地ですから。
後書き
このセミナーは第2シリーズ「百済」が始まっていて仕上げの現地研修で7月に故地を廻ります。 ソウルから光州まで5日間の旅が楽しみです。
以上
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