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「ZAGREB ザグレブ」   山本寧雄
ザグレブの印象はと聞かれると、“丘のきれいな街だ”と答えることが多い。 晩秋から初春にかけての4ヶ月ほどを除けば、街は樹木が茂って緑に包まれ、色とりどりの草花が溢れる。 標高1030mのメドヴェドニツァの山並みが北で衝立のように東西に伸び、 その南斜面からいく筋もの丘が市街に向かってなだらかに下り、その丘陵には赤屋根の集落が点在している。 丘は旧市街の政府中枢ゴルニ・グラド地区とクロアチア・カトリック本山カプトル地区まで続き、 その直ぐ下からは新市街がサヴァ川に向かって広がる。
カトリック教会と修道院 丘の上の旧市街では14世紀以降の建物が主だが、下の新市街の中心部は19世紀から20世紀初めにかけて建った 頑丈な石造りの建物である。いたるところに大小の公園と緑地と青空市場の広場があって、 そこを縫って色とりどりの路面電車が縦横に走り、全体の雰囲気からしばしば小ウィーンと言われる。
第一次世界大戦までのザグレブはオーストリア・ハンガリー帝国の一地方都市で、アグラムとドイツ風に呼ばれ、首都ウィーンの影響を大きく受けていたのだ。
この辺り一帯は、紀元前1000年頃からイリリヤ人が先住、ついでケルト人が加わり、 そこにローマ人がやってきて帝国属州パンノニアに組み入れた。5世紀には東ゴート人たちが通り過ぎ、 アッティラ大王に率いられたフン族も一時は出没した。 これらの丘にスラヴ人たちが砦を築いて住み始めたのは8世紀頃と見られている。
11世紀末カプトルの丘にザグレブ司教座が開かれて、クロアチアは西欧カトリック世界に組み入れられる。 それから100年以上の歳月をかけ大聖堂が今の場所に完成したのは13世紀初めだが、 半世紀もしないうちにモンゴル軍に蹂躙され、建物は破壊されてしまう。 16世紀にはオスマン・トルコに対する守りとしてその周囲に頑丈な石の防壁と砦を備え、 要塞はよくその任に耐えたが、大聖堂は再建後も何度かの大火と1880年の大地震により壊れ、 今のネオ・ゴシック様式で姿を再び現わしたのは20世紀の初めである。
1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が倒れた後のユーゴスラヴィア王国時代と、 1945年からの旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国時代は、首都がベオグラードにあり、 ザグレブは文化・芸術の香りのする静かな地方都市という感じであった。京都と姉妹都市関係を結ぶのは1981年、 いずれも“地方の古都”という共通項からの提携である。サヴァ川を越えて街が南に広がったのは、 第二次世界大戦後の社会主義建設の時代であり、高層アパートの大団地がサヴァ川両岸にいくつも現れた。 そこに多くの若い世帯が希望に溢れて入居し、子育てをしながら厳しくもゆったりした社会主義時代を 生き抜いてきた。今やその子供たちは巣立って、彼らは老い、そこで穏やかな年金生活を送っている。
1991年ユーゴ連邦からの分離独立で新生クロアチア共和国の首都になったザグレブは、 従来の芸術・文化・学問・宗教の香りに加え、一国の首都として政治・経済の中枢機能を急速に整え、 外国公館や国際機関代表部も増えている。19世紀半ばに僅か3万人足らずの人口だったのが、 いまや100万人に迫る勢いで、全国から有為の若者達が集まり、落ち着いた佇まいながらも華やいで 活発な中欧の都市になっている。国際機関の評価で、世界の暮らしやすい街100選というのがあるが、 ザグレブはその一角を占めている。

地図を見れば、ザグレブはパンノニアまたはスラヴォニア平原の西端にある。 ここからさらに西北に向かうと山が多くなり、直ぐにアルプスの大山塊に突き当たる。 そのアルプスを水源とするサヴァ川は、街の南部を西から東に流れ、ザグレブを過ぎるとボスニア国境に 沿ってスラヴォニア平原を東進、ディナール山脈やボスニア山地の水流も集めながら、セルビアのベオグラードでドナウ河に合流した後、遥かルーマニアまで流れ、そこで黒海に注ぐ。
鉄道が開通したのは1862年で、現在では、アドリア海岸や内陸の国内諸都市と結ばれているほか、 近隣のリュブリヤナ・トリエステ・ヴェネツィア・ウィーン・ベダペスト・ベオグラードなどと繋がり、 それらの都市からさらに欧州の各都市へと繋がっている。ザグレブから見ると、 ヴェネツィア・ウィーン・ブダペスト・ベオグラード・サライェヴォがいずれも350kmほどの距離にあり、 陸路で気軽に出かけることができる。リエカまでの高速道路140kmが開通した現在、 ザグレブからアドリア海の岸辺までは1時間半足らずのドライヴで楽に行けるようになっている。 中部ダルマチア海岸の中心都市スプリトまで高速道路約400kmも2006年に開通し、 今や3時間半ほどで行くことができる。高速鉄道も建設が始まっており、 アドリア海の港町リエカからザグレブを経てクロアチア東端のドナウ河まで 短時間で行けるようになる。

拙宅のバルコニーから見た向かいの丘 ザグレブの丘に立って遥かな時代に思いを馳せると、古代ローマ属州の集落アンダウトニアの静かな暮らし、 ここを駆け抜けた東ゴート人たちのざわめき、北方からはるばるこの美しい丘陵に辿りついた 最初のスラヴ人たちの賛嘆の声、モンゴル軍の馬蹄の響き、サヴァ川対岸に陣取ったオスマン軍の酒宴の賑わい、 ハンガリー人やオーストリア人たちの往来、独立を願うクロアチア人の闘いなどが、 目の前に次々と浮かび上がり、そのざわめきが聞こえてくるようだ。 (了)
                 
ザグレブの丘の寓居にて   
(写真について:
拙宅のバルコニーから見た向かいの丘の写真をここに添付 しておきます。上側の写真の建物群はカトリック教会と修道院です。

拙宅の住所は、十字架の向こうの上の方 というほどの意味です。
実際、下の教会から見れば拙宅は真上の丘にあります。
当地の伝説では、十字架の向こうの山には魔女たちが住み、 夜な夜な額を集めて何事か相談しているようです。
21世紀の現在、近所に魔女はいませんが、修道院の尼僧 たちが三々五々住み、祈りと勤労の清浄な日々を過ごして います。


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