イーヤ先生の思い出 中林速雄(大07)
嶋田先輩の「外大の思い出」を読み、プレトネル、イーヤ両先生を懐かしく思い出しています。
といっても、プレトネル先生については、その堂々とした風貌と見事な日本語くらいのもので、
個人的な思い出はこれといってありません。でもイーヤ先生には、アレやコレや・・・
先生には高槻で会話の授業を受けました。もっとも、「先生」と呼ぶのは、面と向かって呼びかける時だけで、 大体は「イーヤさん」でした。だから、ここでもそう書いたほうがシックリします。
イーヤさんで真っ先に思い浮かぶのが、あの体型です。昭和29年に入学して間もなく、 我々は駅が校舎に近い阪急で通うのに、イーヤさんはなぜ遠い国電(JR)で来るんだろうと話題になったことが あります。すると誰かがニヤリ、阪急じゃあ改札口を通り抜けられないのさ、国電は少し幅が広いので、 辛うじて通れるからな。一同ドット笑って納得、でした。勿論冗談に決まってますが、 いかにも「らしい」話だったのです。
ギリシャ彫刻のように彫りの深い整った顔立ちで、きっともっとホッソリしていた娘時代は 典型的な白系ロシア美人だったに違いないイーヤさんが、なぜこんなに肥満したのか、 ある日その謎が解けました。
夏休み中だったか、理由は思い出せませんが、何人かで上八の教員宿舎にイーヤさんを訪ねたことがあります。 その時ご馳走になったトーストが衝撃的でした。真っ白い分厚いパンに、同じくらい厚くバターを塗り、 さらにもっと厚くジャムを塗って ”パジャールスタ!”
いやァ感激でした。なにしろ、薄っぺらい、あまり白くもないパンに、 時々はマーガリンをひと塗りすることもあるというのが当たり前の貧乏学生でしたから。 そして肉もジャガイモもゴロゴロのボルシチです。”フクースナ!”を連発、 ”オーチェン スパスィーヴァ”と最敬礼しての帰り道、なるほど、あれが毎日の食事なら、 イーヤさんが太るのは当たり前だ、と頷けたのでした。
この時誰が一諸だったか、ずっと忘れていましたが、一人は1年上の所川さんだったと分かりました。 先日(2010年6月19日)のアブローラの会で二年ぶりに会った所川さん(今は名前が変わって松田さん)との 四方山話の中で、話題がイーヤさんに及ぶと、「憶えてる?あのトースト!」で盛り上がりました。 これを読んで、そうそうあの時、と思い出した同級生諸君がいたら、どうぞ私にメールを下さい。
この時の同級生は、名簿では「大6」で、私は「大7」です。つまり一年落第したからですが、 その理由が、イーヤさんの「会話」でした。単位が取れず、1年を二度繰り返すハメに陥ったのです。 思い出せば恥ずかしいのですが、当時私は個人単位の学生団体(日本学生報道連盟)に入って、 京阪神の民放局から放送される学生自身のラジオ番組を取材、制作、アナウンスすることに熱中し、 ロクに授業に出ていませんでした。それでも、試験さへ何とかパスすればと、浅はかにもタカを括っていたら、 思いもかけない「落第」の通知です。「留年」などというカッコをつけた言葉はまだ使われていなかった当時、 落第は最高に恥ずかしいこと、それ以上に、1年余分に通うのでは授業料も交通費も大損です。 殊に我が家は住吉神社の近くで、難波、梅田と2回乗り換えて高槻まで、1時間半の道のりでしたから。
大慌てで主任教授の岩崎先生のお宅を訪問、何とか追試で進級させて頂けないでしょうかと お願いしたのですが、先生がおっしゃるのに、イーヤ先生は、試験の成績が合格点でも、出席日数が不足では、 絶対に単位は与えないという方針なので、こればかりはどうしようもない、しかし中林君、これもイイ教訓だ、 長い目で見れば、1年の落第はきっと君の人生にプラスすることもあるだろう。 気を取り直して、これからは真面目に通って勉強し給え。 今思えば、先生のおっしゃる通りですが(同級生が倍増しました)、 19歳目前の私には、目の前真っ暗、トボトボと夜道を帰ったものでした。
何を隠そう、私自身はクラスの中でもイーヤさんには可愛がられている方だという妙な自信が あったものですから、ショックは余計大きかったのですが、そんなこととは無関係な先生のキッパリした 方針には、口惜しいけど負けたという気持ちにもなりました。そして更に2年間続いた高槻通いで、 「会話」だけは何とか最低出席日数をカバー、イーヤさんから 「ガスパジン ナカバヤシはもっと勉強すれば、もっと優秀な筈です」と、 励ましとも失望とも取れるおコトバを頂きながら、どうやらこうやら進級することが出来ました。 余談ですが、翌年から同級生達(大7です)は年度末になると、オイ、チューリン(私の渾名です)、 上がれたかと訊くのが常でした。つまり、私が進級出来たのなら自分も安心だというわけです。
そうそう、もう一つ口惜しかったことがあります。遠い高槻に通わされて3年、 やっと後期は家から近い上八になったと喜んだら、何のことはない、 その年32年には上八本校の全面再建が成り、全員高槻から引き上げとなってしまいました。 まるで、長い行列の最後尾に並んで延々と待ち、やっと順番が来たところで気がついたら、 後ろには誰もいなかったという気分だったことを思い出します。
辛うじて(本当に辛うじて)卒業してから何十年、転勤続きの職場から開放されて、 ようやく同窓会にも出席する機会が増えました。イーヤさんとは遂にお会いせず終いでしたが、 諸先輩方のお力で、思いがけず苦境にあった老後のイーヤさんに、 心強い支援をして上げることが出来たと知り、ひそかに安堵しました。 その支援活動がアブローラを発足させるキッカケにもなったと聞けば、 それもイーヤさんの図らざる恩恵かとも思えて、改めてご冥福を祈ります。
会員の作品展示室・トップページ(ここをクリックすると会員の作品展示室・トップページに移ります)
先生には高槻で会話の授業を受けました。もっとも、「先生」と呼ぶのは、面と向かって呼びかける時だけで、 大体は「イーヤさん」でした。だから、ここでもそう書いたほうがシックリします。
イーヤさんで真っ先に思い浮かぶのが、あの体型です。昭和29年に入学して間もなく、 我々は駅が校舎に近い阪急で通うのに、イーヤさんはなぜ遠い国電(JR)で来るんだろうと話題になったことが あります。すると誰かがニヤリ、阪急じゃあ改札口を通り抜けられないのさ、国電は少し幅が広いので、 辛うじて通れるからな。一同ドット笑って納得、でした。勿論冗談に決まってますが、 いかにも「らしい」話だったのです。
ギリシャ彫刻のように彫りの深い整った顔立ちで、きっともっとホッソリしていた娘時代は 典型的な白系ロシア美人だったに違いないイーヤさんが、なぜこんなに肥満したのか、 ある日その謎が解けました。
夏休み中だったか、理由は思い出せませんが、何人かで上八の教員宿舎にイーヤさんを訪ねたことがあります。 その時ご馳走になったトーストが衝撃的でした。真っ白い分厚いパンに、同じくらい厚くバターを塗り、 さらにもっと厚くジャムを塗って ”パジャールスタ!”
いやァ感激でした。なにしろ、薄っぺらい、あまり白くもないパンに、 時々はマーガリンをひと塗りすることもあるというのが当たり前の貧乏学生でしたから。 そして肉もジャガイモもゴロゴロのボルシチです。”フクースナ!”を連発、 ”オーチェン スパスィーヴァ”と最敬礼しての帰り道、なるほど、あれが毎日の食事なら、 イーヤさんが太るのは当たり前だ、と頷けたのでした。
この時誰が一諸だったか、ずっと忘れていましたが、一人は1年上の所川さんだったと分かりました。 先日(2010年6月19日)のアブローラの会で二年ぶりに会った所川さん(今は名前が変わって松田さん)との 四方山話の中で、話題がイーヤさんに及ぶと、「憶えてる?あのトースト!」で盛り上がりました。 これを読んで、そうそうあの時、と思い出した同級生諸君がいたら、どうぞ私にメールを下さい。
この時の同級生は、名簿では「大6」で、私は「大7」です。つまり一年落第したからですが、 その理由が、イーヤさんの「会話」でした。単位が取れず、1年を二度繰り返すハメに陥ったのです。 思い出せば恥ずかしいのですが、当時私は個人単位の学生団体(日本学生報道連盟)に入って、 京阪神の民放局から放送される学生自身のラジオ番組を取材、制作、アナウンスすることに熱中し、 ロクに授業に出ていませんでした。それでも、試験さへ何とかパスすればと、浅はかにもタカを括っていたら、 思いもかけない「落第」の通知です。「留年」などというカッコをつけた言葉はまだ使われていなかった当時、 落第は最高に恥ずかしいこと、それ以上に、1年余分に通うのでは授業料も交通費も大損です。 殊に我が家は住吉神社の近くで、難波、梅田と2回乗り換えて高槻まで、1時間半の道のりでしたから。
大慌てで主任教授の岩崎先生のお宅を訪問、何とか追試で進級させて頂けないでしょうかと お願いしたのですが、先生がおっしゃるのに、イーヤ先生は、試験の成績が合格点でも、出席日数が不足では、 絶対に単位は与えないという方針なので、こればかりはどうしようもない、しかし中林君、これもイイ教訓だ、 長い目で見れば、1年の落第はきっと君の人生にプラスすることもあるだろう。 気を取り直して、これからは真面目に通って勉強し給え。 今思えば、先生のおっしゃる通りですが(同級生が倍増しました)、 19歳目前の私には、目の前真っ暗、トボトボと夜道を帰ったものでした。
何を隠そう、私自身はクラスの中でもイーヤさんには可愛がられている方だという妙な自信が あったものですから、ショックは余計大きかったのですが、そんなこととは無関係な先生のキッパリした 方針には、口惜しいけど負けたという気持ちにもなりました。そして更に2年間続いた高槻通いで、 「会話」だけは何とか最低出席日数をカバー、イーヤさんから 「ガスパジン ナカバヤシはもっと勉強すれば、もっと優秀な筈です」と、 励ましとも失望とも取れるおコトバを頂きながら、どうやらこうやら進級することが出来ました。 余談ですが、翌年から同級生達(大7です)は年度末になると、オイ、チューリン(私の渾名です)、 上がれたかと訊くのが常でした。つまり、私が進級出来たのなら自分も安心だというわけです。
そうそう、もう一つ口惜しかったことがあります。遠い高槻に通わされて3年、 やっと後期は家から近い上八になったと喜んだら、何のことはない、 その年32年には上八本校の全面再建が成り、全員高槻から引き上げとなってしまいました。 まるで、長い行列の最後尾に並んで延々と待ち、やっと順番が来たところで気がついたら、 後ろには誰もいなかったという気分だったことを思い出します。
辛うじて(本当に辛うじて)卒業してから何十年、転勤続きの職場から開放されて、 ようやく同窓会にも出席する機会が増えました。イーヤさんとは遂にお会いせず終いでしたが、 諸先輩方のお力で、思いがけず苦境にあった老後のイーヤさんに、 心強い支援をして上げることが出来たと知り、ひそかに安堵しました。 その支援活動がアブローラを発足させるキッカケにもなったと聞けば、 それもイーヤさんの図らざる恩恵かとも思えて、改めてご冥福を祈ります。
(完)
会員の作品展示室・トップページ(ここをクリックすると会員の作品展示室・トップページに移ります)