エッセイ『ロシア文学に現れた場所を訪ねて』 安井祥祐(大06)
- 第1回プーシキン「青銅の騎士」のライオン像はどこにいったか?(2010年4月11日掲載)
- 第2回エルミタージュの列柱式デザイン(2010年4月14日掲載)
- 第3回罪と罰、殺人現場付近散歩(2010年4月16日掲載)
- 第4回ペテルブルグからノブゴロッドを経由モスクワに行く(2010年5月4日掲載)
- 第5回ピョートル大帝のパリの宿舎(2010年5月1日掲載)
- 第6回補足と訂正(2010年5月4日掲載)
第1回『プーシキン「青銅の騎士」のライオン像はどこにいったか?』
出典、岩波文庫32−604−6版の236頁以下のテキスト(蔵原惟人氏訳)の256頁に 次の表現があります。
ピョートルの広場には・・・・・・二つの門番の獅子が立っていたのだが、 この大理石の野獣の背に
また序言には・・この物語に書かれた事件は事実によっている。・・・・念のためロ シヤ語の文章を以下に並べてみます。
ПРЕДИСЛОВИЕ
Происшествие, описанное в сей повести、основано на истине.・・・на площади Петровой・・
(256 4行目) Стоят два льва сторожевые・ ・・・・
もう2年半前に京都のロシヤ料理店のお世話でロシヤ、ウクライナ、ウイーンを訪ね たことあり、お世話いただいた方が日本のロシヤ領事館の偉い人だったので、又日本 語が堪能な方でもあり、恥を忍んで、この二匹のライオンはどこに行ったのか聞いて みました。
旅行に行かれた方は気ずかれたでしょうが、現在はありません。同じ疑問 を呈した人は多く在りますが、資料をどこに入れたか見当付かず、ぶっつけ本番で聞 いた訳です。
この質問には随分と困られたようで、旅の最後に、かってはロストフ家 にあったと告げられたので、旅行の最後に修理中のロストフ家の写真(B)をとりました。 旅行者としてはこれが 限界の努力で、全くの冗談ながら、銀座か大阪の三越に持ってきたかと考えるように なりました。 お笑いですね。 お粗末ながら。
第2回『エルミタージュの列柱式デザイン』
ロシヤを訪れるようになって列柱式デザインの建物が多いのに吃驚した。
エルミタージュの他に、有名なイサク寺院までも。
何年も前、仕事でよくベニスに行くことがあったが、 あるとき建築家の先生を 連れてパッラーデイオ(1508−1580年)が設計した建物のあるビチェン ツァにいったことがある。
ベニスにもあり、文豪のゲーテがイタリア紀行でも触れている。
ロンドンへ行った時レンやイニゴ・ジョーンズがパッラーデイオ風のデザインを取り入れた建物を多く見たが、 ロシヤでは、特にペテルブルグでこんなに多くあるとは知らなかった。
寡聞なので知らないが、今まで誰も指摘していないようだが?
第3回『罪と罰、殺人現場付近散歩』
何年か前に学生の時に読んだ「罪と罰」の道筋を見たいと、ペテルブルグに行った時思いついた。 JTBのポケットガイド109の109頁に詳しく紹介されていたので、 それをガイドにしたことを覚えている。季節は4月末だった。
罪と罰の冒頭には(岩波,中村白葉訳、9頁)
7月初旬のおそろしく暑い時分のこと、とある夕方近く、一人の若いおとこが、C− 横町(スタリアールヌイ通りのCのことらしい)の借家人からまた借りしていた自分 の部屋から街路へでて、なんとなく心のきまらないさまで、のろのろとK−橋(?−コ クーシュキン橋)の方へ歩いて行った。・・・・
大事な表現なので原文を参照しよう。
「В начале июля、в чрезвычайно жаркое время、под вечер、один молодой человек вышёл из своей каморки、 которую нанимал от жильцов в С−м переулке, на улицу и медленно、как бы в нерешимости、отправился к К−ну мосту 」
ここから730歩(ровно семьсот тридцать шагов)行ったところに、金貸し婆さんが妹と住んでいる。ナポレオンは多くの 人を殺して英雄となった。虫けらのような金貸婆さんを殺したって・・・・と言う発 想で罪無き妹まで巻き添えにした。・・・・
この730歩と言うのが曲者だが、多くの学者が興味を持ってどの道を辿ったか推量 している。私は常石どおりの道を歩んだ。
ペテルブルグはドイツ軍に包囲され長い間戦ったのに、このあたりは
19世紀の姿を 残しているのが不思議だった。
尚、この旅の帰国後山口慶四郎先生から詳細 な地図を頂いており、それと差し替えようと考えましたが、あまりに詳細すぎて写真 にすると訳がわからなくなり、元の写真(ドストエフスキー記念館で手に入れたも の)を使うことにしました。山口先生には謝意とお詫びを述べたいと思います。
第4回『ペテルブルグからノブゴロッドを経由モスクワに行く』
ある旅行の企画でノブゴロッドを経てモスクワに行く計画があり申し込んだ。
4−1,ネバ川のほとりだと思った。ピョートル大帝がオランダとイギリスで造船技術を 学んでいる彫刻があった。
4−2、右のシュミット橋はエジプト橋か…。6−4に訂正稿を掲載しましたのでそちらをご覧ください。
4−3、プーシキンの『大尉の娘』(岩波604−3の174頁)にマリヤ・イヴァノーヴナが グリニョフを救うためエカチェリーナ2世にあう場面があり、 この場面は感激的なシーンで絵にもあるが、ツアールスコエ・セロでピョートル・ルミヤンツェフの オベリスクを探したが、見つからなかった。 ルミャンツェフはピョートルの私生児とも噂されているが、 それが前記エジプト橋の近くの公園にあった。
4−4 モスクワに行く道は普通鉄道か飛行機だが、バス旅行もかなり面白い。
ネバ川に沿ってイサク寺院を通り、モスコフスキー大通りを行ったと記憶する。 沿道にはペテルブルグ・モスクワより前の古い都、ノブゴロッドがみれた。
4−5 われわれ戦後の貧乏学生にはロシヤ人は皆ダーチャを持っていると教えられ、 ダーチャを別荘と訳された。前記『罪と罰』もそのような訳である。 しかし この旅行で見た限りは、ダーチャは野菜小屋である。 写真を参照されたい。
第5回『ピョートル大帝のパリの宿舎』
1717年5月にピョートル大帝はパリを訪れている。ルイ14世の時は、 どちらが嫌ったのか解らないがイギリスやオランダを訪問しているのにパリは素通りしている。 粗野なピョートルを嫌ったのか、形式ばったルイ14世をピョートルが嫌ったのか明らかでない。 お互いに嫌ったことは明らかなようである??
ここのくだりはピューリアツ賞に輝くロバート・マッシーが詳しい。 万事堅苦しいことを嫌ったピョートルはフランス政府の用意してくれたホテルを キャンセルして、バステイーュ前のHotel Lesdigueres に泊まった。 当時の王宮はPlace des Voges にあり、王宮から近かった。
5−1 の写真は5・10頃、まだ子供だったルイ15世が訪ねてきた模様を写生し たものと思われる。
5−2 はフランス革命時のものだが、現在はレデイギエールもバステユーイもな く、前にカフェーフランセーズがあり、バステユーイの見取り図が掲げてあった。
その頃まだ若かったボルテールが牢におり、 ピョートルが裏庭から見上げると挨拶したとか???
と言う嘘も成り立つ。
第6回『補足と訂正』
6−1、新たにペテルブルグの地図を入手したので、関係の所を記します。 その前に、青銅の騎士(6−1)のなかでコロムナの地名(岩波604-6,248頁)が この地図にでていました。○で囲ってあります。
6−2、「罪と罰」の中で水晶宮というレストランがたびたび出てきます。ロシヤ語で Пале−де−Кристальと言うそうです。(岩波613-5,219頁)
6−3、ラスコーリニコフが盗品を隠したところ、現在は建物が建っています。
6−4、エジプト橋は4−2で掲げた場所は誤りでレールモントフスキー大通りが フォンタンカ運河にかかる橋のようだ。 何故、エジプト橋なのか解らない。ついでながら「罪と罰」にでてくる 二コラェフスキー橋はСтаро−Никольский Мостのようだ。従って4−2の記述は誤りです。
終り
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