「ゴーゴリ生誕200年に寄せて」(2009年4月1日発表) 片山ふえ(大23)
モスクワの中心からやや南に下ったところにあるダニーロフ修道院は、13世紀の末に建てられたモスクワ最古の修道院である。1931年5月31日、この修道院の墓地に大勢の人が集まっていた。時ならぬ「引越し」が行われようとしていたのだ。
ロシアで1917年に始まった社会主義政権は、レーニンが「宗教は阿片だ」と言ったことでも知られるように、宗教を危険視していた。そこで、こんな無用な修道院なんかぶっ潰して「少年院」を建てたほうがずっと社会のためになる、そうソビエト政権は考えたのだ。そのためにはこの墓地で眠っている人たちを「立ち退いて」もらわなければならない。だが、この由緒ある修道院に眠っているのは功成り名遂げた人ばかり。お骨だって粗末に扱うわけにはいかない。そこで「改葬式」を執り行い、ノヴォデーヴィチ修道院にお移りいただくことになったのだ。
さてこの日の改葬式では、1852年に没した文豪ニコライ・ゴーゴリを始め、詩人のA.ホミャコフやN.ヤズィコフ、画家のV.ペロフの棺が掘り出されることになっていた。そして、これらの先達に敬意を表する作家たちも多数この場に立ち会っていたらしい。そのうちの一人、ウラヂーミル・リーヂンがこの時の模様を書き残している。
それによると、ゴーゴリの棺の掘り起こしは思いもかけない難事業だったらしい。棺は直に土中に埋まっているのではなくレンガの壁で囲まれていたのだが、常ならぬ深さまで掘り進んでやっと現れたレンガの壁は異様に硬く、なかなか棺にまで到達できなかった。午前中から始まった発掘作業だったのに、やっと棺までたどり着いたのは、辺りが暗くなり始めた頃だったという。日暮れの遅い5月のモスクワのことだから、夜の10時を過ぎていたのかも知れない。
さて、やっとのことで掘り出しされたゴーゴリの棺。だが、参列者がほっとするのはまだ早かった。最大のスキャンダルは今まさに幕を開けたばかりだったのだ。
棺の中のゴーゴリは、なんと、首がなかったのである!
もうかなり前のことになるが、ロシア文学の大家、江川卓氏がゴーゴリの短編『外套』を落語仕立てで訳されたことがあった。『外套』といえば、あのドストエフスキイをして「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と言わしめたほどの傑作だが、江川氏が他ならぬゴーゴリの作品を落語にされたのは、そのリズム、その間(ま)、その諧謔に、古典落語を聞くときのような快感を覚えられたからではないかと思う。
「アイスクリーム」と聞いただけで、子どもが甘い予感に顔を輝かせるように、「ゴーゴリ」と聞いただけで私は思わずその快感に舌なめずりをしたくなる……
洒脱な皮肉家として生きた人なのだろうと私はゴーゴリのことを思っていた。彼の生涯を知るまでは。
ところが、豈(あに)図らんや、ゴーゴリは42歳で狂い死んでいた。あの傑作『死せる魂』の第二部の原稿を自らの手で焼き捨てて。晩年のゴーゴリは病的で頑迷な宗教観に絡めとられて、抜き差しならなくなっていたのだ。
(左図 レーピンによるゴーゴリの絵)
「完全に正常な記憶力と精神状態において、私はここに遺言を記す。私の死後、遺体が明らかな腐乱の兆候を見せるまでは葬ってはならない。何故ならば、病気の症状として心臓や脈が停止したことが今まで私にはあったからである。……」
ゴーゴリは生きながら葬られるという強迫観念に怯えていた。そのせいだろう。ゴーゴリの墓をめぐっては、こんな奇怪(きつかい)な噂が跡をたたない
「掘り出された棺の蓋を開けてみると、蓋の中側には激しく爪でひっかいた跡が残っていたんだそうな」
まさか〜!!いくらなんでも、それはないでしょう!!
だが、1931年にダニーロフ修道院で掘り出されたゴーゴリの遺体が首なしだったのは、正真正銘本当のことらしい。公安委員会の厳しい詮議にもかかわらず、その真相は未だにわかっていないそうだが、有力な説として、「モスクワの演劇博物館の所蔵品になっていた」という話がある。
ゴーゴリ生誕百年を記念して墓が修復された折に、演劇博物館の創設者で大金持ちのコレクター、A.バフルーシンがダニーロフ修道院の修道士に手を回して手に入れた……と噂はまことしやかに説明する。なんでも、博物館のコレクションにはしゃれこうべが三つあるのだとか。ひとつは有名な俳優シチェプキン、ひとつがゴーゴリで後のひとつは誰のものだか分からないのだと……!!!
夜のダニーロフ修道院の墓地でゴーゴリの首なし死体が掘り出されたとき、その場に居合わせた文学者たちは腰を抜かすか逃げ出したのかと思いきや、唯物主義者たちはお化けも死体も何モノも(スターリン以外は)恐れないとみえて、なんと首なしゴーゴリのお棺からちゃっかり記念品を頂戴した人がたくさんいたというのである。
前述のV.リーヂンはその回想の中で書いている。
「私はゴーゴリのフロックコートの切れ端をいただくことにした。それで作ったきれいな編み紐は『死せる魂』の初版本のケースに入って、今も私の書庫にある」。
ご本人があっけらかんと書き物の中で告白しているのだから、墓から何かを持ち出すことに罪の意識はなかったのだろう。棺のかけらやボタンくらいならまだしも、ゴーゴリの靴を持ち去った者や、なんと肋骨の一部を頂戴したものまでいたのだそうな(肋骨はフセヴォロド・イワーノフの仕業だそうですよ!)。
すると……である。出たのだそうだ!作家たちの所にゴーゴリの霊が夜な夜な現れるようになったいう。これにはさしもの唯物論者たちも肝を潰して記念品を墓の近くに埋めたのだと、この噂は伝えているが、どうもここには『外套』の臭いがしますねぇ?!!
「掘り出された棺の中の首のない死体」と聞けば……ロシア文学のファンなら思い出す話があるはずだ。そう。ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』である。
ブルガーコフはゴーゴリと同じウクライナ出身の作家で(もっともゴーゴリはウクライナ人、ブルガーコフはロシア人だが)、幻想と風刺を自在に織り込んだ作風は、ゴーゴリの伝統を最も色濃く受け継いだ人と言えるだろう。ソ連時代には日の目を見なかったその作品が、ペレストロイカ後に再版されるや爆発的な人気を博し、80年代後半から90年代初めごろのロシアでは文学の話になると必ずブルガーコフの名が出てきたと私の記憶にも残っている。
ゴーゴリの崇拝者だったブルガーコフが亡くなったのは1940年。ゴーゴリよりは長生きだが、それでも49歳の若さであった。
彼もまたゴーゴリが眠るノヴォデーヴィチ修道院に埋葬されることになり、未亡人は墓石を探しに出かけた。するとある石屋で彼女は面白い形の石を見つけた。いかにもブルガーコフの気に入りそうな石。これにしようと彼女が思ったとき、石屋が驚くべきことを言った。
なんと、それはダニーロフ修道院でゴーゴリの墓標に使われていた石だったのだ。(もっとも、これはブルガーコフ未亡人エレーナ・セルゲーヴナの話で、確証はないらしい。だが、話だけとしても面白いではないか!)
首のない死体、墓からちゃっかり遺品を失敬する男たち、彼らにつきまとう亡霊、首のコレクションをする男……これはまさしくゴーゴリの作品の登場人物たちである。
現実と幻想が混沌と混じり合って不思議な魅力を生み出すゴーゴリ・ワールド。一連の墓騒動ももしかするとゴーゴリ自身が墓の中で仕掛けたことかも知れない。なにしろゴーゴリは4月1日、エプリル・フールに生まれた人なのだ。
今日2009年4月1日は、この奇才がこの世に生を受けてからきっかり200年目に当たっている。
(右上はゴーゴリのお墓)
(片山個人誌「We Love 遊」2009年春号掲載)
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ロシアで1917年に始まった社会主義政権は、レーニンが「宗教は阿片だ」と言ったことでも知られるように、宗教を危険視していた。そこで、こんな無用な修道院なんかぶっ潰して「少年院」を建てたほうがずっと社会のためになる、そうソビエト政権は考えたのだ。そのためにはこの墓地で眠っている人たちを「立ち退いて」もらわなければならない。だが、この由緒ある修道院に眠っているのは功成り名遂げた人ばかり。お骨だって粗末に扱うわけにはいかない。そこで「改葬式」を執り行い、ノヴォデーヴィチ修道院にお移りいただくことになったのだ。
さてこの日の改葬式では、1852年に没した文豪ニコライ・ゴーゴリを始め、詩人のA.ホミャコフやN.ヤズィコフ、画家のV.ペロフの棺が掘り出されることになっていた。そして、これらの先達に敬意を表する作家たちも多数この場に立ち会っていたらしい。そのうちの一人、ウラヂーミル・リーヂンがこの時の模様を書き残している。
それによると、ゴーゴリの棺の掘り起こしは思いもかけない難事業だったらしい。棺は直に土中に埋まっているのではなくレンガの壁で囲まれていたのだが、常ならぬ深さまで掘り進んでやっと現れたレンガの壁は異様に硬く、なかなか棺にまで到達できなかった。午前中から始まった発掘作業だったのに、やっと棺までたどり着いたのは、辺りが暗くなり始めた頃だったという。日暮れの遅い5月のモスクワのことだから、夜の10時を過ぎていたのかも知れない。
さて、やっとのことで掘り出しされたゴーゴリの棺。だが、参列者がほっとするのはまだ早かった。最大のスキャンダルは今まさに幕を開けたばかりだったのだ。
棺の中のゴーゴリは、なんと、首がなかったのである!
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枚挙に暇(いとま)のないロシア文学の文豪の中で、誰が好きかと問われたら、私はあれこれ迷ったのちに、多分「ゴーゴリ!」と答えると思う。長じてからの私はおよそ読書家ではないので、ゴーゴリだって滅多に読むわけではないのだが、たまに手にしたゴーゴリを読み進むときの愉しさは、何に例えればいいだろう。極上の美酒を舌の上でうっとりと転がす呑べえの心持か。察するに、美酒は目を喜ばせ、鼻をくすぐり、口の中に至福の余韻を残しつつ身体の隅々まで拡がってゆくのだろう。そして呑べいは思わずニコニコ顔になる。私がゴーゴリを読むときに感じるのも、そんな生理的快感なのである。もうかなり前のことになるが、ロシア文学の大家、江川卓氏がゴーゴリの短編『外套』を落語仕立てで訳されたことがあった。『外套』といえば、あのドストエフスキイをして「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と言わしめたほどの傑作だが、江川氏が他ならぬゴーゴリの作品を落語にされたのは、そのリズム、その間(ま)、その諧謔に、古典落語を聞くときのような快感を覚えられたからではないかと思う。
「アイスクリーム」と聞いただけで、子どもが甘い予感に顔を輝かせるように、「ゴーゴリ」と聞いただけで私は思わずその快感に舌なめずりをしたくなる……
洒脱な皮肉家として生きた人なのだろうと私はゴーゴリのことを思っていた。彼の生涯を知るまでは。
ところが、豈(あに)図らんや、ゴーゴリは42歳で狂い死んでいた。あの傑作『死せる魂』の第二部の原稿を自らの手で焼き捨てて。晩年のゴーゴリは病的で頑迷な宗教観に絡めとられて、抜き差しならなくなっていたのだ。
(左図 レーピンによるゴーゴリの絵)
*
彼が四十歳を目の前にして出した『交友書簡選』(1848)は、その頑迷偏屈な道徳観、宗教観を押し付けようとしてものとして世間の非難と失笑を買ったといわれるが、その冒頭にこんな奇妙な「遺書」がある。「完全に正常な記憶力と精神状態において、私はここに遺言を記す。私の死後、遺体が明らかな腐乱の兆候を見せるまでは葬ってはならない。何故ならば、病気の症状として心臓や脈が停止したことが今まで私にはあったからである。……」
ゴーゴリは生きながら葬られるという強迫観念に怯えていた。そのせいだろう。ゴーゴリの墓をめぐっては、こんな奇怪(きつかい)な噂が跡をたたない
「掘り出された棺の蓋を開けてみると、蓋の中側には激しく爪でひっかいた跡が残っていたんだそうな」
まさか〜!!いくらなんでも、それはないでしょう!!
だが、1931年にダニーロフ修道院で掘り出されたゴーゴリの遺体が首なしだったのは、正真正銘本当のことらしい。公安委員会の厳しい詮議にもかかわらず、その真相は未だにわかっていないそうだが、有力な説として、「モスクワの演劇博物館の所蔵品になっていた」という話がある。
ゴーゴリ生誕百年を記念して墓が修復された折に、演劇博物館の創設者で大金持ちのコレクター、A.バフルーシンがダニーロフ修道院の修道士に手を回して手に入れた……と噂はまことしやかに説明する。なんでも、博物館のコレクションにはしゃれこうべが三つあるのだとか。ひとつは有名な俳優シチェプキン、ひとつがゴーゴリで後のひとつは誰のものだか分からないのだと……!!!
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ゴーゴリをめぐる怪奇な噂はまだまだ続く。夜のダニーロフ修道院の墓地でゴーゴリの首なし死体が掘り出されたとき、その場に居合わせた文学者たちは腰を抜かすか逃げ出したのかと思いきや、唯物主義者たちはお化けも死体も何モノも(スターリン以外は)恐れないとみえて、なんと首なしゴーゴリのお棺からちゃっかり記念品を頂戴した人がたくさんいたというのである。
前述のV.リーヂンはその回想の中で書いている。
「私はゴーゴリのフロックコートの切れ端をいただくことにした。それで作ったきれいな編み紐は『死せる魂』の初版本のケースに入って、今も私の書庫にある」。
ご本人があっけらかんと書き物の中で告白しているのだから、墓から何かを持ち出すことに罪の意識はなかったのだろう。棺のかけらやボタンくらいならまだしも、ゴーゴリの靴を持ち去った者や、なんと肋骨の一部を頂戴したものまでいたのだそうな(肋骨はフセヴォロド・イワーノフの仕業だそうですよ!)。
すると……である。出たのだそうだ!作家たちの所にゴーゴリの霊が夜な夜な現れるようになったいう。これにはさしもの唯物論者たちも肝を潰して記念品を墓の近くに埋めたのだと、この噂は伝えているが、どうもここには『外套』の臭いがしますねぇ?!!
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奇怪な話のついでに、ゴーゴリの墓にまつわる因縁話も披露しておこう。「掘り出された棺の中の首のない死体」と聞けば……ロシア文学のファンなら思い出す話があるはずだ。そう。ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』である。
ブルガーコフはゴーゴリと同じウクライナ出身の作家で(もっともゴーゴリはウクライナ人、ブルガーコフはロシア人だが)、幻想と風刺を自在に織り込んだ作風は、ゴーゴリの伝統を最も色濃く受け継いだ人と言えるだろう。ソ連時代には日の目を見なかったその作品が、ペレストロイカ後に再版されるや爆発的な人気を博し、80年代後半から90年代初めごろのロシアでは文学の話になると必ずブルガーコフの名が出てきたと私の記憶にも残っている。
ゴーゴリの崇拝者だったブルガーコフが亡くなったのは1940年。ゴーゴリよりは長生きだが、それでも49歳の若さであった。
彼もまたゴーゴリが眠るノヴォデーヴィチ修道院に埋葬されることになり、未亡人は墓石を探しに出かけた。するとある石屋で彼女は面白い形の石を見つけた。いかにもブルガーコフの気に入りそうな石。これにしようと彼女が思ったとき、石屋が驚くべきことを言った。
なんと、それはダニーロフ修道院でゴーゴリの墓標に使われていた石だったのだ。(もっとも、これはブルガーコフ未亡人エレーナ・セルゲーヴナの話で、確証はないらしい。だが、話だけとしても面白いではないか!)
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晩年のゴーゴリはいかにも悲劇的である。だが、墓に入ったゴーゴリはその悲劇から解放されて自由奔放な「ゴーゴリ・ワールド」を展開しているように私には見える。だって、そうじゃないか。首のない死体、墓からちゃっかり遺品を失敬する男たち、彼らにつきまとう亡霊、首のコレクションをする男……これはまさしくゴーゴリの作品の登場人物たちである。
現実と幻想が混沌と混じり合って不思議な魅力を生み出すゴーゴリ・ワールド。一連の墓騒動ももしかするとゴーゴリ自身が墓の中で仕掛けたことかも知れない。なにしろゴーゴリは4月1日、エプリル・フールに生まれた人なのだ。
今日2009年4月1日は、この奇才がこの世に生を受けてからきっかり200年目に当たっている。
(右上はゴーゴリのお墓)
(片山個人誌「We Love 遊」2009年春号掲載)
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