「ある釣り人の死」
伽耶雅人(大17) 作
(この作品は2010年7月25日から7月26日《ジャーナリストネット》のサイト上で発表したものです。)
「ある釣り人の死」
今回は前回「藻葉(もんば)拾い」に引き続き、「海」の物語です。海と言えば、釣り。
魚釣りは現代の庶民に残された、唯一とも言える、狩猟本能(闘争本能)発揮の場であり、行き場をなくした男たちにとっては最初の「逃げ場」ともなる空間です。
これはそういう男の死に関わる短編です。
一
ある釣り人が岩場で足を滑らせ、海に落ちて死んだという記事がA新聞の地方版に載った。
検死した医師は笑みを浮かべている死人の顔に一瞬 違和感を覚えたが、それはそれほど珍しいことではないので、気を取り直して、検死報告書に「転落による全身打撲、頭蓋骨陥没、即死と見られる」と記入した。
この男が関西の二流大学の工学部を卒業して就職したのはもう四十年前にもなる。
当時は「糸へん」より「金へん」といって、繊維、食品などより金属、機械、造船などの重工業が持てはやされた時代だった。彼はその波に乗って、大阪近郊の機械部品メーカーに入社した。
仕事はこつこつと真面目にこなし、目立たず、女性にも恵まれなかった。好きな女性がいないわけではなかった。アパートの近くに二人姉妹がやっている喫茶店があった。
彼は妹の愛子が好きだった。毎日、愛子の顔を見るためにその喫茶店に立ち寄った。
姉の和子は彼を上客と見てか、馴れ馴れしかった。それは、彼にとっては少しありがた迷惑だった。ある日、静岡の実家から彼のアパートに一箱の宅急便が届いた。箱にはメロン「特級」と表示されていた。
一人で食い尽くせる量ではなかった。早朝、出勤前、メロン箱を抱きかかえて喫茶店に立ち寄った。「準備中」の看板がぶら下がっていて、店内には姉の和子がいた。
和子は常連客の彼に気付き、ドアを開けた。
「まだ準備中ですけど、どうぞ。コーヒーを入れましょうか」
彼は「済みません」と頭を下げた。
「あら、メロンの箱を、どうしたの?」と言いながら、和子はそれが彼からの贈り物だと察して、目を輝かせた。
彼はどぎまぎしながら、「どうぞ、受け取ってください」と声を上ずらせた。
「わあ、嬉しい。私にくださるの?」
いや、本命は愛子だが、そんなことを言えるわけがない。せめて「愛子さんとお二人で」と言おうとしたが、気が引けて、言葉を呑みこんでしまった。
和子が心をこめて点ててくれたコーヒーはほろ苦かった。
しばらくして妹の愛子が店にやってきた。彼には愛子がただ眩しく、何も言えぬまま、店を後にした。
和子はメロン箱を開け、妹に中味を分け与えようとした。が、妹は「あの人の贈り物なら、厭や」と手をつけなかった。
それでも、一箱のメロンがきっかけで彼は和子と結婚し、二人の男の子をもうけた。
彼の収入は並の下だったが、和子のやりくり上手のお蔭でそれなりの生活を送ることが出来た。彼女は「貧乏ひまなし、井戸端会議もままならず」とか「我が家、男3匹でエンゲル係数も100超える」などと愚痴を言いながら、スーパーの夕方値下げ品を買い漁った。食卓は期限切れ間近のバーゲン品で賑わったが、彼はそれなりに満足していた。
それが、今から10年ほど前、50才を過ぎた彼に「肩叩き」が始まった。
家のローン、二人の子供の進学を考えると「はい、そうですか」というわけには行かなかった。平身低頭して、なんとか下請け会社への「出向」ということにしてもらった。が、給料は半減した。我慢に我慢、辛抱に辛抱を重ね、60歳の定年を迎えた。
待ちに待った退職金を手にしたが、その金額のあまりの少なさに和子はショックを受けた。彼は「今どき、中小企業はどこでもこんなものだよ。つつましく生活すれば何とかなるさ」と、他社の例も挙げて女房を慰めたが、自分自身、これから先の人生に不安はあった。3~4年先には主たる年金も出ることになっているが、これだけではとても生活できそうもない。劇的に倹約するしかない。
二人の子供は自立し、親元から遠のいていった。一抹の寂しさの中、「子供は雛鳥。育てば、巣立つもの、それが自然の習わし、世の慣わし」と自らを納得させるしかなかった。
家も古くなり、リフォームしたいが、そうすれば老後の生活設計が成り立たなくなる。もう暫くはこのままで我慢しようと決めた。
退職日、彼は妻と二人だけで定年と還暦を祝うことにした。駅前のファミレスだった。
よく分らないが、値段からして高級と思えるワインを「今日ぐらいは」と注文した。
なぜか、あのほろ苦かったコーヒーを思い出して、涙が零れ落ちた。
和子はワインを一気飲みした。普段、ワインなど飲んだことのない和子の目がだんだんと座ってきた。
「何よ、あんた、涙なんか流して。みっともないったらありゃしない。あんたはこれで満足かもしれないけどね、私はずっと、ずっと苦労させられて、最後まで苦労づくめ。 このシミと皺だらけの顔を見てちょうだいよ。こっちが泣きたいよ。あんた、愛子の前ではいつもにやけているけど、妹はね、立派な旦那がついているから、毎年の海外旅行、それに豪邸。肉だって特上の和牛。昔は旅行にも誘ってくれたけど、今じゃ電話もくれないよ。いや、妹のことはどうでもいい。うちはうち。でもね、お香典を払いたくないから、ご近所の葬式に顔も出せない。こんな気持ち、あんたに分る?」かなり酔いが回っている。
彼はどきっとした。和子が殊更に妹のことを持ち出したのは「やはり俺の心の内を見抜かれていたのか..」が、とにかく、こういう場合、黙っているに越したことはない。彼は心の動揺を隠すべく黙ってウーロン茶に手を伸ばした。
和子は目を伏せたまま2杯目のワインを一気飲みした。「あんたも家族のために少しぐらい荒っぽい事をやってみてごらんよ。あっそ、そんな勇気も才覚もないか。子供たちさえ、鼠男のようなあんたを嫌がって家に寄りつかないじゃない。私だって、これからあんたとずっと一緒だと思うと、ほんと気が重い。ウツになりそうよ」と溜め息を漏らした。
酔いが言わせた言葉とはいえ、彼の我慢の限界を超えた。
メガネを外し、涙を拭き、瓶ごとワインを飲み干すと、「そうさ、俺は駅のゴミ箱をあさる鼠男さ。でも、俺にとって記念すべき大事な日によくそんなことを言ってくれたね。この際、俺にも一言いわせてくれ。憶えているかな、あのメロン箱。あれは、本当はお前に渡すつもりじゃなかった。愛ちゃんだよ。お前と結婚したのも、お前が愛ちゃんの姉だったからだけさ。俺はずっと彼女の近くにいたかったから、お前と一緒になったんだ。愛ちゃんが変な男と引っついた時はよほどあの野郎を殺してやろうと思ったほどさ。お前と結婚した後だって、お前を抱きながら、心の中では何度も彼女を抱いていたよ」と、長年の鬱憤をすっかり晴らした思いがした。
しかし、和子の鬼のような形相を見て、「しまった」と思った。
それは居酒屋の親爺を相手にくだを巻く以外、口が裂けても言ってはならないことだった。だが、もう遅かった。
和子はスーツケースに衣類、アクセサリー、通帳、印鑑、家の権利書などを詰めて家出してしまった。
呼び寄せのタクシーはあっけなくすべてを運び去ってしまった。過去も、未来も。
彼は女房を捜す気になれず、「定年後は必ずやりたい」と思っていた魚釣りに心を注ぐことにした。彼女に内緒で貯めていた50万円の大半を釣具に充てた。
これからの生活のことなど考える気持ちの余裕はなかった。
おんぼろの軽自動車で海岸に行った。餌代は高いし、駐車料もしっかり徴収される。
ガソリン代だって馬鹿にならない。とは言え、重い錘を使って遠投すると気分爽快だった。思い切り投げると、涙も憂さも飛ばすことが出来た。
ただ、しばしば釣り針が海底に根がかりしてしまうのが不愉快だった。現実の生活の味気なさを見せつけられる不愉快さだった。
メバル、鯛、キス、鰈など魚屋に並んでいる美味しそうな魚種を狙うが、実際の釣果と言えば、10センチ前後の外道ばかり。釣りの採算なんて、取れたものではない。
船に乗れば大きな魚が捕れるというが、海は恐いし、乗船料もバカ高かった。
小魚を相手にしているうちに自分が惨めに思えてしようがなかった。魚にまで馬鹿にされているような気がした。それでも釣りを続けた。彼には他に何もなかった。
何度か海辺に通ううちにサビキ漁という釣り方を憶えた。プラスチック製の小さな篭に冷凍オキアミを詰め込む。篭の上方にオキアミに似せた擬餌針が木の枝のように5~6本ほど立ち並んでいる。
オキアミを狙う小アジはこの擬餌針に吸い寄せられる。小アジはいくらでも連れる。
しかし、彼はサビキ漁には満足できなかった。魚を釣っているという実感が湧かなかった。稲刈りをしている百姓のような感じだった。「俺はまともな魚を相手にしたい。雑魚はごめんだ」一人、海に毒づいた。
ある時、「生きたアジを餌にすれば、60センチ超の大ヒラメが釣れる」という話を小耳に挟んだ。ただ、一日に一枚上げることが出来れば幸せというほど難しい。
彼は「これだ」と思った。釣りたての生きたアジの頭部と腹部に釣針を突き刺す。
大型の魚は岸から離れたところにいるので、出来るだけ餌を遠投し、岸から遠ざける。餌となったアジは(痛みと出血で、というより針と糸に束縛されて)元気なく水中を漂う。
それを見つけたヒラメはがぶりとアジに喰らいつく。はずだったが、いつまで待ってもその兆候は見られなかった。そのうちに釣り針を刺されたアジは死んでいく。もう餌としては使えない。またサビキでアジを釣る。できるだけ大きなアジを選んで、釣り針を突き刺す。
これを何度か繰り返したが、ヒラメは釣れなかった。ヒラメは夜によく釣れると聞いて、夜遅くまで頑張ったが、駄目だった。
夢にも見た。大きなヒラメが茶色の体をくねらせ、時々白い裏肌を覗かせる。
それはいつも心に描いた愛子の白い肢体に似ていた。
何度も失敗を繰り返した冬の夜、切り立った崖の上で待つこと2〜3時間、ついにヒラメが喰らいついてきた。竿も糸も針も大型のヒラメ用だった。
姿は見えないが、間違いなく大物だった。ぐーんと竿が撓(しな)る。
ここで、あわてて竿を上げれば、ヒラメは餌のアジを口から離して逃げてしまう。
「ヒラメは40(秒)待て」という。気は逸るが、「がぶりつき」を待った。
「ごんごん」の引きが数十分も続いたような気がした。
「まだか、まだか」と待つうちに、急に竿が折れ曲がりそうになった。
心臓が早鐘を打つ。「今だ!」と、竿を持ち上げた。
いや、上がらない。いくら力を入れても、竿が上がらない。それどころか、引かれる。
負けたくない。やっと捕まえたヒラメだ。お前を絶対に逃さない。
もう、誰にも俺をゴミ箱あさりの鼠男とは言わせない。
ヒラメは水中でもがいている。勢い、彼の体は岩場から前につんのめりそうになった。
ここで竿を離すべきか。いや、離せない。見えるはずのない白い裏肌が見えた。愛子を想った。「愛子、お前を獲るか、海に引きずり込まれるか、一世一代の大勝負だ」彼はぐいと力を入れた。
歳のせいか、腕の筋肉がわななく。「腕がもぎ取られようが、腰がへし折られようが、絶対にお前を放さない」と、ありったけの力をふり絞って、竿を持ち上げ、リールを巻いた。
ヒラメは動いた。竿に吸い寄せられるように岸に近づいた。この時、もし糸を弛ませたら、糸はバチッと切られてしまう。彼は糸に弛みが出ないよう超特急でリールを巻いた。
彼女はもがいている。彼はそのもがきに合わせて竿を引き、リールを巻いた。数時間に思える格闘が続いた。今、彼女はこの崖のすぐ下にいる。
だが、持ち上げることは出来ない。持ち上げようとすれば必ず糸は切れる。
もし釣り友がいれば、崖下に降りてタモ網で掬ってくれるだろうが、釣り友はいない。
「もう限界だ。巻き上げよう。糸が切れれば、それまでの事だ。やるぞ!!」
彼は足と腰に力を込めて竿を上に引いた。その時、足場にしていた岩が崩落した。
体が前に滑り、ふわっと宙に浮いた。
崖下の岩場に体をぶつけるまではほんの数秒間だったが、周囲の風景はゆっくり動いた。一方、彼の脳はその数秒間に(ちょうど目覚め前の夢のように)目まぐるしく回転した。
愛子への想い、和子との愛なき結婚、失意の退職..今、俺は死ぬ。死ぬ前に何か出来るか。もう何も出来ない。いや、出来る。詫びることは出来る。ずっと偽りの人生だった。済まなかった。一言、和子にも、息子たちにも、詫びたい。せめて、お前たちの幸せを祈りながら消えて行きたい..
地上激突、と同時に彼の頭蓋骨は砕け、意識も消えた。笑みだけが頬に残った。
暗がりの中、大きなヒラメが彼のすぐそばを漂っていた。
完