「藻葉(もんば)拾い」
伽耶雅人(大17) 作
(この作品は2010年7月15日から7月18日《ジャーナリストネット》のサイト上で発表したものです。)
「藻葉(もんば)拾い」
藻葉(もんば)とは海岸に流れ着く海藻のことです。
昔、弓ヶ浜の浜辺ではこれを拾い集め、雨水で塩を洗い落とし、「焼け場」と呼ばれる砂地の畝の間に埋めたそうです。藻葉は畑に湿りを与え、肥しとなり、土となって綿の花を咲かせ、綿糸となり、綿布となり、浜絣(はまがすり)となって、売られてゆきました。
一
私が小学校に入る前だから、5〜6歳だったと思うが、外で遊んでいて小さな怪我をしたり、急にお腹が痛くなったりしたら、よく母のいる所に走り寄って「怪我した」と泣きついたり、「お腹が痛い」と訴えた。私は母42歳のときの末息子で甘えん坊だった。
母は、私には聞き取れない小声で何か呪文のような「おまじない」をして、痛いところにふっと息を吹きかけてくれた。そうすると、なぜか痛みは消えた。
今、思えば、ちょっと考えられないことだが、母はまだ5〜6歳の子供の私にその「おまじない」の由来を説明してくれた。
母ははるか昔を懐かしむように、「随分と昔のことだ。あてには加代さんという友達がおってな。色が白うて、きれいな人やった」と語りだした。
加代さんは海に入って死んだ。体が浮かび上がらないように着物にいっぱい石を詰めて海に入っていった。加代さんが死んだ日の夜、あては加代さんの夢を見た、と。
夢の中の加代さんは私の母に「篠(しの)さん、きっとあんたは子供をいっぱい作りなさるから。病気によう効くおまじないを教えてあげる。子供が病気したら、このおまじないを使いなはれ。でも、人に教えたら、効き目がなくなってしまうけ、教えたらいかんよ」と言ったそうだ。
母は「そやさけ、誰にも教えん」と言い、実際、死ぬまで「おまじない」の中味を教えてくれなかった。 というより、私は小学校に入ったら、学校や近所の悪餓鬼たちとの遊びが忙しくなり、知らぬ間に母の「おまじない」とは縁遠くなってしまっていた。
ところで(話は変わるが)、みなさんは、花一匁(はないちもんめ)というあそび歌をご存知だろうか。子供が二組に分かれ、手をつないで横一列に並んで二組が向かい合う。
代表者同士の「じゃんけん」で勝ったほうが「かって、うれしい花いちもんめ」と歌う。
負けたほうは「まけて、悔しい花いちもんめ」と歌い、「たんす、ながもち、どの子が欲しい」と続ける。勝ったほうは「加代ちゃんがほしい」、、
加代は歌の裏の意味を知らなかったが、「花いちもんめ」ではいつも買われ役となっていった。 彼女は「水呑み百姓」と呼ばれる貧乏百姓の家に生まれた。「貧乏子沢山」というが、水呑み百姓には子供が沢山生まれても、育てる余裕はなかった。
水呑み百姓の多くは一番目、二番目まではなんとか育てても、三番目からは「藻葉(もんば)ひろい」せざるを得なかった。
現代では、生まれてほしくない子は人工中絶するが、当時は中絶するより、産んでから間引いた。つまり、生まれたての赤ん坊を殺した。
産後、母親は「藻葉(浜に流れ着いた海草)拾いに行ってくる」と赤ん坊を抱いて、家を離れ、最後の乳を吸わせ、人目につかない場所で自らの掌で赤ん坊の口を塞いでしまう。
赤ん坊は母親の掌を乳首と思い、吸いついてくる。そして、苦しそうに身悶えし、息絶える。「藻葉拾い」をした母親は吸いつかれた掌の感触をいつまでも忘れることができないという。
加代も、既に母親のお腹にいる時から「藻葉拾い」の運命となっていた。
だが、加代がこの世に生まれ出た瞬間、母親は娘の顔を見て、「殺せない」と思った。
「この子は女郎にもなれる。あんた、お願いだ。この子は生かしとくなはれ」母親は泣いて頼んだ。父親も加代の顔をまじまじと見つめ、ひと言「うん」と頷いた。
加代は明治37年(1904年・辰年)1月、鳥取県西部の弓ヶ浜半島の寒村「余子」の百姓、郡司正造の次女(第三子)として出生届がなされた。余子はアマリコと読む。
ところで、一般に「花一匁」(はないちもんめ)は、花を一匁を買う際に、値段をまけて悔しい売り手側と、安く買って嬉しい買い手側の様子が歌われているとされるが、実際には貧乏な家の娘が人買いに一匁(3.75cの豆板銀)で売られてゆく様子を歌にしたものだ。「たんす、ながもち」は女郎のステータス・シンボル。
女郎になれば「たんす、ながもち」さえ持つことができるようになる、ということだろう。卑しい職業だが、当時は決して不法な存在ではなかった。社会の「必要悪」だった。
売られて行く娘は、食うや食わずの水呑み百姓の世界では「選ばれた美人、憧れの的」でもあった。
加代の母親が「この子は女郎にもなれる」と言ったのは、決して悪い意味ではなかった。色白の目鼻立ちの整った子だから、女郎にもなれる、大金にもなる、と必死で夫を説得したのだった。
ところで、弓ヶ浜半島(夜見半島)は鳥取県西部の日野川河口から北西に延びる長大な砂州の半島だが、古事記の時代には「黄泉の島」と呼ばれた不毛の孤島だった。イザナミノミコト(イザナギノミコトの妻)が死んで、渡っていった先がこの溺れ島だった。
イザナギは死んだイザナミを忘れることが出来ず、「黄泉の島」までやって来たが、そこで見たものは美しかった妻の醜い腐乱死体だった。イザナギは仰天して逃げ出した。
イザナミは「この姿を見られた以上、生かして帰すわけには行かぬ」とイザナギを追って、トンネルを走り抜け本土(出雲の国、現世)まで来たが、イザナギによって出口を大きな石で塞がれてしまい、それ以上追うことならず、諦めて黄泉の国に帰っていった、という話が伝わっている。
が、それはさておき、黄泉の島が大きな砂洲半島になったわけは、、
1600年代(近世)になって日本では農具、武具の需要が急増し、中国山地では「たたら製鉄」が盛んに行われるようになった。その原料(鉄源)は砂鉄だが、中国山地に極めて良質の砂鉄が眠っていた。その砂鉄をとる(流水を使って土砂と分別する)ために大量の廃土が日野川に流され、その廃土が日野川河口から対馬海流(反転流)に押し流されて現在の半島(長さ20`x幅4`)を形成していった。一言でいえば、弓ヶ浜半島は「ビッグサイズの天橋立」ということになる。
江戸時代に入ると、慢性的な財政難に苦しむ各藩は「新田開発」を頼みの綱として、用水路の造成に血まなこになった。鳥取県西部の「伯耆の国」は広大な砂州、弓ヶ浜半島に的を絞った。
1700年(元禄13年)から60年近い歳月をかけて造成されたのが、半島を縦に真っ直ぐに走る米川(よねがわ)用水路だった。
これで、この地方の米の収穫量は一気に跳ね上がるが、地面に溝を掘っただけの用水路では(水が土中に吸い込まれるため)送水効率が悪く、灌漑面積は思ったほど広がらなかった。それでも、「お取り潰し」などで藩主と禄を失った士族や飢饉に苦しむ近隣農民の流入がすすみ、弓ヶ浜半島全体に村落が広がっていった。
加代の住む余子村はと言えば、米川の恩恵からほど遠く、1931年(昭和6年〜)の工事で米川がコンクリート化されるまで、食糧としては粟(あわ)、稗、大豆しか穫れなかった。しかも、それらでさえ並大抵の苦労では穫れなかった。
米を作る本百姓からは「水呑み百姓」と蔑まれ、賤民のような扱いを受けた。
一方、さらに海近く「弓ヶ浜の焼け場」と呼ばれる砂地には「浜綿」の畑が広がっていた。
平成15年の「広報よなご」によれば、ここで綿花の栽培が始まったのは、織田信長が天下統一を目指していた永禄10年(1567年)。つまり、この地の農民は昭和20年代の終り頃まで380年以上、細々と不毛の地を耕し、稗、粟、大豆を糧として、浜綿を育て続けた。
浜綿は浜絣(はまがすり)を生んだ。綿を作り、糸を紡ぎ、染め、織り、仕立てる。
この一連の作業は夏場、裸足では歩けないほど砂地が焼ける最悪の条件の中で、しかも殆ど女の手によってなされた。
広大な綿畑の中に、いくつかの綿井戸と呼ばれる溜池が掘られ、綿花の発芽と同時に水遣り作業が始まる。女達は水桶を両肩にかつぎ、溜池に下り、水を満たし一気に土手を駆け上る。桶の底の中央に空けた穴の栓をはずすと、水は勢いよく畝を濡らす。そして彼女たちは小走りに畝の間を走る。
満水の両桶の重量は、優に30`を超えよう。その作業を日没まで何十回もくり返す。しかも6月から9月頃まで、雨の降らない日は毎日続くのである。
施肥は人糞が使われた。これを一番肥から三番肥まで施す。その他に浜に打ち上げられる藻葉(モンバ、海草)を拾い集め、大八車に積んで帰り、雨で塩を落とし、畝の間に埋めていくのである。 これらの作業で肩にはタコができ、二肢は腫れ上がってしまう。しかし、これが浜の女性の勲章でもあった。
秋に綿を収穫し、糸車で紡ぎ、粗麻(あらそ)を巻いて、藍染紺屋に出して染色してもらい、機に掛けて織る。冬の夜のこの仕事は、彼女たちにはとても楽しいものだったという。汗と苦労の結晶を自らの手と足で織るのである。出来上がった絣(かすり)は仲買人の手によって二束三文で買い取られた。それでも、なくてはならない貴重な現金収入だった。
根雪が溶けると再び身に余る重労働が待っている。それが浜の女の運命であった。縦糸には汗を、横糸には涙を紡ぎ、織り上げた浜絣は、また哀しみの藍染めだったのである。
加代は藻葉(もんば)ひろいが好きだった。早朝の浜は空気に不思議な力があった。吸い込むと肺のすみずみまで染み込んで行く。気持ちも晴れやかになる。「胸がすく」思いだった。
加代は、これは夜の荒波が海の栄養分を空気に混ぜて、捏ねて、おいしくしてくれたおかげだと思っていた。しかも、藻葉ひろいにはオマケがついていた。夜の荒波で浜に打ち上げられた小魚や蛸を手づかみできた。また、藻葉には色々な貝がへばりついていた。
これらすべては加代の家の貴重な蛋白源だった。両親は「お前は女郎になるさけ、魚や貝をいっぱい食べなあかんで」と加代に優先的に「餌付け」をしてくれた。
綿花のための藻葉ひろいや水運びに精を出す中、加代には同年生まれの篠(しの)という女友達ができた。篠は加代より体がひと回り大きく、色々なことを知っていた。
加代は篠の話を聞くのが大好きだった。読み書き、計算から、百人一首まで、篠が教えてくれることを、浜の砂が水を吸いつくすように貪欲に吸収していった。
篠の母親・登勢は松平松江藩の要人の娘だった。登勢は双子の一人で(当時、双子は「畜生ばら」と忌み嫌われ、一人を秘かに間引くか養子に出した)弓ヶ浜半島の営農郷士の家にもらわれて来た。ここで登勢は「殿様の子」として大事にされたが、明治維新となり、幕府系の家柄は殆んど没落していった。登勢の婚家も松江から持参した家具・着物を質入して食い繋がざるを得なくなっていった。篠はそういう没落旧家の娘として育った。
加代は小さいときから理由もなく男の子にいじめられることが多かった。二次性徴期(ローティーン)の男の子の本能的行動だが、加代にとっては理解も予測も出来ない恐怖だった。
木陰からいきなり飛び出してきて、加代をひっぱたき、体に触ろうとする。加代は泣いて、なされるままになっていた。そんな加代を篠は守ってくれた。
害意をもって寄ってくる男どもに石つぶてを投げつけ、木の棒で威嚇した。
木の棒と言っても、篠の太刀筋は見事で、悪餓鬼たちの相手ではなかった。加代は実の姉より篠を姉のように慕った。
加代の実の姉は若くして肺結核で死んだ。「餌付け」か悪かったようだ。食が細かった。「あては欲しうないけ、加代ちゃん食べんな」と貧しい食を妹に譲った。
加代18歳の春、篠が米子町で知り合ったという男性を連れてきた。カルタ取り(百人一首)がきっかけだったという。名を日下部くさかべ)といい、東京で絵画を勉強しているという。余子(あまりこ)から見れば、米子(よなご)は大都会。画家(絵描き)など、雲の上の人だった。
加代は米子という都会から来た背の高い青年に目を合わせることも出来ず、もじもじと下を見るばかりだった。そして、仲睦まじい二人と別れて、家に帰っても胸の鼓動が止まらなかった。
それから、日下部は米子から余子まで4里の道を、時には汽車に乗って、時には徒歩でやって来るようになった。
加代は日下部が来ると、何も言えないが、なぜか胸が熱く、締めつけられるような痛みと快さを感じた。何度かそういうことがあって後、篠から「日下部と結婚することになった」と報告を受けた。誰にも内緒で、、夫婦の契りも交わしたという。
加代は嬉しいのか、悲しいのか、わけが分からぬまま泣いた。涙が止まらなかった。
「あんひとが篠さんと結婚する。あんひとが篠さんをあてから奪っていく。篠さんがいなくなったら、あてはどうなるの、、あんひとはあてから何もかも、、 」
余子には日本海の青い海があり、延々たる白い砂浜が連なり、それを縁取るように松林が続き、松林が途切れたところに砂山があり、そこに「荒神(こうじん)さん」という神社があった。
初夏の夕方、加代は荒神さんを写生している日下部を見た。胸が激しくときめいたが、見てはいけないものを見たような気がして、その場を急いで立ち去ろうとした。
しかし、「加代さんじゃないか」森中に響くような声に射すくめられてしまった。
「ちょうど良かった。この絵をみてくれないか。この部分の色合いがうまく出せなくてね」
加代には絵の素養はなかった。ただ、全体がすごく強い線で描かれていて、森も、神社も、空の雲さえ、生きて動いていて、今にも画面から飛び出してきそうに見えた。
「すごい!」のひと声しか出せなかった。
日下部は絵の中の空を指差し「本物の空の青を出したい」という。
加代には本物の空と同じように見えた。「同じに見えるけど」
「違う。本物はもっともっと深みと動きのある青だ。だめだ、今日はもうやめだ」
加代は気圧(けお)されてしまい、そそくさとその場を逃げ去ろうとした。
だが、また呼び止められた。
「すまん、加代さん、ちょっとでいいから君をスケッチさせてくれないか」
加代は「そんなことは出来ない、断らねば」と思ったが、いきなりのことだったため金縛りにあったようになってしまい、身動きも声も出せず、こくりと肯くしかなかった。
「横を向いて、じっとそのまま」
沈む夕日の中で加代は命じられるままに横を向き、海を見つめていた。潮騒の音が胸の高鳴りを掻き消してくれた。彼女には「無限」に思える数秒間が流れ、スケッチは終わった。
白黒で描かれた、愁いを帯びた横顔だった。自分の横顔を見るのは初めてだった。
やさしく、やわらかく、清楚だった。自分がこんなに美しいとは一度も思ったことがなかった。急に恥ずかしくなった。
見られてはならないものを見られているような錯覚を起こした。咄嗟に、加代は日下部の手から絵を奪い取ろうとして、手と手が触れてしまった。
指先から全身に衝撃が走った。それから、あとはどうなったか分からない。無我夢中の時間が流れ、気がついたらその絵を折りたたんで胸にあて、家路についていた。
「これは夢だ。あては何も憶えていない。何もしていない」と懸命に自分に言い聞かせるが、今、胸に抱いている絵はまぎれもなく日下部が描いてくれた自分の絵だった。
帰宅後、加代はその絵を、誰にも見られないように、古タンスの後ろに隠した。そして、その後、時折り出しては胸に押し当て、ため息をついた。
その年の秋、加代は余子の近くの大篠津(おおしのず)という駅から米子行きの汽車に乗った。生まれて初めての汽車だった。汽車は何度も見たことがあるが、実際に乗ってみると恐ろしいほどの速さだった。
畑も林も家々もどんどん後ろに飛んで行く。あまり景色に熱中すると、目がちらちらしてくる。それでも熱中した。黄金色の稲穂の波、汽車に手を振る子供たち。大小の家並みが続き、最後の汽笛とともに汽車は米子駅に着いた。篠からそれとなく聞き知った米子の住所に日下部はいた。小さなアトリエに通されたが、中は描きかけの絵や絵の具が散乱していた。窓(採光窓)の位置が異様に高かった。
「あんたにもう一度あてを描いてほしうて、会いに来たん。親には内緒で、、もし描いてくれるなら、人前は恥ずかしいからあまり人目につかんとこがいい、、」
日下部は何も言わず画板を手に足早に歩き出した。加代は黙って後に続いた。
橋を渡って、公園を通り抜け、城山に向かった。くねくねした山道を登りつめると、立派な石垣が見えてきた。ただ、石垣の上に構築物はなく、平たい城址となっていた。人はいなかった。
「ここから弓ヶ浜全体が見渡せる。ほら、余子はあのあたりだ。半島を背景に描くから、こっちを向いてじっとして」
加代はじっと日下部の顔を見つめた。あたりは静かで、加代の輪郭を捉える鉛筆の音だけが聞こえていた。加代は、沈黙に堪え兼ねたように、日下部の顔を見つめたまま絵に近寄り、絵を描く手にそっと白い手を差し伸べた。筆の動きは乱れ、途切れた。
彼女は覚悟はしていたが、いきなり大きな影に抱きすくめられてしまった。胸は早鐘を打ち、心は散り散りとなり、思考は停止した。
目だけがぼんやりと景色を眺めていた。森の木々の頂が宙をぐるぐる廻っているように見えた。それらが二人に覆いかぶさって来るようにも見えた。
時が流れ、暗闇の中、二人は城山を降り下った。
「加代さん、済まん」
「済まんのはあてのほうよ」
「俺は篠との結婚をやめにする。俺と結婚してくれ」
「あんた何いうてんの? あてはもう売り先が決まった身なん。今日はね、あんたにそれを言うためにわざわざ米子まで来たんよ。まあ、行きがけの駄賃もたっぷり貰ったけどね。これでさっぱりしたわ」
「そうか、篠から聞いた話は本当だったんだな。女郎さんか、、」
「そや、篠さんがあんたのこと、あんまり自慢するから、ちょっと、からかってみとうもなって、あて、、」
城山から公園につながる道で加代は小さな声で歌いだした。「買って、嬉しい花いちもんめ、、たんす、ながもち、、」それから先が歌えず、声をつまらせてしまった。
二人は暫くそのまま歩いたが、公園前の交差点で何も言わず左右に別れていった。
加代は日下部にひとことを言うためにはるばるここまで来たのだが、何も言わず帰る道、「知ってほしかった。でも、知らせなくてよかった」と呟いた。
加代の母親は暫し前から彼女が妊娠していることに気付いていた。加代が遅くなっても帰ってこないので、その夜、不安に駆られ、夫の正造に娘の妊娠を打ち明けてしまった。
正造は黙って聞いていたが、目は据わっていた。ぞっとするほど恐ろしい目だった。
深夜、「ことん」と戸口を開ける音がした。加代が帰って来た。
「加代、そこに座れ。お前、妊娠しとるそやな。ほんとか」
「うっ、うん」
「相手は誰や」
「誰でもない」
「誰かに襲われたんか」
「襲われてへん」
「ほな、誰や、源助か。太一か。駐在か」
「みな違う」
「あの露助か」
「露助って、誰のこと?」
「あの篠んとこにくるヘボ絵描きやないか」
露助とは、よう言うたもんや。そう言えば、あんひとは露助さまそっくりやな。
加代は可笑しくなって「ぷっ」と吹き出した。正造はこれを否のサインと誤解した。
「そうか、露助でもないか。もう、ええ。お前は女郎に出すと前々から決めてたことや。 そのために生かしてやったやないか。稗飯も魚もようけ食わせた。今になって、傷物にされたは元が取れんがな。相手は誰か、お前が言うまで何も食わせん。相手から大金を踏んだくらんきゃ、気が済まん。場合によってはそいつを殴り殺す」
「おとさん、相手の名前は口が裂けても言えん。あてが悪い。あて一人が悪いんよ」
「なら、口を裂いたろか。いや、待てよ、それはいかん。大事な売り物やからな。 お前、子を堕ろせ。まず、今日は一晩中、水風呂に入れ。水風呂というても風呂がない。 海辺に行って、塩水に漬かっとれ。それでも駄目やったら、顔に傷をつけんよう用心して、神社の階段を転がってみい。そしたら、うまく堕りるかもしれん。あとは大阪行きじゃ。だいたい、お前は姉やんがなんで死んだか、分かっとるのか」
加代は耳を塞いだ。「おとさん、もう何も言わんでもええ。よう分こうとる。今から藻葉拾いに行ってくるけ」と、綿入れを着込んで海辺に向かった。
途中、荒神(こうじん)さんにお参りした。「荒神さん、ありがとう。おかげで幸せをいっぱい貰うた。楽しかった。荒神さん、荒神さんはあてと露助さんのことを見てたがでしょ。篠さんには絶対に内緒にしといてね。荒神さん、この子は一人死なすわけにはいかんでね、一緒に死んでやることにしたん。どうせ、あても、運命の子やったし、、」
海は凪いでいた。加代は着物いっぱいに石を詰めて、海に入っていった。水は身を切るほど冷たかった。
このあたりの海底は最初は浅く、急に深くなる。「篠さん、あんたは体が頑丈やさけ、きっと子沢山にならはるよ。みんな良い子や、あてには見える。にぎやかで楽しいそうやね。一人も死なせてはいかんよ。病気によう効くおまじないを教えたげるから、、」
加代は浅瀬から転げるように深みに落ちていった。多量の海水を胃にも肺にも飲み込んで、もがき、身悶えしたが、最期には柔らかな藻葉に抱かれ、包まれ、ようやく生まれて初めての安息を手にした。
深夜、加代の死を悼むかのように海は荒れた。朝、浜辺にうちあげられた加代の死体が発見された。着物に石を詰め、藻葉が体に絡みついたままとなっていた。
駐在から加代の両親に連絡が入った。加代の母は篠に「一緒に行ってくれなはれ」と頼んだ。加代の父、母、篠は浜に走った。
白い肢体の加代のお腹は多量の海水を飲み込んだためか、まるまると膨れ上がっていた。駐在は見かねて、サーベルを抜いて、加代の腹部に刺し込んで、ぐいと切り下げた。
ザーと海水と血が流れ出た。駐在は加代の体を横向けにし、暫く液体の流出を眺めていたが、「おかしいな。水はもう全部出たはずやが、まだ膨れとるな。水死体ちゅうもんはこんなもんかな」と加代の背をさすりながら、感心していた。
彼は母親に目を向けて、慰めのつもりか「わしは戦の修羅場を何度も潜(くぐ)り抜けてきたが、こないなきれいな死体は今だ嘗て見たことがない」と加代の体をさすり続けた。
正造はずっと黙っていたが「これはわしの子やない。駐在さん、好きに処置しといてくれ」と浜に深い足跡を残して去って行った。母親は「あとで、」と言うと、あたふたと夫のあとを追って行ってしまった。
篠は「加代さんはあてが引き取ります」と強い形相で駐在を睨めつけた。駐在はあっけに取られ、「では、書類はあとで、、とにかく、よろしう」と引き上げてしまった。
篠はリヤカーに加代を乗せ、布団をかぶせ、米子までの4里を曳き歩いた。
米子に着いたのは夕方だった。日下部を呼び出し、菩提寺の法華院に連れて来た。
日下部は「どうした。何があった」と顔を顰めるが、篠は何も言わず、境内に置かれたリヤカーの被いを取り払った。加代の青白い顔が微笑んでいた。
日下部の顔はみるみる青ざめていった。「どうして、、」というのが精一杯だった。
「何も訊かず、何も言わず、加代さんを日下部家の墓地の端っこに埋めてあげて」
日下部は加代の遺体を日下部家の墓前に運び、お寺の住職を呼び出した。「行き倒れになった人ですねん。我が家の墓地には余裕があるさけ、この人をそこに埋めてあげてくれなはれ」と、手持ちのお金すべてを差し出した。
「行き倒れはんでっか。よう分かりました。懇ろに弔(とむら)いましょう。ああ、それから、、うちには行き場のない墓石もありますけ、あとでお父上の了解を取って、それを乗せておきます。南無阿弥陀仏、、」と合掌した。
その夜、三人で加代を埋葬した。住職は死人のお腹の傷に気付いていたが、何も言わず、何も訊かなかった。ただ、日下部家代々之墓を指差し、篠に「あんたもここに入ることになるんやな」と呟いた。それは篠に対する祝福の言葉だった。
それから何十年も後の話だが、私の父はよく子供の私を連れて、日下部家の墓参りをした。「先祖代々之墓」の隅に「加陽光信女」と書かれた小さな墓石が置かれている。子供の頃、父に「これは誰の墓なん」と訊いても、「行き倒れの女の人の墓」という答えしか返ってこなかった。が、「加陽光信女」の墓の前で父はいつも何か思いに耽っていた。
今や、その父も母もこの世から去り、日下部家の墓地で眠っている。
そのすぐ傍には加代さんもいる。きっと三人で楽しく小倉百人一首でカルタ取りをしていることだろう。生前の陽気な話し声や笑い声が聞こえてくるようだ。
完
本編を書き終えてしまってからひとつ思い出したことがあったので、「あと書き」として追記することにした。
それは私がまだ2〜3歳頃のことだと思うが、母・篠の話によれば、まだ小さな子供の私はよちよち歩きで家の中から外の道路に出て行った。そこへアメリカ駐留軍のジープが猛進して来た。母は飛び出しても私を救える距離にいなかった。他に頼るものがなく、母は加代さんが入水した晩に夢の中で教えてくれた「おまじない」を必死で叫んだという。
駐留軍のジープは文字通り私の眼の前で急ストップした。米兵はわけの分からない外国語で母親に食って掛かったらしいが、とにもかくにも事故にはならず事は丸く収まった。 母が言うには「お前は加代さんに命を助けられた。だから、加代さんの事をお前にだけは話しておこうと思った.. 」と。だが、それでも「おまじない」の中味は最期まで教えてくれなかった。