ビーズ
(パミールのはてに)
タジク諸勢力間の大混戦を聞いているうちに、ビーズの頭も混乱してきた。
それを察して、アンナは一呼吸入れた。
「私たちパミールに住む者はロシアや旧共産党の支配には反抗するけど、 他国から侵入してくるイスラム原理主義者にも絶対に与しない。 皆が笑って暮らせる民主国家をつくるために戦っている。 私はあなたに戦ってくれとは言わない。医者として私たちを助けてほしい。 それが私のお願い。話が少しややっこしかったかな」
ビーズは英語で答えた。「いや、大体は分ったよ。日本にも昔は君が話してくれたような、 そういう時代があったと思う。君たちはまさに今、大変動の歴史のなかにいるんだね。 それにひきかえ、我々はもはや未来を思い描くことさえ出来ない。中味のない空虚な世界だ」
「砂漠のようね」
「そう、コンクリートの砂漠。コンクリートの空洞だ。それはそうと、少し考える時間をくれ。 但し、もし仮に私がOKするとしても、君に心がない限り、決して君を求めない」
「分かったわ。私の家はこのすぐ傍なの。今からでは車も拾えないから私の家に泊まっていけばいいわ。 あなたが紳士だということが分かったから」
ビーズはコーヒー代を払って、アンナに従った。
一部屋にちいさなベッドが一つあるだけだった。「シャワーがあるからシャワーを浴びなさい」というので、 シャワー室に入ったが、出てくるのは冷水だけだった。
それでも石鹸があったので汗を落とすことが出来て、気持ちはさっぱりした。 次にシャワーを終えたアンナは床で寝るという。
押し問答の末、「何もしなければいいんだから」というアンナの主張に抗し切れず、 ベッドで二人が寝ることになった。
ビーズはこの二晩、眠れぬ夜が続いていたが、今夜は女性と初めての同衾で、 眠るどころの騒ぎではなかった。アンナのやわらかい体がすり寄ってきて心が破裂しそうだった。
「我慢する」と自分に言い聞かせた。ただベッドが狭すぎるので、左手でアンナを抱かざるを得なかった。 アンナは気持ちよさそうに身を寄せてきた。ビーズは懸命に昔のことを思い出して、気を紛らせようと努めた。 高校時代、大学時代の思い出や、田中医院のこと。
あっ、そう言えば、昔、山の坊さんが「遠くで人が待つ」と言っていた。このことか。
アンナは気持ち良さそうに眠っている。
キルギスもタジクも自分にとっては同じことだ。 日本政府の保護から外れることになるが、もともと自分流にやるつもりだった。 安全なキルギスには自分の替えはいくらでも来るだろう。 内戦か、、実際に危険だろうな。しかし医者がいないために死ななくてもいい人が多く死んでいると聞かされて放っておけるか、ビーズ。 タジクが自分を必要としているなら、、我が身の捨て場にぴったりではないか、、 「よし、決めた」とアンナの耳元で囁いた。
アンナはぴくっと体を震わせ、薄目を開いた。「どうしたの」
「タジキスタンに行くことする」
アンナは顔をほころばせ「ありがとう、本当に嬉しいわ。ビーズ、実を言うと、 私はあなたが声をかけてくれた時から、あなたが忘れられなかったの。交換条件など出して御免なさい。 もっと率直になるべきだったわね」とシャツのボタンを外し始めた。
ビーズはアンナの大胆さに驚いたが、終わって、更に驚いた。
あっという間だったが、お互い初めての経験だった。アンナは21歳だった。
タジキスタン(タジク)とは:
中央アジアに位置し、面積14万3000km2、人口7百万人、国土の90%が山岳地帯、 産業は農業(綿花・牧畜)や水力発電によるアルミニウム生産が主であった。 1991年ソ連崩壊に伴い共和国として独立したが、その直後から内戦が続いた。
1997年、ようやく停戦が成立したが、この内戦で10万近くの人々が死亡し、 120万人が難民となった。この内戦では内外のジャーナリストも標的にされ、数十人のジャーナリストが殺された。
内戦による社会基盤の崩壊やその後も続く経済の低迷から、 インフラ整備が遅れ、失業率も高い。停戦成立後、現在に至るも情勢不安は続いている。
保健医療分野においても、医療設備の破壊や老朽化が激しく、子供や女性の栄養不良や感染症の蔓延、 給水システムの不備、医薬品や人材の不足など問題が山積しており、 2003年の乳児死亡率は1000人に対し92人、5歳未満児死亡率は1000人に対し118人と深刻である。 (世界子供白書2005より)
近年の不安定な天候は自然環境や人間の健康にさらに多くの被害を及ぼしている。
ビーズがタジク行きを決心してのはソ連崩壊後の90年代前半、 タジクで内戦が始まってまだ間がない頃だった。
アンナと一夜を過ごしたその翌日、ヤニコフというキルギスの政府高官から 日本人海外協力隊員6名が夕食に招待された。 アンナと会ったレストランとおなじようなレストランだった。 店名を「テンシャン」というから天山山脈のことだろう。 ヤニコフの「もてなし」の目的は海外協力隊員を通して日本の対キルギス政府援助を増額させることだった。
「ぜひ、皆さんのご協力をお願いしたい。まあ、食事をしながら私の話を聞いてください」
ビーズは睡眠不足の「連チャン」だったから、ズンチャカ・ズンチャカの舞台音楽と ヤニコフの演説は騒音にしか聞こえなかった。ビーズは昨夜のことを思い出しながらぼんやりしていた。
ちょっと離れた席に座っていた男がビーズに近づき、通りすがりに一言二言、 何やらわけの分からない現地語を喋って、ホールから出て行った。 ビーズは少し驚いたが、まったく意味不明だったので、どう対応しようもなく食事を続けることにした。
ヤニコフの脇に座っていたボディガードのような男二人がすっくと立ち上がり、さきほどの男を追っていった。 ビーズはヤニコフに「どうしたんですか」と聞いた。
ヤニコフは「ああ、さきほどの男があなたに『俺の女に眼(がん)をつけやがったな。このクソッタレ』と言ったから、 部下があの男を刺しに行ったんですよ。私の客に対する侮辱は私自身に対する侮辱ですからね。 ああ、この肉は美味しいですよ。熱いうちに、どうぞ」という。
ビーズは「まさか、俺があんな女に眼をつけるわけないだろう」と文句を言おうとしたが、 雰囲気はそれどころではなかった。睡眠不足の眠気もどこやらへ飛んでしまった。
ビーズが眼をつけたという問題の女性はトイレに行ったはずの同伴者がいつまで経っても戻って来ないので、 暫くそわそわしていたが、待ち人来たらず、腕時計を見ながら立ち上がり、 キッとビーズを睨みつけて、レストランを出ていった。
それから数日後、ビーズは毛布と若干の食料、それに医学&薬学辞典と医療ケースを持って、 愛馬と共にキルギスの首都ビシケクから消えた。勿論、アンナも一緒だった。
アンナは護身用の拳銃と片目の海賊がつける「黒い眼帯」をビーズにプレゼントした。 ビーズはこの眼帯が多いに気に入った。自分も本物の山賊になったような気がした。
ビーズがいなくなって二日目に、ビシケク警察はビーズの失踪を反政府テロリストによる誘拐事件の 可能性大として大掛かりな捜査網を敷いたが、彼の足取りは杳としてつかめなかった。
海外協力隊員の一人が警察にレストラン「テンシャン」での出来事を申し出て、 怨恨の可能性ありと主張したが、怨恨の線からは何も出て来ず、迷宮入りとなってしまった。
キルギスとタジクの国境の峰でふたりは夫婦の契りを交わした。
ビーズは強風になびく白い小花を摘んで輪を作り、アンナの指に嵌めた。 眼下には夕陽に輝くパミール高原が広がっていた。ふたりは、パミールの山と空に誓った。
「死がふたりを別つまで互いに愛しあい、助けあう」と。
タジクに入るとふたりは裏街道を選んで行動した。険しい山と谷の繰り返しだった。
それでも、何組かの難民の群れに遭遇した。手一杯の荷物を持って歩く者、驢馬を曳く者、 数頭の山羊を連れた者、子供を連れた者、老人を背負う者、皆ぼろぼろの服で着膨れし、 追い詰められ、落ち着きのない眼差し... ひとりの女が乳飲み子を抱えて路傍に座っていた。 彼女は愛おしそうに小さな頭を撫でていたが、その子は目と口を開けたまま、茶色の顔で硬くなっていた。 ビーズは済まないと思いながら、この光景をカメラに収めた。
120万の難民のうち、国境を越えた難民は北方キルギスに5万人、 アムダリア河を越えて南方アフガンに6万人が逃れた。
ビーズはタジクに着いてから、ここがキルギスと同じようなものと思っていた 自分が間違っていたことに気づいた。
キルギスでは下から山並を見上げていた。タジクではいつも山並のなかに自分がいた。
タジクと言っても、その東部のパミール高原だが、これほど山が険しければ、 征服とか支配とかも決して容易なことではないと感じた。
直線で東京−大阪ほどの距離だが、険山と急流、軍隊と山賊を避けて行動したため、 ビシケクを出て6日目の朝にようやくアンナの家に着いた。
庭に色とりどりの花が咲き、葡萄の蔓がその上を覆っていた。
内戦というから緊張の連続と思っていたので、拍子抜けのような気もした。 のどかで陽だまりの匂いがした。ビーズは会う前から、この家の住人に親しみを感じた。
彼は風景の写真を撮るのが好きだった。いつかの思い出にここも写真に撮っておいた。
アンナの家には父親はおらず、母親と18歳の妹、13歳の弟の3人暮らしだった。
アンナは母と妹弟に得意顔で「私の夫、ドクトル・ビーズ・サカモト」と紹介した。
妹はもうすぐ19歳になるという。彼女はビーズを見ると恥ずかしそうに顔を赤らめ、にこっと微笑むと、畑の向うに行ってしまった。
昔、日本の田舎にもこのような娘がいたような気がする。ビーズはモノクロ写真を見ているような錯覚に襲われた。 妹は姉のアンナと容貌も性格も異なっているようだ。
「多くの民族、種族が入り混じるとこうなるのか」とビーズは感心した。
弟は、国の将来のため勉強をしたいという。親からの受け売りかもしれないが、ビーズはそれでも立派だと思った。
母親はビーズが医者だと聞いて喜んだ。彼女は「たくさんの人が傷ついて苦しんでいる。 一人でも多くの人を助けてちょうだい。それから、アンナを大事にしてやってね。 二人の幸せを心から祈っています」という。40過ぎという年齢の割りに老けて見えた。
父親の遺影の傍に木箱が置いてあった。その木箱の中に真鍮製のシリンダー状の回転体が入っていた。ビーズはアンナにそっと尋ねた。
「あれはマニ車ではないのか」
「そうよ。あなたはここがイスラムの世界と思ってたでしょう。 母は父の冥福を祈って、あれを毎日廻しているのよ。妹もそう。 ここは昔から色々な宗教の通り道だったから、宗教もごちゃごちゃになっている。 イスラムが優勢だけど、スラブ正教の教会だってあるし、マニ車も、石窟大仏だってあるわ」
「そう言えば、イスラムは本来、他の宗教や文化に寛容だと聞いたことがある」
いつかアンナに石仏のある場所に連れて行ってもらうことにした。石仏を背景にアンナの写真を撮りたかった。実現しなかったが。
ふたりは母の家に一室をもらい、しばしの憩いの時を過ごした。
タジクの首都ドシャンベは人口51万の大都市で、国の西部に位置する。西部は東部と比較すると山も低く、わりあい開けた土地である。 政府軍と反政府軍の武力衝突も、ドシャンベを中心に国の西部地域で多発している。
アンナの家がある東部パミールはどちらかと言えば、抗争からも忘れさられた辺地である。
ただし、ロシア軍はアフガン、パキスタンからの武装イスラムの侵入を防ぐため、 東部パミールにも空軍を送り、攻撃の手を緩めない。 彼らにはどれが一般人でどれが武装イスラムなのか皆目見当がつかない。 ロシア軍の攻撃ヘリは、反政府ゲリラが潜んでいると見られる建物には上空からロケット弾を射ち込み、 動くものは高速機関砲で無差別に撃ち殺してしまう。
アンナが奇妙なことを言いだした。
「あなた、ちょっと自分がロシア軍の攻撃ヘリの搭乗兵になった気持ちで考えてみて。
ロシア兵のあなたにはどこに敵のゲリラが潜んでいるのかほとんど分らないのよ。 もしゲリラが下から鉄砲を撃ってくれば、勿論、彼らの位置を特定することは出来るでしょうけど、 その時はすでに遅いわね。撃ち落されてからでは反撃は出来ないでしょ。あなたならどうする?」
ビーズは考えた。「そうだな、自分が殺される前に敵を殺さねばならないだろうな」
「そうでしょ。あなたは飛行中にテントとか人馬を見つける。ちょっとでもおかしいなと思ったら、 『防御のための先制攻撃』をかけることになるでしょ。これが一般人の死傷者数を多くする原因となっているのよ。 ロシア兵も、敵が憎いのではなく、ただ怖いから関係ない人まで殺している。 ジェット機の場合は、もっとひどい。道を歩いていると、ジェット機が超高速で頭上を通り過ぎてしまってから、 「ゴオオオ」という爆音が聞こえて来る。その音が聞こえて来たら、もう爆撃は終わっている。 だから、よほどの対空ミサイルでもないかぎり、ジェット機の攻撃目標にされたら防ぎようも、 逃げようもないのよ。こんな風に殺される方はたまったものじゃないわ。 結局、一般人も無関係でいられなくなる。武装せざるを得なくなる。殺しあいの連鎖となる」
ビーズには答えようがなかった。理屈では分るが、実感が涌かなかった。
ロシア軍にとって援護すべきタジクの政府軍は装備や練度から見て「軍」の体を成していない。 率直に言って、彼らはロシア軍にとって「足手まとい」だし、いつ反政府軍やイスラムテロリストの側に寝返るとも限らない。 政府軍と称して狼藉を働く夜盗集団もいる。結局、ロシア軍が実質的な主体となって武装イスラムや反政府軍と戦うことになる。 タジク政府軍はロシア軍の下請けをさせられる。下請けといっても、決して生易しいものではない。
(政治的思惑から)ロシア軍は前面に出ることを極力避ける。その分、タジク政府軍が前面で汚れ役を演じることになる。 彼らは、ロシア軍戦車や空軍機による砲爆撃のあと、ロシア軍の援護のもとに敵の死体を片づけ、生き残りは射殺するか、 尋問のために捕虜にする。略奪、拷問、強姦は言うまでもない。死体や負傷者から金品を奪い取る、これを「マラジョール」と呼ぶ。 いたる所で「マラジョール」が横行している。反政府軍兵士はロシア軍より同じタジク人の政府軍兵を恐れ、憎しむ。
一方、個々のロシア軍兵士にとってはロシアの国策とか国益、旧ソ連圏防衛など興味のないことだ。 しかし、ここに送り込まれたからには、自分の身を守るために敵を殺さねばならない。
ロシア軍兵士は大抵が貧しい農村の出身者で、もともと武装イスラムに対する戦意など持っていない。イスラムに関する知識さえない。
モスクワやペテルブルグなどの大都会で遊び呆けている同年代の若者に妬みを抱きつつ、指折り数えて兵役が明けるのを待っている。 ただ、兵役が明けても彼らには行くところがなく、馴れ親しんだロシア軍兵舎に舞い戻ってくる。
ビーズは暫く疑問に思っていたことを口にした。
「タジクの反体制側は、不本意かもしれないが、アフガンのイスラム原理主義者などから 武器援助を受けているだろうな。実際、そうでもしないと強大なロシア軍を後ろ盾にしている 政府軍と戦うなど土台無理なことだ。そうだろ?」
アンナは「違う」という。「私達はロシア軍と戦っているけど、 イスラム原理主義者などに武器援助を求めないし、求めたくもない。 自分たちの将来を彼らに左右されたくない。まず、彼らは女を人間と思っていない。性の道具と思っている。
あなた、割礼(circumcision)という言葉を知っているでしょ。 一般には男子の包皮切除と思われているけど、彼らはその割礼を女にも強制するのよ。 女が淫らな快感を持たないように陰核を切り取ってしまうっていうのよ。 淫らなのは男のほうじゃない。ビーズ、あなた、そうでしょ」
「たしかに一般的にはそうだな。我が家はちょっと事情が違うが、ね」
「もう、冗談はよして! とにかく、私にはイスラム原理主義者は気が狂っているとしか思えない。 あり得ないと思うでしょうけど、彼らはコーラン以外の思想も教育も認めない。 女は教育を受けてはならない。夫以外の男に顔を見せてはならない。 外ではブルカで(目だけを出して)顔と体をすべて隠せというのよ。とてもついて行けないわ。 だから、まともなイスラムとは手を組むけど、あの連中とは死んでも手を組まない。 こう思うのは私だけじゃない。私たちはロシア軍とイスラム原理主義者の間にあって、 民主・独立のために戦っている。少なくとも私たちはそのために戦っている。 パミールの険しい山々が私たちの味方になってくれている」という。
相容れない力がぶつかり合う中で、自らの独立を保とうとすることは至難の業だ。
「第二次大戦中、ドイツ軍とソ連軍に挟まれた弱小国の人々もこうだっただろうな」ビーズはアンナの気持ちを思いやった。 アンナはやりきれないだろう。俺がずっと彼女のそばにいて力になってやろう。
「ところで、だったら反体制派は武器、弾薬をどこで調達しているんだ」
アンナは事もなげに「政府軍にも反体制派がいるのよ」と答えた。
「なるほど、そう言えば、キルギスの報道テレビで見たタジクのゲリラは旧式のソ連製武器を使ってたな。 政府軍と反政府軍が同じ武器で戦っているわけか」
二人はアンナの母親ベーラの家で二泊した。
その間、アンナは、剣舞のダンサーだけあって、その見事な肢体でビーズに挑みかかった。
ビーズは彼女の絶叫が気になったが、「お父さんとお母さんだってそうだったから」と、まったく気にかける様子はなかった。 「馬や羊だって同じでしょ」という。まさか!
三日目の朝にアンナの母と妹弟に別れを告げた。ビーズは晴れて無医村に向かう青年医師の心境だった。 ベーラは両手を合わせて二人の無事を祈ってくれた。妹は下を向いて頬を染めていた。
弟は二人について行きたがった。「あなたは残って、家族を守って」とアンナが制した。
二人は医療ケース、食糧と衣類、毛布、銃を馬に積み、同行の男二人とともに集結地への移動を始めた。 全員、土地の農民の格好をした。
兵士二人は重たそうな機関銃やロケット砲を携行していた。 ビーズは、このような武器はテレビでは見たことがあるが、実際に見るのは初めてだった。 いよいよ命がけの世界に入って行くと実感した。
全員乗馬のうえ、二頭の荷馬も連れていた。ビーズはいつもの小型カメラを携行した。
習慣となっていることだが、記録すべき病状は写真に撮っておく。できれば動画に撮る。
ただ、今回は医学的見地からではなく、状況を客観的な目で記録したい。 それがいつか役に立つだろうと思った。 ただ、死体の冷たさ、内臓の生暖かさ、血の匂いはカメラでは捕らえられないが、、
目的地への道は川に沿って走っていた。大きな穴がいたる所に開いており普通の車は通れそうもない。 場所によっては道そのものが川に落ち込んでいた。そういう場所では馬を曳いて歩いた。 川は水量が多く、ごうごうと音を立てている。何度か今にも崩れ落ちそうな橋を渡った。 一人ずつ用心深く。あたりの木々は鮮やかな濃い緑だった。
夜はアンナと寄り添って寝た。朝方の寒さで目が覚める。
出発してから二日目の昼前に、タンタンタンとエンジン音を響かせながら、2機の攻撃ヘリが山の向うからやって来た。 急いで6頭の馬を樹の下に隠した。
二人の兵は何やら叫んで、藪に散った。ヘリの爆音がすぐ近くまで迫って来た。
あろうことか、藪の中から「ドン」という音とともに一発のロケット弾が飛び出した。
昼間に見る花火のように、後方に火と煙を吐きながらヘリに近づいて行く。
瞬間、オレンジ色の光が走り、黒煙が散った。ヘリはバランスを失って、きり揉み状態に入った。 ビーズは真っ青になった。頭がうまく回転しない。夢であってほしいと思った。
自分達が人を殺すなど想像もしていなかった。
ヘリはそのまま下に落ちた。もう一機のヘリがそれを追って降下したが、 既に救助の必要がないことを確認したのか、地上からの攻撃を怖れたのか、急上昇すると逃飛行を始めた。 ビーズは無意識のうちに医薬品ケースを取ると、墜落したヘリに走り寄った。
予想以上に広い範囲に機体の一部やら、兵器やらが散らばっていた。
負傷者を探した。そして、すぐに無意味だと分かった。
ビーズは傍にいるアンナに「なぜ、攻撃したのか。ヘリをやり過ごせば良かったのではないか」と喰ってかかったが 「馬が6頭もいれば、必ず見つかる」という。
ビーズにはそれ以上、言葉が出なかった。
二人の兵士が乗馬で駆けてきた。「すぐに敵のジェットが飛んで来る。馬に乗れ、急いでこの場から離れろ」と叫び、 荷馬とともに先を越して行ってしまった。
アンナは、親が子を見守るように、何度もビーズに振り向きつつ前を駆けた。
あと2時間ほどで目的地ブルガだという。 盆地の町ブルガはタジク東部を南北に走る国道と大きな川が交差する要衝の地で、 首都ドシャンベからは遠く政府の地上軍の支配は及ばない。 ただ、ロシア軍はここに近づく者を空から監視しており、特に南のアフガン方面からやって来る集団はイスラム原理主義者、 武装イスラムと見做され、即、攻撃の対象となるという。 問題は、(当然ながら)彼らは一般人に偽装しており、一般人との見極めがつかないことだ。
ブルガ近郊農家の軒下で最初の患者に出会った。患者というより自殺未遂者だった。
50歳ぐらいの男だったが、途切れ途切れに喋った。 「ヘリ攻撃を受けて、逃げた、その時、女房が倒れて、骨折した、山羊も殺された、行く当てがない、食えない、女房を刺し殺した、 自分も死のうと思い、首にナイフを刺した、狙い目が悪かった、即死出来なかった、口惜しい、、」
ビーズは「欲しいものはないか」と訊いた。
男は首を横に振って、血だらけの指で土間に(ミール)と描いた。 (ミール)とはロシア語で「平和を」という意味だ。
水を飲ませようとしたが、すでに水を飲む力もなく、出血多量で死んでいった。
ビーズは男の血だらけの顔と指、(ミール)という文字を写真に撮っておいた。 いつかまたここに来ることがあったら供養してやろうと思い、貧弱な農家も撮っておいた。
ブルガでは顎髭を生やした男、目つきの鋭い男たちが町のあちこちにいた。ビーズとアンナは小さな建物の地下室に案内された。
そこには医薬品ケースが30個ほど並べられていた。先ず、これを整理して欲しいという。 「どの薬をどういう症状の時に、どういう方法で使うのか、良く分かるように仕分けして欲しい。 1/3ぐらいは大体分かるが、あとの2/3はこのままでは宝の持ち腐れとなってしまう」という。
すごく荒っぽいことを言うが、こういう状況下ではいたし方ないことだろうと了解した。 大半はどこかの病院や敵軍から分捕って来たものだろうことは推測できた。
問題は、殆どの薬品が有効期限切れとなっていることだ。 半年や1年ならまだ良いが、5〜6年以上というのがざらにあった。 なかには錠剤が変色したり、粉になってしまったり、飴のように溶けているものも多くあった。
ビーズはアンナに手伝ってもらい、使えそうなものを選別した。
そのうえで、取っておきの医学&薬学辞典を使って薬品名を調べ、その用途を特定し、仕分けした。 出来るだけ多くを残そうと苦労した。医療経験者らしき者の助けも借りた。 丸二日かかった。(処方箋)の作成にさらに二日かかった。