ビーズ
(パミールのはてに)
外では雨が降っていた。雨の中、リナは外でずっとビーズを待っていた。
「リナ、俺はこれから知り合いの病院に行く。先にホテルに帰っていてくれ」とリナを先に帰らせた。 ビーズは雨にぬれるリナの後ろ姿を見ながら思った。
「アンナには男の心を焼きつくすような激しさを感じたが、 リナからは今の雨のようなやわらかな愛を感じる。 アンナが灼熱の赤なら、リナは清楚な白、そばにいるだけで心が洗われるような... 」 「できれば、この町でリナに洋服の一着も買ってやりたいが… 」 「しかし、多くの患者が待っている。早く段取りをつけて、パミールに急がねば… 」
あれこれ考えながらビシケクの町を歩いた。
気がつけばビシケク総合病院の裏手に着いていた。
顔なじみの薬剤師アメドフに会った。アメドフのポケットにお金を差し込み、大きなサンタクロースの袋に3杯ほどの医薬品や医療器具を受け取った。 アメドフは「また来てくれ」とウインクをした。これは薬の横流し。 もちろん悪事、違法行為だが、ビーズは「強奪より少しはマシだろう」と自分に言い訳をした。
彼は白タクを拾い、バザール(青空市場)に廻った。 バザールの入口で白タクを待たせておいてパミールへの帰路の食料品を買い込むつもりだった。 そして、リナに合いそうな服を物色するつもりだった。 が、バザールの中でパミールの村の若者マローズにばったり出会った。
「おい、マローズじゃないか。どうして君がここにいるんだ」
マローズは「しまった」という顔で、照れくさそうにしていたが、 「いや、村の爺さん達にあんたらを護衛するように言われてね。 前後を10人ほどで固めていたんだよ」とあっさり自白してしまった。
「そうか、ありがとう。苦労をかけて申し訳ない。 ところで、ちょうど良いチャンスなので、ご苦労ついでに一つお願いがある。 明日、私とリナはここで手に入れた医薬品を持ってパミールの村に帰る。 いつになるか分からないけど、それとは別に医薬品や医療器がたくさん入手できるようになると思う。 マリオというフランスの報道記者から連絡が入ることになっている。 できれば、君達にこのビシケクで待機してもらい、品物を受け取ってもらえればと思うんだが。 マリオはロシア語も話せる。連絡のために一人はロータスというホテルに入ってほしい、どうだろう」
「分かった。ただ、3〜4人はあんた達のガードを続けることにしたい。 ビーズ、あんたが反対しても駄目だよ。これは村全員の絶対命令だからね」
ビーズはマリオに電話を入れ「私は今からビシケクを離れる。医療用品はホテル・ロータスに届けてほしい。 ロータスに村の者が待機している。電話番号は... 」と伝えた。
「了解した。ビーズ、君のアピール手記と画像はすぐさま世界中に流す。 ロシアにも流す。停戦の一助になればと思う。ただ、君はこれから狙われる危険がある。 用心してくれ。出来れば、直ちに西側に出るほうが安全だと思うが」
「ありがとう。でも、たくさんの人が待っているからパミールに帰る。 何かあれば、君からいただいた通信機を使って道中でも連絡する」
「了解。でも、通話は短時間で、しかも通話後は必ず電源を切って、その場を急いで離れてくれ。 空から狙われたら逃げようがないからね。くれぐれも用心してくれ。チャオ」
「ありがとう、チャオ」
パミールへの旅は九月の初旬となった。ふたりはセーターと防寒コートを着込んで国境を目指した。 山々は紅葉し、既に冬の準備を始めている。遠くに雪の峰が待ち構えている。
無理をしないようゆっくり進む。高山病を避けるためしばしば休息を取る。
3〜4人が距離をおいて二人をガードしているということだが、一切気配を感じなかった。
ガードがいれば山賊には安心だが、軍隊とぶつかれば3〜4人のガードでは一溜まりもない。 ビシケクを出発してから5日目にビーズとリナは脇道を使って国境の山を越えることにした。 眼下の雲が海原のように見えた。付近に国境警備隊がいる気配がなかったので、ふたりは国境の山を越え、 パミールへの道に入った。高い山が幾重にも重なって見える。今更ながら、行く手の厳しさが思いやられた。
タジクに入ると昼間は森に潜んだ。乾燥した枯れ枝を集め、煙をたてないように火をおこす。 ほっとする瞬間だった。タジクに入って数日過ぎた早朝、山の霧の中にセレスコという村が見えてきた。
人口3000人といったところだろう。小さな村だった。
その日は村に入らず、森の中に身を潜めた。いつものように暫しの休息を取ることにした。
ビーズが枯れ枝を集めている時、ジェット機が飛来した。3機編隊だった。
ビーズは急いで動画撮影を始めた。目にも止まらぬ速さでビーズたちの頭上を掠めると、 3機ともゴーゴーという轟音を立てて上昇を始めた。 ジェット機は上昇を始める前にミサイル弾を発射したようだ。 村の数箇所から黒い炎が上がり、ドカーンドカーンという大音響がビーズの胸にぶつかって来た。
雲の上に昇ったジェット機は急降下を始め、再度、村にミサイル弾を落として飛び去って行った。黒煙が小さな村の上空を覆った。
その直後、聞き覚えのあるヘリのエンジン音が聞こえて来た。
6機の攻撃ヘリが頭を下に向けて高速で飛来し、ビーズとリナの頭上を通り過ぎると、セレスコ村の上空を舞った。 ビーズは撮影を再開した。ヘリは機関銃を下に向け、上がったり下がったりの不規則な運動を繰り返しながら、 ラウドスピーカーでがなりたてた。
「この村に連続爆弾テロの主犯イズミールとその一味が逃げ込んだ。 先ほどのジェット攻撃でテロリストの主たる拠点は破壊した。イズミールとその一味に告ぐ。 5分待つ。武器を捨て、白旗を掲げて出て来い。さもなくば、容赦なく殲滅する。 セレスコの村民に告ぐ。同じく5分以内に村を離れ、北側の広場に集合せよ。 もし5分以内に出て来ない場合はテロリストの協力者と見做して攻撃する。 繰り返す。5分以内に村を離れ、投降せよ。北の広場に集まれ。さもなくば、テロリスト及びその協力者と見做して徹底的に攻撃する」 同じことをもう一度繰り返し、カウントダウンを始めた。
ビーズとリナは馬を太い木に繋ぎ、目隠しして、枚(ばい)をふくませた。
5分の間、二人は息を凝らして待った。「早く、出て来てくれ」と祈った。
少なくとも、女子供や老人は白旗を揚げて出て来ると思っていた。
しかし、誰も出て来なかった。
5分が過ぎると約束通り、ヘリの群は攻撃を開始した。 ガガガガッいう機銃掃射につづいて、ドスンドスンと腹にこたえる砲弾の炸裂音が聞こえて来る。 村の建物が次々に黒煙を放ち、破壊され、火に包まれる。空から村全体を破壊し尽くすつもりのようだ。
ビーズは殺戮の現場を撮り続けた。リナは馬を落ちつかせようとして彼らの首を撫でている。
村の北側にある学校の広場では、新たに飛来した二枚プロペラの大型輸送ヘリが次々と着地している。 攻撃ヘリは空中を旋回し、輸送ヘリから降り立つ兵員のガードをしている。 ロシア=タジク政府軍は一兵も失うことなく村を占領した。
ビーズはマリオから受け取った通信装置でマリオと交信した。
状況を詳しく説明し「この事態を世界に強くアピールしてほしい。 一刻も早くこのような殺戮を止めさせてほしい」と頼み、叫んだ。
「私は今すぐ国連機関にも、EU(欧州連合)にも乗り込んでいって、 当事者にも、世界中の人々にも停戦を訴えてゆく」と、無線電話の向こうからマリオが大声で話しかけてきた。 「ビーズ、君からもらった映像と手記は今、大変な反響を呼んでいる。 遠からず、状況は改善されると思う。今の君の話も録音したから、現地の証言として世界中に流す。 ただ、この会話は傍聴されている可能性がある。周波数もロックオンされるはずだ。 この通信装置はもう使えない。すぐに捨ててくれ。君の仲間とは連絡が取れた。 彼らと協力する。急いでその場を離れてくれ」
その日の夕方、ロシアのTVにはいつもの美人アナウンサーが出ていた。
「今日の早朝、CIS平和維持軍はタジクの連続爆弾テロの主犯で、 麻薬王の顔を持つコマンジール・イズミールとその一味を東部セレスコ村で掃討しました。 掃討後、セレスコの村民は平和維持軍から食糧や医薬品の配給を受け、 残虐なテロリストから解放された喜びを『今日という日をセレスコの解放記念日として、 末長く祝いたい。平和維持軍にもっと早く来て欲しかった。とにかく、これでここにも平和が戻る。 こんな嬉しいことはない』と伝えています」と魅力的な顔で微笑んだ。 (注:CISとはロシアを中心に旧ソ連12ヶ国で形成された「独立国家共同体」の略称=Commonwealth of Independent States)
顔を見ているだけで嬉しくなるほどの美女がそう言うからには、 少なくともロシアの男性の多くは魔法にかかったように彼女の言葉を鵜呑みにした。 TVは、ご丁寧に、白い麻薬の入ったビニール袋の山と「テロリストに殺された」村民の死体まで赤裸々に映し出していた。
もしビーズがこれを見ていたら、怒り狂い、挙句の果ては武装ゲリラに身を投じていたかもしれない。 が、幸いにも彼はこのニュース番組を見ることができる場所から数百キロも離れた場所にいた。 彼は医師として後ろ髪を引かれる思いでセレスコ村を後にした。
「あれだけの軍を投入した以上、軍医も従軍しているだろう。私がのこのこ出て行くこともなかろう」と思う反面、 「本当に負傷者の治療をきちんとやるだろうか」という疑いも湧いた。 しかし、日本人の自分が現場に出て行けば不審訊問を受け、逮捕されるだけだろう。 結局、ここはロシアの軍医の良識に頼るしかなかい。しかし、十分な医薬品を持参しているだろうか、、
ビーズは山に向かって「マローズ、マローズ」と呼びかけた。リナも呼んだ。
マローズが現れる確率はゼロに近いと思っていたが、数分後、ひょっこりマローズの実物が姿を現した。 「おお、マローズ、済まんが、この薬袋を持って村に入ってくれないか。 もし現場で医薬品が不足しているようだったら、これを使ってもらってくれ」と、 三袋のうち一番大きな一袋をマローズに預けた。「村人に使い方が分らないようなら、 村人を通じてロシアの軍医なり衛生兵に渡してもらえばいい」とマローズに指示した。
ビーズとリナは山道に入り、セレスコ村から遠ざかった。
南へ、南へと進み、セレスコを離れてから3日目の朝方、懐かしの東パミールの村パセルカに着いた。 村の皆がふたりの無事帰還を祝ってくれた。
酸味の強い地酒に男達のダンス。その中に(驚いたことに)あのマローズたち数名の護衛も入っていた。 彼らは二人と殆んど同時に村に帰着したようだ。
リナは村の女性たちと一緒にご馳走を作ったり、運んだりしている。 彼女はビーズに酒を注ぎながら「あなた、今夜はあまり飲まないでね」という。
アンナがいたら、ベリーダンスを始めていたところだろう。アンナなら(止めてもやるから)仕方ないが、 リナには絶対ベリーダンスなどさせたくない。白くやわらかな肢体のリナはアンナより艶めかしい。 これは絶対に他の男に見せるわけにはいかない。
酒と食事がすこし落ち着いたところで、あのマローズが立ち上がり 「コマンジール・イズミールを匿ったことでセレスコ村が攻撃された。 このことは皆が知っていると思うが、私はそのセレスコに入ってみた。 殆ど皆殺しだった。生き残った者も『この先、生きて地獄を見たくない。思い切って首を撥ねてくれ』と言っていた。 こんな時に暗い話をして済まない。だが、聞いてくれ、コマンジール・イズミールはまだ生きている!」と言う。
村民は歓声を上げたり、手を叩いたり、酒をあおったり、なかには両手を広げて踊り出す者もいる。ビーズには理解しにくい状況だった。
リナを見ると、彼女もビーズと同じ気持ちだったのか、悲しそうに目を伏せていた。
長老らしき男の一人が「我々にもセレスコ村と同じ運命が巡ってくるかもしれない。 その時は、皆、男として死ねるか」と叫んだ。
全ての男が「おお!おお!」と手をあげた。中には刀を振り上げる者もいた。
どこから手に入れたのか、マシンガンを空に向けて射ち鳴らす者もいる。
その晩は、リナと虫の声を聞きながら、静かな時を過ごした。
ビシケクからここまで、殆ど夜間の移動だった。昼間は山中で仮眠を取ったが、 ビーズは常にあたりに注意を払っていたので熟睡は出来なかった。
ここに帰って、彼は屋根の下で眠れることがとても幸せなことだとつくづく思った。
ただ、リナは違っていた。その若さゆえか、それともビーズを信頼し切っているからか、 ビシケクからの道中、昼間もビーズの胸に身をゆだね、気持ちよさそうに寝ていた。
とは言え、今、二人だけの部屋のなかでは服を脱ぐことも出来る。 やかんにお湯を沸かし、体の隅々をきれいに洗い清めることが出来る。それだけでリナは幸せだった。
あくる日から、ビーズは病院に戻った。病院とは名ばかりのテントの作業場だった。 長い間の留守はそれなりの犠牲を生んでいた。数人の患者の腕や足を再手術する羽目となった。
ビーズの留守中、助手達が負傷者の血を止めるために腕を固く縛りすぎたようだ。 お蔭で血管どころか筋肉神経も締め付けられて、完全にひからびてしまっている。 フォルクマン拘縮という症状だ。このままでは、腐ってしまう。急いで切断せざるを得なかった。
風邪で熱を出した患者に解熱、鎮痛剤だけを呑ませていれば肺炎も起こす。 勿論、快方に向かった患者も多かったが、このような幼稚なミスは絶対犯してはならない。
パミールに帰って一息つく間もなく、また多忙の日常が始まった。
患者は去り、新たな患者が来た。大変な遠隔地から病人や怪我人が集まって来た。
患者が患者を呼び、人が人を呼んだ。村の人口は以前に戻った。
ビーズは人々と親しくなって行くうちに、気になっていたことが、頭をもたげて来た。
コマンジール・イズミールのことだ。
反政府ゲリラの首領イズミールがここに逃げ込んできたら、また戦争が始まる。
村人は英雄とともに死ぬ気になっている。それでは困る。患者たちを戦いの巻き添えには出来ない。
戦いが起こったら最も危険な場所となる村の中央広場から、患者を少しでも遠ざけるため、山中に「ビーズ病院」を移動することにした。
山の斜面にテント村を移設した。運転時には大騒音を奏でる発電機も運んだ。 発電機のための石油も食料も、勿論、医療用品も運んだ。そして、テント村のすぐ近くに洞穴を作った。
洞穴は医薬品や食料の貯蔵用だが、万一の時はテントを折りたたんで 患者全員を避難させることが出来るよう深く掘り込み、給排水、換気などには特に注意を払った。
それはちょうど蟻の巣のようになった。
患者達が山のテント村に移動すると、すぐさまルンペン部落のような汚れた病院になってしまった。 しかし、ビーズは患者を少しでも安全な場所に移動させることが出来て、多いに安堵した。
数日後、マリオからの連絡待ちでキルギスの首都ビシケクに残っていた若者達もパミールの村に戻って来た。 馬の背にはたくさんの荷物が積まれていた。新しい通信装置とマリオからビーズへの手紙もあった。
「親愛なるドクトル・ビーズ、お元気ですか!
君の手記と画像ディスクを持って国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に当たりました。
当面の支援物資として医薬品、医療器具、食料、衣類を受け取りましたので君の仲間を通してそちらに送ります。 君の活動に役立ててください。UNHCRのスタッフの話ではこの国に渡される援助物資や基金の殆んどが 政府高官や軍幹部によってどこかに消えてしまっているそうです。 君のような人から直接に支援対象者に渡される物資はその何十倍も何百倍も有意義だと言っていました。 全く同感です。今はまだ『焼け石に水』かもしれませんが、このような活動を継続し、 その輪を広げてゆくことできっと『大きな変革の呼び水』となると信じます。
新たに通信装置を送ります。前回よりも性能は良くなっている(はずです)。 説明書を添付しておいたので読んでおいてください。
ところで、君のパミールの仲間は昔から『物流』を生業としてきたソグドという民族の末裔だそうですね。 『わしらは道づくりのプロだ。シルクロードだってわしらがつくったものだ。 これから、ビシケクのマリオとパミールのビーズを繋ぐ蟻の道をつくってみせる』と言っていました。 嬉しいじゃないですか。私はソグドという民族を知らなかったのですが、少し歴史を勉強してみて、 絹の道とソグド人は切り離せない関係にあったことを知りました。 あの駱駝の上に乗った商人こそが彼らのご先祖さま、中国人が碧眼白皙の民と呼んだ人々だったのです! などと、話は少し逸れましたが、彼らは私と君の間をどんな物でも2〜3日以内に運んでみせると言っていました。 彼らの力を借りて君との連携をずっとキープしたい。我々には真実を知り、世界に伝える義務と喜びがある。 これが私の率直な気持ちですが、ビーズ、君もきっと同じですね。これからもよろしく!
衷心より、マリオ・ダルヴォール
P/S: この戦争で既に数十人のジャーナリストが殺されています。 医者とて、もし敵を利する者と見做されたら、決して例外ではありません。 くれぐれも身の安全に気をつけてください」
ビーズは「そうか。ということはリナもシルクロードを闊歩したソグドの子孫ということになるな。 碧眼白皙か。それで彼女は肌が白く、目が青いのだな」と変に納得した。
彼はリナに「マリオからこんな手紙が来たよ。読んでごらん」と手紙を手渡した。
リナはそれを読んで「すばらしいわ。ビーズ、あなたの苦労が少しでも報われそうね。 私はクリスチャンじゃないけど、聖書を読んだことがあるのよ。 たしか『彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、 国は国に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない… 』って書いてあったと思う。 私はこれを読んだ瞬間、胸にぐっと来たわ」
「なるほど、昔の人も人間にとって最も大事なことは殺しあいや奪いあいではなく、 生きる糧を作ることだと知っていたんだな。今風に言えば『銃を鍬に変え、大地に戻れ』というところだね。 自分もゆくゆくは君とそうしたいと思っている」 「ビーズ、大賛成よ。きっとそうしましょう。でも、ここの人たちにとってあなたはアラーの次に大事なお医者さんだから、 すぐには無理でしょうけどね。とにかく、私たちもっともっと頑張らなくっちゃね」
これと同じ頃、タジクの外ではこの内戦に終止符を打とうという機運も高まりつつあった。 国連は、遠からずタジク全域に紛争監視団を派遣するという。
西の首脳も動き出した。彼らはホットラインを通じてロシアの大統領にタジク内戦の収拾を要請した。 ロシア大統領は「取引」した。西側がロシアの国内問題=チェチェン紛争に干渉しないこと、 かつタジクの拠点防衛に必要最低限のCIS平和維持軍(ロシア軍)を残すという条件で西の要求を呑んだ。 この結果、ロシアはタジクから軍の主力を撤退させ、暫しの間タジクでの激しい戦闘は止んだ。一時の休戦状態が生まれた。
ロシア連邦内のチェチェン共和国が独立を求めて激しく燃え出したため、 ロシアはチェチェンへの兵力シフトを迫られたこともタジクから撤退の一因であった。
そんなある日、マローズが弟二人を連れて来た。 「ドクトルの言うことは何でもやらせるから、こいつらを医者にしてくれ。 ほら、これが持参品だ」と食料、岩塩、それに数頭の羊の群れも連れて来た。 ビーズは勿論、持参品がなくても喜んで迎え入れた。
他にダリサ、レイラ、リョーシャなど数人の少年や少女がビーズのもとに身を寄せてきた。 親を失い、行き場を失った子供たちだった。ビーズはリナに薬品や食料の管理を任せた。 彼女はビーズの手伝いをしながら、毎日のようにダリサやレイラたちを連れて老人や孤児の世話をし、 食料を配って歩いた。ビーズはリナに天性の(とビーズには思える)喜捨の心を感じた。
リナは、ビーズが一日中あちこち忙しく立ち働き、夜遅く家に帰ってくるとあっという間に寝てしまうので、 始めのうち二十歳の体をもてあますこともあったが、そのうちにそういう生活に慣れてしまった。
このように(それなりに)平穏な日々が続いたある夜、ビーズが定時に通信装置の電源を入れたところ、 短信音のリピートが入ってきた。「マリオがビーズと話をしたい」という信号だ。 ビーズは電源を一旦切って、村から遠く離れた原野に出てマリオに衛星電話をかけた。
「ハロー、マリオ、元気か」
「ハロー、ビーズ、こちら元気だよ。君も元気か。聞いてくれ。 君のアピール手記や画像は世界中に流れた。それが功を奏したのかどうかは別として、ロシア軍の主力部隊は撤退した。 厳密に言えば、チェチェン方面に主力をシフトしたということになるが。 とにかく、この一ヶ月、空爆や大規模な戦闘は止んでいるはずだ。そうだろう」
「ああ、そう言えば、そうだ」
「おい、おい、君は案外のん気だね」
「いや、患者の治療が忙しくて、空を見上げる暇がなかったんだ」
「ところで、西側では、君は、君の知らない間にブラックジャックというニックネームをもらっているよ。 黒い眼帯をつけた正義の名医だそうだ。おめでとう、と言うべきかな。 それはそうと、聞いてほしいのはこれからだ。アメリカはこの機に乗じて、この地域でのロシアの力を殺ぎ落とそうとしている。 こちらの掴んだ情報では、彼らは武装イスラムの後押しをしている。タリバンという集団名を聞いたことはあるだろう。 狂犬のようなイスラム原理主義者だよ。アメリカはタリバンを自らの傀儡(操り人形)にしようとしているが、 そんな事をしていては、いずれ狂犬に手を噛まれることになる。 それでも、今、ロシアの影響力を殺ぐ方が大事なことなのだろうか。 ああ、これは私の独り言だがね。とにかく面白くない展開になってきた。
おい、聞いているかい、ビーズ。ロシアは少なくとも現状ではタジクをアメリカに譲り渡すつもりはない。 タジクを手離せば、中央アジア全体が雪崩を打ってアメリカ側に流れてしまうことが目に見えているからね。 春になったら、大衝突が起きる。君は十二分にやった。もう身を退いてはどうか。君のことが心配なんだ。 タリバンは真っ先に外人を標的にすると聞く。 外人の君がロシア軍だけでなくタリバンの標的にされてはたまったもんじゃない」
「ありがとう、マリオ。全てがいきなりだから、いまは面食らっている。落ち着いたらこちらから連絡する」
「了解。ところで医療品、食料、衣類の第二弾が用意できた。ソグドの末裔をこちらに送ってくれるか」
「マリオ、ありがとう。早速手配する」