ビーズ
(パミールのはてに)
二十四
「私のベッドを隣りの部屋に移したいが… 」
「私が嫌い?」
「いや、かわいい。好きだ。でも、君は私の妻の妹だ」
「好きなら、愛してほしい。私はあなたを愛している。でも、今までと同じようにお姉さんも愛してほしい。 私はお姉さんが好きだから、昔と同じようにお姉さんを大事にしてほしい」という。 ビーズにとっては不可解だった。「アンナを忘れてくれ」と言われるほうが分りやすかった。
「君とアンナを同時に愛せっていうのか」
「そうよ」
ビーズがこの村にやって来てすぐのことだったが、彼はリナに愛馬ジュリエットを贈った。
この地方では男が女に馬や羊を贈ることはプロポーズであり、それを受け取ることがプロポーズを受けることである。 ビーズがそれを知っていて高価な馬をプレゼントしてくれたのかどうかは分らない。 半信半疑に揺れながら、リナの心はすでにビーズのものだった。
それに、もうひとつの事情がある。昔からこの地方では、両親さえ認めれば、 姉と妹が一人の男を共通の夫とすることは決して不思議なことではなかった。 一人の男が3〜4人の姉妹すべてを妻とすることもあった。 それが姉妹ではなく、親類の女でも、全く無縁の女であっても許された。
その前提として男はすべての妻を平等に愛し、生活を保障しなければならない。 要するに、よほどの器量のある男でなければならない。
村人の話では「昔、この地方では(他の地方も同じだろうが)部族間の争いが絶えることなく、 多くの男が戦闘で死んだ。そのため女に対して男の数が極端に不足していた。 嫁ぎ先のない不幸な女たちを救うために自然発生的に一夫多妻制が生まれ、 アッラーの掟として世に認知された」そうだ。
社会主義ソ連の時代、一夫多妻は公式には否定された。 しかし経済的な事情もあって、これは隠然と続けられていた。 その場合、すべての子供は主婦(主たる妻)の子供として出生届けがなされた。 時期が重なって生まれた場合は、あとの子の出生届けを遅らせた。
夜、ビーズが寝入ったのを見計らって、リナはアンナの遺影の前に立ち、 「私、お姉さんに代わってビーズを命がけで愛すから、許してね」 「彼はお姉さんに気兼ねしているみたい。お姉さんも協力してね」と語りかけていた。
リナの愛を知った日からビーズの心にはいつもリナがいた。
ただ、ビーズにとってアンナは長い間(とまでは行かないが)苦楽をともにした古女房、、 一方、リナは今やかけがえのない心の妻だった。「どうも、俺には(同時に複数の女性を愛す)器量がなさそうだ」
しばらくしてビーズは帰宅後、日記のようなものを書き始めた。
「何を書いているの」
「手記だ。いや、アピールというべきかな。私がキルギスに来て、タジクに入ってから、 今までのことを嘘も誇張もなしに書き綴ろうと思う」
「それをどうするの」
「これを君と一緒にキルギスかどこかに持ち出して、メディアに載せようと思う。
世界中に真実を伝える。戦争当事者の両方にも伝える。戦争が弱い者をどんなに苦しめているか。 世界中の人々に殺しあいをやめさせるよう訴える。以前、あるジャーナリストから『生の声が人を動かし、 生の映像が世界を変える』と言われたことがある。私の実体験を基にしたアピールと 自分で撮った映像を世界に発信しようと思う。難しいかな」
「いいえ、よく分るわ。あなた、ロシア語もうまくなったわ」
「そうか。ありがとう。それから、、こちらから払うものは何もないが、 ここに医薬品や医療機、出来れば医師団を送り込んでもらうよう要請するつもりだ。 もう医薬品の蓄えも底をついてきた。自分一人では既に限界だ。だから急いで手記とアピールをまとめる」
「すごい。それが出来れば最高じゃない。私、何でもする。言いつけてね。 それから、一緒に旅に出れるって本当なの? すごく嬉しい。踊りだしたいほどよ」
「そうだ、一緒に行く。あのとき、アンナを連れて行かなかったことを後悔している。もう失敗は繰り返したくない」
「一緒に行けば、死ぬのも一緒ということね」
「そうだ。ともに生きよう。ビーデルと約束しただろう。この国を良くするって。生きてこの国を泣く者のいない国にするんだ」
リナはビーズが自分を連れて行くと言い出したとき確信した。「ビーズも私を愛している。本当に私は一緒に死んでもいい」と思った。
ビーズは患者が待つ「作業場」で働き、且つ寝る時間も惜しんで手記を書いた。
それから2週間ほど経って、ようやくキルギス向け出発の段取りがついた。
ビーズは村の主だった者を呼び、事情を説明することにした。
ビーズの考えを聞いて、リナは「そのまま喋っては駄目。彼らは復讐心に燃えている。 それを止めようとしたら、必ず反撥が出る。下手をすれば刺されるかもしれない」という。
結局、村人にはアピールのことは言わず、「キルギスに医薬品や医療機の補給を頼みに行く」ということにした。 村の皆が「餞別だ」と言って、ただでさえ不足している食料とキルギスの通貨を二人に渡してくれた。
「何かのために」とタジク人名の身分証明書(パスポート)も用意してくれた。 爆撃で死んだ村人のパスポートだった。年恰好はビーズと同じぐらい、 名前はイスティム・アト・ムハメドフと記されていた。その写真をビーズの写真に貼り替え、 スタンプのような模様を書き込むと、偽造パスポートが出来上がった。 ビーズは軍警の検問時やホテル・チェックインの際にこれを使えばいい。
イスティムの妻がリナに「これを持って行きなさい」と自分のパスポートを手渡してくれた。 勿論、写真は貼り替え、スタンプのような模様が書き込まれた。これでふたりは晴れて(書面上の)夫婦となった。
元気の良い若者たちが同行を申し込んできたが、ビーズは「暗視鏡を使って目的地まで夜行するから、 目立たない方が良い。二人だけで行く」と断った。
彼らは一旦引き下がったが、村の老人たちに「お医者さんに死なれては困る。 彼はアラーが我々に遣わされた神の使者だ。お前らの命を賭けて守れ」と命令され、 ビーズたちに悟られないように警護することにした。若者たちは二人の前後を固めることにした。
そういう事情を知らないビーズはリナの身に危険が及ばないよう用心深く行動した。
村人たちはビーズとリナが一緒に行くこと、つまりビーズとリナが夫婦になることは当然のことと受けとめていた。 彼らから見れば、ビーズの妻アンナの妹なら当然の義務でもあった。
なによりも村人はビーズがこの村に永住してくれることを望んだ。 それにはこの村で所帯を持ってもらわねばならない。 村人にとってリナはビーズの新妻としてまさに申し分ない存在だった。
村人はリナをダーマ(奥さん)と呼ぶようになった。正式に結婚もしていないビーズは少し訝(いぶか)しく感じたが、 リナがそれに満足しているなら、それでもいいと思った。とにかく、リナが明るさを取り戻してくれるのが嬉しかった。
リナは甲斐甲斐しく二人分の着替えと毛布、数日分のチーズ、パン、ワインを用意し、 二つのリュックサックに詰め込んだ。そして、出発の時が来た。
これは彼女にとっては今までの人生で最上の時だった。いつ死んでも構わないと思っている彼女にとって、 道中は幸せと感動の連続だった。見る物すべてが新鮮だった。夜明け前の山々も、野の花も、水の流れも。
日中は迷彩色のビニールシートの下で仮眠を取ったり、食事をしたり、 リナからタジクの歌を教わったりして時を過ごした。ビーズはリナの歌を聴いていてタジク語の美しさに気付いた。 「これなら、苦労して憶える価値はある」と思った。
出発して数日後、二人が身を潜める森の上空をヘリが飛んでゆくのが見えた。
ロシア軍と武装イスラムとの激戦地はアフガン国境に近いタジクの南部地方で、 東部僻地のパミール高原は比較的平穏だった。しかし、最近はヘリの飛来回数が増えた。 それに、一編隊の機数も増えた。2〜3機だったのが5〜6機に増えている。今まで偵察が主だったが、 攻撃編隊に変わっている。ビーズはヘリの編隊を見上げながら「これはおかしな事になりそうだ」と暗い気持ちになった。
事態はビーズが心配した通りだった。現在、政府軍=ロシア軍は首都での連続爆破テロの首謀者、 コマンジール・イズミールを血眼になって追いかけている。 コマンジールとは司令官、即ち首領、集団のボスという意味だ。 そのコマンジール・イズミールが東部パミール高原に身を潜めているという噂が流れた。 ヘリの飛来が増えたのはイズミールとその一味の探索に関係していた。
リナはビーズがピストルを持っていることを知っていた。
ヘリの編隊が上空を通り過ぎたあと、彼女は「万が一のときの護身用に欲しい」と、 そのピストルをビーズから貰い受け、自分の防寒コートの内ポケットの中に押し込んだ。
彼女はビーズには言わなかったが、万一のときは犯される前に、そのピストルで自殺するつもりだった。 「姉さんは犯されるより殺されるほうを選んだ。私もそうする」
ふたりは夜更けにカモフラージュのビニールシートを畳み、キルギスへの道を急いだ。
何度か川も渡った。ビーズは昔、父親が詠っていた「鞭声粛々夜河をわたる.. 」を思い出した。 当時は他人事だったから、夜に川を渡ることがどれほど大変な事か想像もしなかったが、 川の水は身を切るように冷たい。対岸に着いても火を焚くことが出来ない。 今、その辛さを骨身に沁みて知ることになった。
「暁に見る千兵の.. 遺恨十年一剣を磨き.. 」イスラムの読経のようなビーズの唄を聴きながら、 リナは少し首を傾げた。「ビーズ、今までの歌と節回しがちょっと違うわね」
「リナ、これはね、日本の戦国時代、ウエスギ・ケンシンという武将が川中島の敵陣地に夜襲を かけた時の様子をうたったものだ。馬の鞭音も立てないように静かに渡河して、敵陣に攻め込んだが、 あと一歩の所で敵将を取り逃がしてしまった。十年一振りの剣を研ぎ磨いて、その機会を待ったのに、残念でならない、、 確かそういう内容だったよ」
「そう、日本でも内戦があったの、知らなかったわ。土地の奪いあいと人の殺しあいは古今も東西も変わらないようね。 人間ってそういう動物なのかしら」
「いや、そういう人間もいれば、そうでない人間もいる。 そういう人間だけなら、人類は遠からず滅亡する、、しかし、すごく寒いね」
ふたりは濡れた服を脱ぎ、着替えて、毛布に包(くる)まった。しかし、一人で毛布に包まっていても 胴震いは取れない。結局、毛布の中で身を寄せあって温めあうことになった。 震えるリナの体を擦りながら、ビーズは「アンナだったら、ここでけしかけてくるところだな。 こんな所で絶叫されたら、やばいよ」と可笑しくなって、くすっと笑った。
「ビーズ、どうしたの?」
「いや、何でもない。さあ、手足も温めてあげよう」
「ありがとう。あなたも擦ってあげる」
「うん、、いや、俺はいい」
朝になると馬に餌をやり、蹄鉄を(音を立てないように布を挟んで)叩き直し、体を拭いてやり、木々の暗がりに隠した。 雑草や木枝でビニールシートに迷彩を施し、仮眠を取る。 リナはビーズの胸の中で居心地よさそうに眠っているが、 ビーズは時折りうとうとするだけで常に周囲の動きに気を配っていた。
夜になるとビニールシートを畳み、キルギスへの道を急いだ。夜と昼を逆さまにしたような毎日だったが、 山越え、谷渡りを繰り返して、数日後にようやくタジク=キルギス国境の峰にさしかかった。
ここで去年の春、ビーズはアンナと夫婦の契りを交わした。
白い花を摘んでアンナに手渡した。ビーズにはそれが何年も昔のことのように思えた。
あの頃は自分の心も若かったような気がする。あれから、たくさんの人の死を見てきた。
あの時と同じ白い花が咲いていた。あの時と同じように強い風に揺れていた。 花をあつめながらビーズは思った。これを節目にアンナと別れよう。
いつまでもアンナの亡霊を追いかけていては、リナと夫婦になれない。リナを幸せに出来ない。
リナは花を摘みながら思いに耽っているビーズにそっと近づき、 耳元で「ビーズ、いつまでもアンナを忘れないでね。アンナと私だけを愛してくれたら、 それでいいの。もしかしたら、時々アンナが私に乗り移って、あなたの前に出て来るかもしれないわよ。 その時は絶対に気味悪がらないでね」と囁いた。
「ありがとう、リナ。本当にありがとう。でも、そうは行かない。俺も考えた。 今、ここでアンナと別れる。アンナも分かってくれると思う」
「ビーズ、駄目よ。あなたは寝言でアンナの名前を呼んでいるのよ。 アンナは姉だから、私はやきもちなんか焼かない。いつまでもアンナを忘れないでほしい。 私の心からのお願いよ。あなたを死ぬほど愛している。私はあなたに愛されている。 私、それで充分過ぎるほど幸せよ」
「分かった。ここで、二人だけの結婚式を挙げよう。 ほら、ちいさいが花輪を作った。結婚指輪の代わりに受け取ってくれ」
「ありがとう、ビーズ。花の結婚指輪、すてきだわ。さすが、お医者さんだけあってとても器用ね。 あなたが作ってくれた指輪だからいつまでもこの目と心に焼き付けておくわ」
一陣の爽風があたりを吹き抜けていった。「リナ、やったね!」「お二人さん、お幸せに!」
リナにはアンナが祝福してくれているように思えた。
二人はキルギスの山に入った。目的地はまだまだ遠いが、気分は楽だった。 少なくともタジクの政府軍兵や夜盗の恐怖は薄らいだ。
結局、一週間を超える長い旅だったが、だんだんと首都ビシケクの匂いが近づいてきた。
ビシケクまであと2〜3時間というところで馬を降り、農家にお金を払って数日間、馬を預けることにした。
二人はリュックを背にビシケクに向かって歩いた。ポプラ並木が続き、そのはるか向うに雪の山脈が見えた。 スイスのアルプスより美しかった。
ようやく首都ビシケクに入った。ビシケクは久しぶりに見る大都会だった。
無闇に人が多いように思えた。ビーズは髭を生やし、安物のサングラスをつけていたので、現地の人々に溶け込んでいた。
ホテル・ロータスという安宿に入った。トイレ、シャワーが共用だった。 とにかく、久しぶりにリナと二人きりになれた。 ホテルで身を整え、以前から見知りの大使館に向かった。白塗りの洒落た洋館だった。
ただ、大使館とはいえ、この時期は、在カザフ大使がキルギスの大使も兼務しており、大使館の出張所のようなものだった。 館員に事情を説明したら、怪訝な顔で接客室に案内された。
ビーズは手記を見せ、「ご存知の事と思いますが、タジクでは内戦で多くの一般市民が殺されています。 このままでは無意味な殺しあいが際限なく続くことになります。これを世界中の人々に訴え、 すぐに止めさせなければなりません。私は現地で自らの意思で医療に携わっています。 自分の実体験を手記にまとめました。これに証拠となる現場写真の入ったディスクを添えます。 中には動画も入っています。それらを世界中のメディアに流したいと思って、ご相談に伺ったしだいです。 同時に、当面の緊急必要品として医薬品と医療器をご援助いただければと思います。 手記の最後の部分にもアピールの形で記載しておきましたが、ご助力いただけないでしょうか」
「分かりました。これから拝読させていただきますので、明日の午前10時に再度お出でください」という。
次の日10時に再度面会した。
「手記を読ませていただきました。写真も動画も見せていただきました。 いやあ、大変なもんですね。本館(本館とは恐らく在カザフ大使館のことだろうが、 ビーズはそれを確認するまでもなかろうと思い、尋ねなかった)とも相談したのですが、 この件は慎重に扱わねばらないということになりまして、出来れば、手記とディスクをこちらに全てお引渡し願いたいのですが。 で、この封筒には、いわゆる機密費というものですが、1万ドルほど入っております。 ここにサインいただければ結構です」と受領証を出し、 「で、先生のパスポートをコピーさせていただいてよろしいでしょうか」と何か物の売買のような流れになった。
「先生はこれで当面必要な医薬品を買い揃えていただけないでしょうか。 それだけあれば、当面の医療活動にはお役にたてると思いますが。 ところで、事前に申し上げておきたいのですが、手記の公開につきましては、 我が国はロシアやアメリカとの関係を考えますと、慎重のうえにも慎重に対応せねばなりませんので… 」
「1万ドルもあれば、私自身の当面の医療活動には十分ですが、それは全体のほんの一部に過ぎません。 広域の医療活動が必要です。タジクでは日々人が戦災で傷つき、飢え、死んでいます。 私はこの手記と映像を世界中のメディアに流して、人々に訴え、広域医療の実施を、 また、それと同時に戦争そのものをやめさせることを訴えていきたいのです」
「あなたの仰ることはよく分かります。ただ、これは政治の問題、一朝一夕に解決できるものではありません。 微妙な外交問題にも発展しかねません。お書きになられていることの裏づけを取ったり、 各関係先への根回しをする必要もあります。ですから、まず1万ドルほどで当面の対応をしていただきたいと思うのです。 もし1万では不十分ということでしたら、1万5千ドルまでなら… 」
「どうも場所を間違えたようです。この手記とディスクは持ち帰ります。他にあたることにします」
「坂本さん、それはどうでしょうかね。私としてはあなたの立場を考えて最大限の好意で申し上げたつもりだったのですが、 ご理解いただけないようですね。あなた自身がお書きなっておられますが、 あなたは反政府側の自発的な協力者だったわけでしょう。 一国の海外医療協力基金からお金を受け取っていながら、 無断で他国の非合法軍事組織の協力者になられた。数名のタジク軍兵を殺してもいらっしゃる。 これは重大な問題です。あなたはご自分の恥を天下に晒すだけでは済まなくなりますよ。 公金を詐取された。それに海外派遣の帰朝報告書にも偽りがあるでしょう。 それは公文書偽造ということになります。当然、刑事責任も追及されることになります」
「分かっています。どのような処罰をも受ける覚悟は出来ています。考えてください。 多くの人が無意味に殺されているのに、自分一個の保身のために、それを見て見ぬふりをすることが出来ますか」
「なるほど、よく分かりました。それではこれをお戻ししましょう」
ビーズはひどく疲れを感じて大使館を出た。
リナが外で待っていてくれた。
「うまく行かなかった。ほかを当たる。今日は少し飲みたい」
タクシーを拾って、アンナと最初に会った喫茶バーに乗りつけた。
昔のままだった。昔と言ってもほんの一年前のことだが、とにかく昔と同じ席に座った。
ウオッカを頼んだ。
リナが「何か日本の面白い話しをして」というので、ビーズは暫し考え込んだ。
「よし、分かった。こっちへおいで。昔、日本の山奥で出会ったお坊さんの話しをしてあげよう。 面白いんだよ。妖怪のような格好をしたお坊さんだった。顔を口だけにしてカッカッカと笑うんだ。 『人間は無から生まれ、無に戻る。生は一瞬の光だ』というんだよ。 それから、『人間は罪にまみれて生きておる。まずはそれを正面から見つめることだ。 我も悪人なりと言えれば、一歩前進だ』と言っていたな。その時はピンと来なかったけどね、今は少し分るような気がする」
「私も分かるような気がする。日本のお坊さんも偉いのね」
「彼だけさ。殆んどが下衆だ。今日会った奴も下衆野郎だった」
「ビーズ、あなたは疲れてる。今日は私があなたを抱いてあげる。 赤ちゃんみたいに眠るのよ。目が覚めたら、きっと疲れは取れているわ」
「リナ、ありがとう。そうする」
その夜、リナはビーズを赤ちゃんみたいに抱いたつもりだったが、激しく抱かれてしまった。
そのあと、リナは夜の窓越しに遥かな星空を見上げ、「アンナ、やったわよ」と報告した。
「恐かったけど、でも、これで私たちもようやく本当の夫婦になれたわ。 今、すごく嬉しい。また報告するからね。おやすみ、アンナ」
あくる日からビーズはホテルに缶詰で手記(アピール)の英露訳に取りかかった。 3日間、根をつめて頑張った。露文のほうはビーズの拙い文章をリナが見事に仕上げてくれた。 そして、出来上がりをホテルの受付で多数コピーしてもらった。2枚1ドル。ピンハネ込みか、意外と高かった。
始めは赤十字とか国連機関などに当たるつもりだったが、どこに行ってよいものやら見当がつかず、 結局、ビシケク在住の外国メディアの支局に当たることにした。
「自分は内戦中のタジクに飛び込んで、医療活動をしている日本人ですが、 もしご賛同いただけるなら、このアピール手記の内容を世界中に流していただき、 無意味な殺しあいを止めさせるよう訴えていただきたい。 できれば医薬品などの現地向け援助もお願いしたい」と頼んだ。
メディア各社を訪問し、その数社目にフランスの民放TFVの支局に立ち寄ったところ、 以前このビシケクで知り合った記者がちょうどそこに居合わせた。 ビーズが日本からディスクを送ったマリオ・ダルヴォールというイタリア系フランス人だった。
「マリオと呼んでくれ。君の名前はミスター・サカモトだったね」
「そうだ、でもビーズと呼んでくれ」
「ビーズ、君が日本から送ってくれたディスクの写真や映像はとてもリアルで多いに反響があった。 やはり生の映像のインパクトはすごいものあるよ。今回は手記を書いたというわけだね」
「手記は各社に手渡したが、新しい画像ディスクは君に渡そう。君がここにいると知っていたら、 他には廻らず、ここに直行していたんだが、、ああ、それに、それぞれの写真や映像にはできるだけ詳しく状況説明を書きつけておいた」
「ビーズ、ありがとう。手記とディスクを見せてほしいので、暫く時間をくれないか」
ビーズは「それでは、連れが外で待っているから、この町を案内してやることにする。 今から4〜5時間後にここに戻って来よう」とマリオのオフィスを出て、リナと町を歩いた。
ビシケクは、見慣れてくると、これが一国の首都かと思うほど小さな町だった。
だが、リナにとっては生まれて初めて目にする大都会だった。 広い道路、行き交う自動車、西洋風の建物、若い娘たちのハイカラな服装、巨大なオシ・バザール、 優美なパンフィロフ公園、南には万年雪を被る山々が美しく聳える。 あっという間の4〜5時間が経ち、ビーズはマリオのオフィスに戻った。マリオの反応は早かった。
「ビーズ、私はこれから仲間とも連絡を取りあって、急いで医療支援を手配する。 もし段取りがついたとして、医薬品や医療機を引き渡すにはどこに送ればよいかな」
「どこでも使える携帯電話を貸してもらえないか。受取り場所を連絡する」
「了解した。これはどこでも使える携帯電話だ。人工衛星経由の直接交信だから地上局のないところでも通信が可能だ。 少しかさ張るが、これでも昔よりはかなりコンパクトになった。 君にプレゼントしよう。これで連絡してくれ」
「ありがとう。マリオ、私はこういう手記をばら撒いた以上、 急いでパミールのねぐらに帰らないと密入国の罪で逮捕される。 今、逮捕されては困る。現地でもっと医療活動をしなければならない。 だから今晩にも姿を消す。マリオ、手記とディスクについてはよろしくお願いする」
「了解。TV、ラジオ、インターネット何でもござれだ。これは少しだが、私個人の気持ちだ。ビーズ、受け取ってくれ」
内ポケットの財布から100ドル札を4枚取り出し、ビーズに渡してくれた。
ビーズにとってはあの1万ドルの束よりもはるかに嬉しかった。
「ありがとう。マリオ、これからも手記と画像を君に送るよ。君もいつか現地に来てくれ。 歓待するよ」
「ありがとう、ビーズ。是非、行かせてもらう」