ビーズ
(パミールのはてに)
ウズベクとタジクの国境沿いのいたる所にウズベク側の哨所が配置されていた。 彼らはタジクからの難民の流入阻止を主目的としていた。 タジクへの逆流は(パスポートと米ドルさえあれば)さほど困難ではなかった。 タジク領に入ると、ビーズは出来る限り昼間は動かず、夜間にパミールへの道を辿った。 この時、暗視望遠鏡が多いに役立った。
暗い道を暫く進むと、川端に十個ほどの死体が転がっていた。 後ろ手に縛られ、腹をえぐられ、首を斬り落とされていた。
ビーズは思わず掌を合わせた。死体は体格からしてロシア人だと見当がついた。 ロシア軍の斥候隊だろうか。少人数の一隊が反政府軍の罠に遭ったのだろう。 捕らえられ、残酷な仕打ちを受けていた。ビーズは辛かった。自分は反政府軍の自発的な協力者だった。 だが、こんな殺し方を正当化できるほど狂ってはいない。
ビーズは「済まない。安らかに眠ってくれ」と語りかけながら、首なしの死体を写し続けていた。山中は寒かった。 ビーズは物思いに耽りつつ、独り旅を続けた。
武装イスラムの残忍さや極端な男尊女卑の考え方にはついて行けないが、 イスラムにはイスラムなりの存在理由があるのだろうと思った。 誰かから聞いたことだが「極端な貧困、病苦、、どん底に喘ぐ者、まさに救いのない者にとって アッラーこそが心の安寧、死後の悦楽を約束してくれる唯一無二の存在だ。 アッラーのために命を捧げることができれば至上の幸福」だそうだ。少し疑問を感じるが、 それは自分が今まで恵まれ過ぎていたせいかもしれない。
そう言えば、以前アンナはイスラムには「喜捨」という言葉があると言っていた。 「富める者は貧しき者に施しをする義務を負う。貧者からすれば、富者に施しという善を行わせ、 神への道を歩ませてやったことになる。ゆえに貧者が施しを受けることも、 即ち善であり美徳である」そうだ。ちょっと分りにくい理屈だが、喜捨の精神は学ぶべきだと思う。
いずれにせよ、異文化に対して外部から無理矢理に強制や矯正を加えようとすれば必ず歪(ひずみ)が生じる。 彼らに何かについて働きかけようと思うなら、最低一年間はそこで暮して彼らを知ることから始めるべきだろう、、 彼はあれやこれや考えながら、時々は道に迷いながらも、東のパミールを目指した。
ウズベク=タジクの国境を越えてから一週間ほど経って、ようやく見覚えのある場所に出た。
以前アンナと一緒に北のキルギスからパミールに入った道だった。この道を南下すればパミール高原、アンナの母親の住む村がある。
昼間、ビーズが小高い森の中に隠れていると、人の群れが道路を北上しているのが見えた。キルギスへの難民だ。
見慣れた風景だった。羊、驢馬、子供を連れた者、襤褸袋を担ぐ者、家財一式を曳く者、着ぶくれの中年女、老人、負傷者、 総勢40〜50人がタジク南部から逃れ出て、北のキルギスに向かっている。彼らとビーズの距離は300〜400メートルあった。
ビーズは彼らが無事に逃げ切ることを祈った。だが、祈りは虚しかった。
馬に乗った兵が山の陰からいきなり飛び出し、難民の群れの前後を塞いだ。
その格好からして20人ほどの政府軍の小隊だった。いや、もしかしたら「人民戦線」 とかいう強盗集団かもしれない。小隊のボスらしき者が手を挙げた。
ビーズは危険を感じ、ロミオとジュリエットに枚(ばい)をふくませた。
難民の群れは小隊に対し羊のように従順だった。荷物を道路に降ろして整列した。
10数名の兵が銃を構えるなか、難民の持ち物検査、身体検査が始まった。
武器、金品を調べているようだった。ビーズはその光景を写真に収めた。
群れの中から逃げ出す者がいた。ビーズは撮影を動画に切り替えた。パンパンという乾いた音が聞こえて来た。 逃げた男は道路脇に転び、そのまま動かなくなった。何もなかったように、検査は続けられた。 数分後、めぼしい物は一箇所にまとめられた。
あろうことか、隊長が右手を挙げ、空に円を描くと、兵たちの銃は難民の群れに向けられ、 一斉に火を吹いた。青白い煙があたりを覆った。
ロミオとジュリエットは一瞬、慄いて後ずさりした。が、彼らはすぐにおとなしくなった。 遠くで行われている人間の殺戮には殆んど関心がないのか、時々、銃声に反応して耳をピクピクさせる程度だった。
だが、死の恐怖を知る人間にとってそれは地獄絵だった。憐れな難民は道路上にばたばたと倒れた。 当たりどころが悪く、即死をまぬがれた者は必死で逃れようとする。
悲鳴がビーズの所まで聞こえて来る。ビーズは目を血走らせる。 道路上では第二撃、第三撃が続いた。ビーズはそれを撮りまくった。
数秒後、白煙は消え、あたりは静かになった。難民から金品を奪い取った兵たちは羊、 驢馬も忘れず連れ去って行った。道路上には死体と襤褸が散乱していた。
兵達が去った後、ビーズは道路に駆け下り、死体を調べた。生存者は一人もいなかった。
表情はさまざまだった。
驚いた顔、表情のない顔、恐怖に引き攣った顔、髪まで血に濡れた顔。 子を抱く親、親にしがみつく子、、中には笑い顔もあった。 だが、決して嬉しくて笑っているのではない。
血の匂いが鼻を突いた。ビーズは一人一人に自分の無力を詫び、 目を閉じてやり、両手を合わせてやった。彼は夜とともに南下を続けた。
本道から脇道に入り、何度か冷たい川を渡った。
直線距離はさほどでもないが、山襞(ひだ)の多い地形では想像を絶するほどの遠距離となる。
南下道路に入ってから三夜を山襞に沿って蛇行し、四日目の朝にようやくアンナの家に着いた。母親、妹と弟が出迎えてくれた。
母親の名はベーラ、妹はリナ、弟はビーデル。
彼らはビーズを見て、喜びとともに、一瞬あせりの色を見せた。
母のベーラがビーズを居間に導き、お茶を出してくれた。居間にはアンナの父親の遺影、 その傍にはマニ車の入った木箱が昔のままに置かれていた。
「アンナはどこ?」
「アンナはいない」
ビーズは白鬚の男が息を引取る前に語ってくれたことを包み隠さず話した。
政府軍のトラック部隊が反政府ゲリラの村トプチャクに攻め込んだ。トプチャクは全滅した。 政府軍の大佐がアンナに言い寄った。アンナは答える代わりに大佐の顔に唾を吐いた。 大佐はアンナを刺し殺した。医薬品を求めて旅に出ていたビーズは後になってアンナの死を知った。
「私はロシア軍のヘリで首都ドシャンベに送られ、日本に帰された。私がここに戻って来たのは、 家族にアンナの死を伝えねばならないと思ったからだ。それに、ここにアンナの墓をつくり、 形見の品を埋めたい。その傍で医者をしたい。今、ロシア軍や政府軍に仕返しをする気はない。 人を殺すのではなく、人を救いたい。私も人を殺した。そして、自分の無分別から多くを死なせた。 せめてもの償いに、医者として一人でも多くの人を助けたい」
家族三人ともアンナの死はあまりに突然で、ただ茫然とするだけだった。
妹のリナは黙って部屋を出て行った。それを追うように弟ビーデルも出て行った。
ベーラは柱にすがりついて泣いた。長い時間泣いた。ビーズは黙って座っていた。
まもなくしてベーラは涙をぬぐい、ビーズのお茶をいれ直し、目をつむって木箱の中のマニ車を何度か廻した。 マニ車はカラカラと乾いた音を立てた。
「分かったわ。ここから30分ほど歩いた所に、昔ロシア人の医者がいた診療所がある。
今は何もないけど、そこでお医者さんをすればいい。ここには医者がいないから、 きっとみんな喜ぶわ。私達も出来るだけお手伝いする。アンナの墓はその近くにつくりましょう。 あの子は一番大事なものを、命をかけて守ったのよ。あなたのお蔭であの子は幸せだった。 必ずあなたを守ってくれるわ。頑張ってね」
ビーズは黙って頷いた。
ビーズはベーラの家から出ると、二頭の馬が待つ場所に向かった。
彼は馬の背から食料の入った袋を下ろし、家族への「おみやげ」を手渡し、元診療所に向かった。 家族とはアンナの母親ベーラ、アンナの妹リナ、弟ビーデルの三人。 ビーズにとって13〜14歳の少年ビーデルは弟というより甥っ子という感じだが、 その少年がビーズを追いかけて来て、自分も診療所で働きたい。勉強も教えてほしいという。
「ビーデル、君がこの地方の言葉を教えてくれるなら、OKしよう」
「やったあ!僕、しっかり頑張るから。お兄さん、よろしくお願いします!」
ビーズは「お兄さん」と呼ばれて、初めて弟を持つことの感動に胸がじんとした。
診療所の傍にアンナの墓をつくった。河原の丸石を選んだ。
その下にアンナの形見の品をビニール袋に詰めて埋めた。ビーズが片時も離さなかったアンナの毛髪と黒い眼帯だった。 墓石をじっと見つめていたら、そこにアンナの嬉しそうな顔が見えてきた。 「ビーズ、あたしの家族をよろしくね」と微笑んでいるようだった。
ビーズは地の果て、パミールの山奥で医療活動を始めた。
山の斜面に横穴を掘り、そこに貴重な医薬品をしまっておいた。 住民の平均寿命は56歳、しかもこれは内戦が始まる前の数値だという。現在の平均寿命は分らない。
栄養状態が悪く、子供の死亡率が高い。死ななくてもいい人が多く病で死んでいる。
ビーズ診療所を開くと患者はすぐに集まった。山の悪路を杖つきながらやって来る者もいた。 ビーズは外科、内科、循環器、小児科、婦人科、何でも屋の無医村医師となった。 日本から持ち込んだ医薬品は新薬に慣れていない人々には効果抜群だった。
患者達はお金を払えなかったが、鶏や食料を運んでくれた。ベーラがその鶏や食料を受け取り、 当然のように貧しい人々に分け与えた。配達にはビーズも手伝った。 途中、ベーラは夕方の路傍で寒さに震えている老婆に自分の服を脱ぎ与えた。
ビーズは「自分も寒かろうに、、これが喜捨の心というものか」と感心した。
弟のビーデルもよく働いた。診療所の仕事を多いに助けてくれた。それに、彼は何事にも興味を持った。 すこしでも暇が出来ると、数学、理科、医学関係の質問を矢継ぎ早に出してくる。
リナは最初の印象どおり、はにかみ屋で口数が少なかった。顔立ちも性格も、情熱的な姉のアンナと対称的だった。 リナは焼きたてのナン(パン)、プロフ(ピラフ)、それにヨーグルトなどを診療所に運んでくれた。 が、ビーズとは顔も会わさず帰ることが多かった。
或る時、ビーズがビーデルに「君は理数系が好きだね。将来、その方向に進みたいのかね」と尋ねた。 「いや、理数系も面白いけど、歴史や文学の方が好きだ。黙っていたけど、歴史や文学はお姉さんに教わっている。 トルストイの『戦争と平和』も、ショーロホフの『静かなるドン』も持っているよ」という。
「お姉さんとは、あのリナのことか」ビーズには意外だった。
「僕はこの国を良くしたい。僕はこの国を泣く者のいない国にしたい。 皆が笑って暮らせる国にするんだ。そのために色々なことを勉強したい」という。ビーズはびっくりした。 13〜14歳の頃、俺はそんなことを考えただろうか。
ビーデルは手足の長い蚊トンボのような少年だ。山に登って蜂蜜を取るのが大好きだという。 「僕だけの秘密の場所だけど、今度、蜂蜜取りに連れてってあげる。その代わり、日本や世界のことを教えてよ。 あのね、僕の体には世界中の人の血が流れているんだよ。ペルシャ、チベット、ギリシャ、ロシア、ウイグルやモンゴルまでね。 蜂蜜は蜂の巣を煙で燻(いぶ)して取るんだ。ものすごく美味しいよ」
ビーズは「こういう子がこの国を変える。これからの国の歴史を創るのだろう」と思った。
診療所の仕事は概して順調だった。驚くほど遠くからビーズの診療所にやってくる。高い山脈の多い国だ。 山向うの里に行くには、山ひだや川筋に沿って数キロ、数十キロも進み、急な峠道に入る。 高山では酸素濃度が低いから息が切れる。ゆっくり峠を越えて、ゆっくり谷間に下る。 それを何度も繰り返してようやく目的地に到着する。
時々、負傷者が数十人名規模で担ぎ込まれる。そのときは、診療所はてんてこ舞いする。
外科手術、輸血などが必要で、どうしても医薬品、設備の不足に悩まされる。
それに、寝かせる場所や食事の世話まで必要となる。
ビーズにとって最大の関心事の医薬品については、意外なことに食料と同様、 患者やその家族が時々持ち込んでくる。陸の孤島に住む者は自衛のために医薬品を備蓄しているようだ。 ただ、その殆どがはるか昔に期限切れしており、使い物にはならない。しかし、それでもないよりはマシだった。
その多くは解熱、鎮痛剤で、抗生剤は宝石以上の扱いを受けていた。 彼らの備蓄品の中には何やらいかがわしいものも入っていた。 万能とされる薬草はまだましなほうで、聖水というわけの分からない濁り水、 動物の干乾びた内臓や骨格の一部などが入っていた。おまじないやお札のようなものも幅を利かせていた。 そういうわけだから、ビーズの徒手空拳の「指圧療法」は多いに歓迎された。 診療所の廊下が当面の病室となった。食事はベーラやリナ、それに村人が色々と世話をしてくれた。
夏も近づく頃にはビーデルは助手として欠かせない存在になっていた。
ビーズのタジク語はなかなか上手にならなかった。「まず発音が難しいし、文法が理解不能、 というより文法がない」というのがビーズの言いわけだった。リナは、相変わらず口数は少ないが、 少しずつビーズに打ち解けてきた。ビーズの言いわけをくすくす笑いながら聞いていた。
アンナは挑戦的な真っ黒の瞳だったが、リナの瞳は澄んだ青。性格もアンナは激しく能動的だったが、 リナははにかみ屋で受動的だった。同じ姉妹で、なぜこうも違うのかと不思議だった。
ビーズはリナに愛馬ジュリエットを贈った。リナは頬を紅潮させると、ジュリエットに飛び乗って駆け出した。 かなり遠くからビーズに手を振った。
リナとジュリエットは一体となって夕陽の中に輝いていた。その姿を見て、ビーズはまた意外さを感じた。 あのはにかみ屋のリナが颯爽とした「女馬賊」となった。
パミールの辺地で平和な日々が続いた或る日、攻撃ヘリの編隊がやって来た。
5〜6機が束になって高原の村を襲った。ロケット弾が放物線の煙を吐いて地上に降って来た。 目につく建物や橋などが破壊された。
ビーズの診療所も例外ではなかった。ちょうどリナが食事を運んできてくれた時だった。
雷鳴が遠くから近くに移動してくるように、ロケット弾の落下音が近づいて来た。
「危ない」と思った瞬間、ビーズはリナに飛び掛かり、床に押し倒した。
すぐ近くでヘリから発射されたロケット弾が炸裂した。
あたりに建物やガラスの破片が飛び散った。ビーズの背に大きなキャビネット(薬品棚)が落ちて来た。 その上に倒壊した隔壁の一部が乗っているようだった。すごく重い。
診療所の中はゴミだらけ、ホコリだらけとなった。患者たちのうめき声が聞こえる。
キャビネットの下でビーズはもがいたが、身動きが取れなかった。その真下にリナがいる。
彼女は無事だった。目を閉じていた。
上から見下ろすと、それは天使のようにかわいい顔だった。ビーズが「リナ」と呼ぶと、 彼女ははっと目を開いた。ビーズは澄んだ青い瞳に吸い込まれそうな錯覚をおぼえた。
彼女の胸の鼓動がビーズの胸にじかに伝わって来る。
「リナ、腕が自由にならない。君の手でこの棚を少し上に押してくれ。 そうすれば、私の腕が自由になる。なんとか抜け出すことが出来る」
リナは必死でキャビネットを持ち上げようと努力したが、持ち上がらない。 体は汗でびっしょり濡れていた。ビーズはキャビネットの下で無理やり体を反らせていたが、 堪え切れず力を抜いた。彼は顔をすこし横に反らせたが、そのとき彼の唇がリナの耳元に触れた。
リナの体に衝撃が走った。「ううっ」とうめき声をあげた。 ビーズが息をする毎にリナは動けない体をよじらせた。ビーズはもう一度もがいた。 キャビネットはなんとも動かない。二人の汗は薄い衣服を通して混ざり合った。リナの体はやさしかった。
リナは顔を赤らめ、「ビーズ、私を救ってくれて有難う」と言う。
「まだ救っていない。これからだ。リナ、いいか、その棒を取って、私の手に渡してくれ」
リナの体は、耳元で囁くビーズの声に反応して小刻みに震えた。
彼女は目を閉じて、懸命に手を延ばした。棒を握った。
ビーズは右手でリナから棒を受け取ると、それを崩れた壁の端に押し当て、 あらん限りの力で押し、キャビネットと体ごと左にずらした。
キャビネットと体が少しずれた瞬間、両腕に自由が戻った。そして彼は腕と足の力で一気にキャビネットを持ち上げた。 「さあ、ここから抜け出るんだ、リナ」
「私、もうだめ。ビーズ、あなたと離れたくない」
バターン!とキャビネットが再びビーズの背の上に落ちてきた。 彼はショックを受け、取り乱してしまった。必死の「腕立て伏せ」をもう一度やる羽目になった。
再度、あらん限りの力でキャビネットを持ち上げ、その下からまずリナを、 そしてリナの助けを借りてビーズも無事に抜け出したが、心は散り散りに乱れたままだった。
気が付けば、二人は破壊された診療所の外に出ていた。そしてビーデルを探した。 ビーデルはゴミとホコリの中で腹を裂かれ、血だらけになっていた。ロケット弾の爆風か破片でやられたのだろう。
「ビーズ、僕の本は無事かな」
「大丈夫だよ。今、何も喋らない方が良い」
「お母さんが心配だ」
「ベーラも無事だよ。ビーデル、山に蜂蜜を取りに行こう。 タジクの歴史も教えてくれ。一緒にこの国をよくするんだ」
「有難う、ビーズ」
リナが「ビーデル、ビーデル」と叫んだ。しかし、ビーデルはすでに息絶えていた。
その顔にはあどけない少年の笑みが浮かんでいた。
ビーズは「なぜ、こんな子供まで殺さねばならないのか」と声を震わせた。
うめき声を上げていた患者も息絶えていた。床の上に鮮やかな血が流れていた。
ベーラのことが心配になった。
リナと走った。村の所々に火や煙が立ち、悲痛な泣き声があちこちから聞こえていた。
ビーズとリナはベーラの家に着いた。
彼女も死んでいた。攻撃ヘリからの機銃掃射を受けて倒れていた。頭と腰が砕かれていた。
路上には機銃弾の走った跡が残っていた。最初ここに来たときと同じように、 庭には色とりどりの花が咲き、葡萄の蔓がその上を覆っていた。だが、もう女主人はいない。
ベーラに何の罪があったのだろう。少なくとも彼女はイスラム・ゲリラではない。
「許せない。俺も闘う。奴らをぶっ殺してやる」
「ビーズ、あなたは人を殺しては駄目。お願い、殺しあいからは何も生まれない。
憎しみと殺しあいがいつまでも続くだけ。お願い、仕返しなど考えないで、人を救って」
リナは一瞬にして身寄りをすべて失った。どんなに辛かろう。それでも復讐ではなく、人を救えと言う。 リナの言葉がビーズの心に痛いほど響いた。そうだ、俺もそのためにここに来た。 あの時、俺が自殺を思いとどまったのは仕返しのためではない。仕返しなら誰にでも出来る。 だが、それは本当の聖戦(ジハード)ではない。血みどろになって一人でも多くの人を救うことだ。それが俺のジハードだ。
「分かった。リナの言う通りだ。今から、何も考えずブッチャー(肉切り屋)を始める。 リナ、手術を手伝ってくれ。先ず、生きている者で救助隊を作ろう。皆に呼びかけてくれ。 負傷者を村の真ん中に集めよう。それに食料確保だ」
「診療所の薬は全滅したんじゃないの」
「山の洞穴に少し蓄えてある。当座は大丈夫だろう」
負傷者が村の真ん中に集められると、ビーズ達の精力的な作業が始まった。
ビーズとリナは寝る間もなく、血だらけ、肉だらけで働いた。ビーズが日本から持参した薬剤は 最初の段階であっという間になくなってしまった。重傷患者は死んでいった。 村のあちこちの火は消えたが、泣き声は夜遅くまで続いた。 新たに運ばれて来た者も、かなりの数が死んでいった。
負傷した子供が出血多量で死にかけている。血液型も何も分からない。
母親が「私の血をこの子に輸血してください。この子の出血を止めてください。助けてください、神さま」と泣き叫ぶ。
ビーズが「血液型が合わず拒絶反応を起こすかもしれない、危険だ。それに輸血しても、この状態では.. 」と言うと、 傍のボロ毛布の上に寝かされていた四十過ぎの男が「わしは0型だから、大丈夫だ。 必要なだけ血を抜いてくれ。大事な女房と子供はわしの目の前で吹っ飛ばされた。 今更、生き残る気もしない。さあ、やってくれ」と服の腕を捲くりあげた。
「アリョーシカ、助かったね。神さまにお願いが通じたんだ。ねえ、アリョーシ、アリョーシ、 目を開けて。アリョーシ、息をしとくれ。死んじゃいやだ。神さま、お願い.. 」
ビーズはアリョーシカの瞳孔に光を当て、首を横に振った。
生き残った者は、子供も老人も敵を呪い、復讐を誓った。
ビーズは思った。死ぬも地獄、生きるも地獄か。家を焼かれ、家族を殺される。 これでは復讐を考えない方がおかしいな。しかし、それでは、確かに際限のない殺しあいが続く。
殺しあいを止めさせなければならない。ただ、どうすれば良いのか、、答えはなかった。
ビーズはこの地獄絵も写真にしておいた。
ただ、このような修羅場でも3〜4日経つと、それなりに落ちついて来る。 死ぬ者と生き残る者の区別がはっきりしてくる。悲しみが内向する。
リナは肉切り作業が一段落した頃から悲しみを内向させ始めた。
母と弟の遺体を庭の隅に並べて埋め、丸石の墓を作った。アンナの墓もその傍に移した。 リナは「ひとりで寝るのが恐い」という。ビーズはリナの家に移り住み、同じ部屋でベッドを二台並べた。
朝になっても彼女は家を出ず、何時間も黙って墓を見つめていた。
ビーズはリナをそのままにして作業場に通った。夜、家に帰るとマニ車があの日と同じ乾いた音を立てていた。 あの日、ベーラはアンナの死を悼んで泣いた。今、リナは家族全員を失い、一人ぼっちになってしまった。
夏の雨が降る日、ビーズはいつものように夜遅く帰宅して、バタンキューと寝入った。
夜の3時頃、隣りのベッドで泣く声がする。ビーズは起き上がり、そっとリナのベッドに入り、 彼女を抱きしめた。リナは一瞬、ビクッと体を緊張させたが、ビーズの気持ちが通じたのか、 緊張を解き、赤ん坊が母親に甘えるようにビーズの胸に顔をうずめてきた。 ビーズはリナが泣きやみ、寝入るまで彼女を抱きしめていた。
リナが目覚めるとビーズは既にいなかった。彼女はビーズの昼食を作り、作業場に向かった。 そして、これを切っ掛けに彼女はそのまま作業場に残り、再びビーズの仕事を手伝うようになった。 少しずつ明るさを取り戻してきた。
こういう生活が何日か続いたが、ビーズはリナが傍で寝ていることに耐えられなくなってきた。