チェチェン挽歌
1917年の冬、ロシアに社会主義革命が起きた。革命初期こそ、弱者の救済、万民の平等を信じ、社会主義ユートピアに我が身を捧げるものも少なくはなかった。 しかし、現実は惨憺たるものだった。食えなかった。
そして、政権批判は絶対に許されなかった。
もともとコーカサスは農業主体の土地柄で、総じて保守的、反革命的であった。
彼らは自らが大切に育ててきた田畑や果樹園、放牧地が「国有化」という名目で取り上げられるのを忌み嫌った。 先祖伝来の豊かな土地を死守しようとした。
だが、彼らの動きはてんでん-ばらばらで組織性に欠け、北から攻め寄せる歴戦の赤軍に圧倒され、 鎮圧され、あとで徹底的な仕打ちを受ける嵌めになった。
過酷な食糧供出を強いられ、多くの農民が「食糧隠匿の罪」で刑殺され、多くが「飢餓」で死んだ。 以前のロシア帝国より苛酷なソビエト政権に対するチェチェン人の敵愾心は拭い難いものとなっていた。
1941年夏、ナチス・ドイツとの戦争が始まった。 独ソ不可侵条約を一方的に破ったドイツ軍は電撃的に三方面からソビエト侵攻作戦を展開した。
北のレニングラードを目指す北方軍団、首都モスクワを目指す中央軍団、 南の穀倉地帯ウクライナを目指す南方軍団、計300万の兵が同時侵攻を開始した。
これをバルバロッサ作戦という。
ウクライナを攻め、これを貫いたドイツ南方軍は当時世界最大と言われたバクー油田を求めて更に東進した。 チェチェンに入ったドイツ軍は「将来、チェチェンの独立を認める。 その条件として反ソ義勇軍を組織せよ」と要求した。
チェチェンはロシア帝国、そしてソ連に対する積年の恨みと祖国独立の熱望から躊躇なくこれを受け入れ、 2000〜3000人の反ソ義勇軍を組織した。
チェチェン義勇軍は少数ながらソ連軍に容赦なく襲いかかった。 あまりの容赦なさにソ連軍から「屠殺軍団」と仇名された。
ドイツ軍占領下では大なり小なりこのような状況は現出したが、 チェチェンのそれは余りにも熾烈だった為、これがあとで悲劇を起こす原因となった。
1944年の冬、ドイツ軍の敗退後、チェチェンの「国家への裏切り」に対するスターリンの報復が始まった。 50万のチェチェン人は一日で貨車に積み込まれシベリアに送られた。
ドイツ占領地ではどこでも「ソビエト国家に対する裏切り行為」はあったが、 チェチェンの悲しさは彼らが「見せしめ」に手頃な少数民族だったことである。
しかもスターリンが南隣りのグルジアの出身で、チェチェンには生まれながらの怨念を抱いていたことも悲劇の一因となった。
シベリアへの車中の凍死者、餓死者はそのまま捨てられ、野犬の餌になった。
スターリンの死後、1950年代になって追放は解除された。 しかしシベリアを抜け出して故郷に帰り得たのは全体の1/4〜1/3だった。 統計が残っていないので具体的数字は不明だが、大半は死に絶え、一部は現地に留まり、 一部はソ連各地に散り、最後の一部がチェチェンに帰り着いた。 凍死と餓死はシベリアへの車中と到着後数週間に集中しており、なかでも老人、乳幼児が多かった。
チェチェン人は「ソ連に対する裏切り者、卑劣漢」として一般人の蔑みと恐怖の対象となった。 人々の多くが「チェチェン」という言葉を聞いただけで背筋に悪寒を感じるという。
1991年、ソビエト社会主義連邦(ソ連)が崩壊するとウクライナ、白ロシア、カザフ、 ウズベク、トルクメン、タジク、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、 それにバルト三国がソ連から分離独立し、ソ連はもとの母なるロシアに戻った。
社会主義を放棄したロシアの政権内では大混乱が生じていた。 ロシアのチェチェン駐屯軍は武器弾薬を残したまま現地を引き払ってしまった。
正式名称-ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics=USSR)は 15の共和国からなっていたが、社会主義体制の崩壊と相俟ってロシア以外の14の共和国が次々に分離独立し、 残った主要部分がロシア連邦となった。
チェチェン(共和国)はロシア連邦の構成国の一つであるが、 ロシア連邦からの分離独立を志向した。(以後、ロシア連邦をロシアと略す)
新生ロシアはこれから先の国のあり方をめぐって左右に大揺れしており、 チェチェンという一地方の動きは重大視されなかった。 なかには - 自らの思惑のために - 意図的にチェチェンの動きを無視した指導者達もいた。
チェチェン共和国のドダエフ大統領は一方的にロシアからの分離独立を宣言し、 置き残された武器弾薬をそのままチェチェン共和国の帰属物として取り込んでしまった。
こういう状況下、ロシア政府は愚かにもチェチェンに各種助成金、地方交付金を給付し続け、 その多くはチェチェンにおいては対露軍備に使われた。
それでも、エリツイン政権はチェチェンが独立せずロシア連邦内に留まるようあれこれ手を尽くした。 何度かの威嚇行動、軍事作戦も繰り返した。
もしチェチェンの独立を許せば新生ロシア内の多くの共和国で「雪崩れ現象」が起こるのは目に見えている。
チェチェンは良質の石油の産地でもあり、石油のパイプラインが走る大動脈でもあった。 くわえて、コーカサスの一角というロシアにとって地政学的にも極めて重要な位置を占めており、 その分離独立を許すことはロシア新政権の命取りを意味した。
一方、「生きてロシアに屈従するより、独立のために死を選ぶ」というチェチェン人には威嚇も懐柔も通じなかった。 エリツインは最後通牒を数度にわたって繰り返した挙句、 1994年12月31日、戦車隊の突入により(第一次)チェチェン侵攻を発動した。
ロシアという国は熊に似ている。
苦境に立たされると、あの人なつこい熊が一瞬にして牙を剥く。 その強い腕力で、あたり構わず破壊しつくす。ただ、やることが雑だ。
時の国防大臣グラチョフは「チェチェンの反乱軍など数時間で制圧して見せる」と豪語したが、 2年間の戦闘はチェチェンを徹底的に荒廃させただけで、結局は見るも無残なロシア軍の敗退に終わった。 熊はチェチェンの山中におびき寄せられ、狼の袋叩きにあった。 その後、1999年の秋口に始まった第二次チェチェン侵攻は2000年夏の今も闘われている。
雨の降る日、我が家に帰ってみたらばあさんが目に涙を溜めて幸せそうに寝ていた。いや静かに死んでいた。
それからが大変。警察が来て、小生あたかも殺人の重要参考人。別名 - 容疑者。
ロシアの警察は「行きずり」の面倒を見たというだけでは納得しない。
「仕事でダゲスタン共和国に行った。帰りの飛行機の中で知り合った。 ばあさんには身寄りがなかったから暫くの間ということで、ここに住まわせた」と説明したが、、
この老婆から金品を奪ったのではないか。 あんたはチェチェンテロリストと何らかの関係があるのではないか等々。
ただ、幸いにも、ばあさんのビニール袋の中から汚い布切れに混じって、ひとつメモ書きが出てきた。 下手なロシア語だった。「風呂を有難う。南国のフルーツも有難う。生まれて始めて食べたさ。 おいしかった。暖かいベッドを有難う。話し相手になってくれて有難う。けど、何も出来ず済まなかったね」と書いてあった。
これで警察の心証はかなり良くなったが、それでも筆跡鑑定までやらされた。 更に何度か粘っこい尋問を受けた末、ようやく心臓発作による死亡という結論が出て、無罪放免となった。
ばあさんは死ぬ前に「ロシアでは行きずりの死体はごみ捨て場に捨てられてね、 烏の餌になるって聞いたわさ。いやだ、いやだ、あたしが死んだら、焼いて灰にしてモスクワ川に流してくれな。 その灰はね、モスクワ川からボルガやドン(運河)を通って黒海に出るのさ。そうすりゃ憧れのソチやヤルタの海辺にも行ける。
いまからもう胸がわくわくする。運が良けりゃ、神々が棲むっていうイスタンブールにだって行けるかもしれないわさ」と言っていたが、 すぐ顔をしかめて「ところで、お前さんはとっぽいから教えておくがね、ロシアの葬儀屋はハイエナだよ。
依頼人からしっかりお金をせびっておいて、立会人がいないとさ、 しめしめとばかり火葬しないで夜陰にまぎれて死体をごみ捨て場に捨ててしまうわさ。 だから、必ずお前さんが火葬に立会うんだよ」と手間とお金のかかることを勝手に言ってくれるが、 ばあさんには媚びの匂いがなくてよい。結局、ばあさんの言う通りにしてやった。
ばあさんがいなくなって数日の間、気の抜けた生活が続いた。 ふと、我が家の飾り棚に見なれぬマトリョシカがおいてあるのに気付いた。
マトリョシカとは中を繰りぬいた「入れ子式」のロシア製こけしのことだ。
普通、材料は白樺の木。大きなこけしのおなかを開くと、中に少し小さなこけしが入っており、 その中にまた少し小さなこけし、その中にも、、といった具合に、大小5個から10個ぐらいでワンセットになっている。
このマトリョシカはどうもばあさんが遺していったようだ。高さ20センチ位。
普通はロシア娘が描かれているが、これは珍しくコーカサス系の娘の人形だった。
緑のネッカチーフを被っている。中はどうなっているかと思い、捻ってみたが、いくら捻っても開かない。 普通は捻れば、上半身と下半身に別れるものだが。
まあ、ばあさんは貧乏だったので一体人形しか買えなかったのか。 でも、それにしては絵がとても丁寧で綺麗に描かれている。 それにどういう木質か知らないが、少し重い。安物ではなさそうだ。
マトリョシカの下に置手紙があった。
「このマトリョシカをグロズヌイにいる我が孫娘、ララ・ザガエバに届けて欲しい。 住所はオニキゼ13-17。お礼はララから」と書かれてあった。
「ばあさん、ちょっと待ってくれよ。いくら何でも、こんな人形のためにチェチェンの グロズヌイまで行かせるつもりか。冗談は顔だけにして欲しい。 それにグロズヌイは完全に破壊し尽くされて、もう誰もいない筈だ。 申し訳ないがこの話はなかった事にしよう」と人形に語りかけたが、人形は何も言わなかった。
それから数日、ばあさんの手紙のことは忘れていた。いままで怠けた分を取り戻すべく、ドサ廻り(出張)にも頻繁に出かけた。 何と言っても旧ソ連は広い。行けども、行けども果てしない。
春の雪解け時だった。モスクワから飛行機で1時間、ボルガ河畔のサマラに飛んだ。
ボルガは琵琶湖のような大河だ。この時期、水位も流速も上がる。 黒みを帯びた水の流れ、ステンカラージンがペルシャの姫君を投げた込んだのもこの水の流れだった。
向こう岸が遥かかなたに霞む。サマラはこじんまりとしたボルガ中流の州都。
小生、一人旅の気楽さで町を散策したり、屋台の羊の串焼きを食べながら、次の仕事の作戦を立てたり、 本社への報告書の案を練る。時には、(日本では殆んどあり得ない)ロシア美人との出逢いも生まれる。とは、希望的観測だが、、
夕暮れ時、そうこう考えながら町のバザール(なんでも市場)を散歩しているときだった。 185センチほどの背丈の迷彩服を着たロシア兵がこちらに近づいてきた。