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チェチェン挽歌
二十五
その雌豹にせがまれて、3日間の休暇を取り、その夕方汽車でフィンランドに向かうことになった。 切符は彼女が手配してくれた。小生、背広を脱いでジーパンにジャンパー姿で肩掛け鞄ひとつ。 中にはビデオカメラと洗面道具、衣類の替え。
クーペと呼ばれる二人部屋。制服を着たおばさん車掌がにこにこ顔で紅茶のサービスをしてくれる。 列車は白夜のなかを一路北へ走る。
鉄路は両側を濃い緑の木立の壁で遮蔽されている。 空襲から列車を防護するためらしい。(今の常識ではちょっと考えにくいが)
所々で木立の壁が消え、ゆったりした田園風景が現れる。粗放農業と呼ばれる実りの薄い麦畑、とうもろこし畑。これが延々と続く。
この夜は一生忘れ得ないものとなった。白夜の下で雌豹の肌は大理石だった。
朝、汽車は起床の放送を流す。「皆さん、朝です。切符、パスポートを用意願います」
緊張感が走る。国境の町ブイボルグ、国境警備隊。列車の外部上下を小銃を携えたロシアの国境警備兵が 国外逃亡者や密輸品の有無を点検している。
列車内では税関吏と警備兵がひと部屋ずつ丁寧にチェックしていく。 天井板を外し、ベッドの下(荷物が置けるようになっている)を開ける。パスポートの検査。
携行品の内容チェック。出国理由の尋問。小生が外国人だということで態度は丁重だった。 ララは衣類以外、殆ど荷物がないので問題なし。赤の他人の男女同室は日本ではまずあり得ないが、ロシアではよくある。 小生、今までに何度も見知らぬ女性と同室した。勿論、美人ばかりではなかったが。
税関がやって来て小生の所持品、ビデオカメラのチェックが始まる。
心臓は早鐘を打つ。税関が「カセットを入れて映写内容を見せてください」という。
カセットを入れるが、当然動かない。小生、溜息をつき「故障している」と答える。
「それではカセットをお渡し願う。こちらでチェックする。 ところでこれはパル方式だが日本ではNTSC方式ではないのか」と言葉使いも徐々に険しくなる。
小生、カセットを渡しつつ「20年、ロシアで駐在している」と説明。 30分後カセットは別の若い警備兵が戻しにきてくれた。これでやっと人心地ついた。
なぜこんなに厳しいチェックを受けてまで汽車で出国するかと言えば、空港と違ってエックス線検査がない(怪しまれれば別だが)。 それだけの理由だ。
ララは終始知らぬ顔で外の景色を眺めていた。 列車はゆっくり動き出す。鉄条網で閉じられた荒れた土地、国境緩衝地帯を行く。
30分位緩衝地帯を走ったのちフィンランド領に着く。コンパートメントに国境税関がやってくる。 パスポートにスタンプを押しただけで行ってしまった。 ロシア税関での胸が痛くなるほどの緊張感と、その後の何とも言えない開放感、、を味わうことが出来ない。 肩透かしを食ったような気分だ。
暫しすると、国境停車駅のビュッフェから芳しいコーヒーの香りが漂ってくる。 ようやく西側に着いたと実感する。午後にヘルシンキ駅に着いた。
ヘルシンキでは二人で岩山の公園を散歩したり、湖畔のレストランでザリガニ料理を食べたり、 小川で鱒を釣ったり、チボリでジェットコースタに乗ったりして時間を費やした。 二日後、ホテルにそれと分かる二人の男がやって来た。
ララとビデオカメラを引き渡し、小生はその日の夕方のフライトでモスクワに向かった。 1時間ちょっとの飛行。あっという間についた。あれほどの長旅が一時間の飛行とは、、
我が家に辿りつくと、自分が異次元の世界からひとり貧しい漁村に戻った浦島太郎のような気がした。当分、何もしたくない。
小生がララとともにフィンランドにあった頃、大統領府のタラカノフは防衛技術振興会という組織の会議に出ていた。 略称ORVT、これはロシアの兵器輸出公団ロスバルの一角に目立たない事務所を構えている。
ロスバルという公団そのものがその性質上閉鎖的なものだが、ORVTとなると一般にはこれを知るものは皆無と言ってよい。
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二十六
タラカノフは大統領府では経済部プロジェクト担当次長という役職についているが、 FSB(ロシア連邦保安庁、Federal Security Service、元のKGB)の大佐でもあった。
悪名高きKGBはソ連の崩壊後、国民大衆の憎しみの的となり、その後継組織であるFSBもゴルバチョフやエリツインの いわゆる「民主化路線」によってぼろぼろにされてしまった。
しかし、ロシアの現状を憂えるFSB、軍部、政府部内のタカ派が、小さな塵を中心に雪が結晶するように組織を創り、 増殖し、拡大していった。これがORVTだ。軍事技術振興会とは名ばかりで、アメリカのネオコン(Neo-Conservtive)まがいのものだ。
ソ連社会主義の崩壊はよし。民主主義もよし、市場経済もよし。西からのハイテク導入もよし。 許すべからざるは極端な不平等、マフィアの横行、不正手段による財閥の形成、ロシアの三等国化、 外敵の領土侵犯、連邦構成国の分離独立。
闘って、勝ち取るべきは、善良なロシア人が安定した生活を営める国、ロシア。
ロシアはもう一度政治と経済を叩きなおさねばならない。ロシアは強大でなければならない。 その為にやるべき事は山積し、敵も多い。
要は、重点を決め集中的に敵を撃破することだ。まず、国家財産を不当に奪い取った 新興財閥(別名、経済マフィア)を叩き潰さねばならない。マフィア連合が反撃に出る前に一気に叩き潰してしまわねばならない。
ORVTが現大統領を創った。有能なKGB職員であった彼をエリツィン大統領に近づけ、まずはエリツィン一家の忠実な番犬とし、 さらには最も信頼のおける後見人とし、そして、あらゆる手段を講じて他の大統領候補を引きずり下ろし、 チェチェンに対する強行策を演出させ、国民の圧倒的支持のもとに(エリツィン一家の安全保障と引き換えに)彼を エリツィンの後継者に据えたのがORVTだった。
ORVTは現大統領のシンクタンク、別言すれば、司令塔でもある。
今では大統領を通してFSBや検察、軍隊を動かすことは決して困難なことではない。 現実にそうしている。機動隊が容疑者を逮捕するときは、マシンガンを携行し、目と口だけを出した黒マスクを被って、武力突入する。 こういう場面を一般大衆に何度も見せつけて、政権への畏怖の念を植え付ける。これはドイツ、ナチの過去の話ではない。
タラカノフはORVTのなかでは大佐ではなく、ナチを真似て班長と呼ばれている。
今日、タラカノフはORVT会議に出席した。見た目はみすぼらしく陰気な男だが、弁舌は爽やかだ。
「現在、ロシアの外貨準備は(年初の125億ドルから)200億ドルを超えた。 これはひとえに石油輸出収入の増加によるものだ。ロシアが生き残るためには今後とも石油増産に努めねばならない。 但し、問題はその収益が国民の手に還元されず、ほんの一部の石油マフィア(財閥)によって奪い取られていることだ。 彼らは国民の福利どころか、再生産のための資器材の確保さえも考えていない。
すべてスイスやキプロスの銀行に蓄え込んでいる。長期的な石油政策など全く念頭にない。 油井を水浸しにして、今だけの利益を得ようとしている。 (注:水攻法と呼ばれる方法で、大量の水を油層に送り込んで泥水とともに石油を吸い上げる) 彼らは油井を水浸しにすれば井戸はすぐに枯渇してしまうことを承知のうえでだ。
環境汚染もひどい。我々の課題は石油マフィアを叩き潰すことだ。彼らから石油を奪い返し、 同時に戦略的流路(パイプライン)を確保することだ。その先は資源輸出国からの脱皮、 ロシアの先進工業国化だ。再び世界の強国となることだ」と辺りを見まわす。会議参加者の顔は暗くて見えない。
ひと呼吸を置いて、「現在、ロシアの石油戦略の癌となっているのがチェチェンだ。
去年の秋までは対チェチェン作戦は上首尾に進められたが、現在、行き詰まってきている。 厭戦気分が蔓延している。なぜか。ひとつはロシア兵の待遇が悪すぎることだ。約束された報酬さえ払われていない。
彼らの生活を保障し、彼らにロシア人としてのプライドを取り戻させること。兵士を最下級労働者から、 国家のエリートに仕立て上げねばならない。その為にも、国権をマフィア財閥の手からもぎ取り、 同時にチェチェンゲリラを最も効率的に殲滅せねばならない。マフィアとゲリラとの両面戦争は決して容易ではない。 あなた個人の命の危険さえある。諸君、この聖戦に命を賭ける覚悟はあるか!」
タラカノフは自らの発言に興奮し、眼は吊りあがり、肉のない肩は尖っていた。
彼が有頂天なのはこの興奮だけが原因ではない。
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二十七
日本人アンドとの会食時、タラカノフは粘っこい眼つきでナタリを見つめた。
いつもは女から目をそむけられる。それでも執拗な目で相手の顔を舐めまわす。 女は不快感を露骨に表わす。ところがナタリは違った。タラカノフに見つめられると頬をピンク色に染めた。 しつこく見つめても顔をそむけなかった。うつむき、耳元まで赤らめていた。
タラカノフはウエイターにバラのブーケを用意させた。自宅の電話番号を書き入れた名刺をつけてブーケをそっとナタリに手渡した。 ナタリは「こんなの初めて」と感動した。
夜遅くナタリから電話あり、タラカノフ生まれて始めての「本物の」恋が成就した。
彼は有頂天だった。これからは私をミーシャと呼んでくれ。
ベッドの中でナタリに「俺は大統領のシンクタンクだ。同時に司令塔だ」と打ち明けた。 ナタリはミーシャにやさしい眼差しを向けて、ただ微笑んだ。
ミーシャはその聖母のような微笑みを見て「嫌われっ子」が母親にこう言われているような気になった、 「いいのよ、ミーシャ、私はいつでもお前の味方だよ。お前の言うことはなんでも信じているよ」と。
ミーシャは心のなかで、「違うよ。本当だよ。本当だってば.. 」と口を尖らせていた。
ナタリの暖かい微笑みに反撥さえ感じていた。俺を信じていない。
苛立つ気持ちを抑えながら「それじゃ。ひとつ教えよう」とナタリの耳に口を近づけた..
 
話変って、小生にはいい知らせが届いていた。
ドリルパイプの本契約の入金に引き続いて、スイスの銀行から追加契約の200万ドルも無事入金したという。 ダイヤの小石がすこしは役に立ったようだ。それにしてもララは今どこにいるのだろう..
 
また話変って、アリーナ袴田という女性について:
父は日本共産党の元幹部、母はロシア人。細身で髪をショートカットした中々センスのいい女性だ。 黒系統の服がよく似合っている。
ロシア下院議員。SPS(右派同盟)の幹部。ロシアでは右派は民主、革新を意味し、 左翼は共産主義者ではあるが、守旧、保守、排外的な愛国主義者というイメージが強い。 要するにアリーナ袴田は右派とは言え、民主、革新の人である。
ある立食パーテイに招かれ、アリーナ袴田と話した。小生に「あなたはロシア語お上手ですね」というので「あなたの方がうまい」と答えたら、 「当たり前よ。あたしはロシア語しか話せないんだから」と笑っていた。ハスキーな声をしている。
彼女に今後のロシアはいかにあるべきかと訊いたところ、しっかり溜息をついて「あと戻りはしてはならない。 いずれにせよ、社会主義に戻ることはもうないだろう。
ただ、ロシアの資本主義はゆがんでしまった。ゆがんだ資本主義を全力を尽くして、健全な資本主義に造り直ししていかねばならない。 勿論大きなハンデイはある。70年間の社会主義体制はロシアを後進国どころか、「かたわ」にしてしまった。 かたわを殺さずに矯正して、並いる強国と対等にやり合えるまでにするのは零から始めるよりはるかに困難なこと。 その為には富める国、先進国の助けが喉から手が出るほど欲しい。しかし助けを当てにするだけでは単なる生活保護国家となる。 ロシアはいかにあるべきかの回答は、他人の二倍働くことだ。それでも足りなければ三倍働くことだ。 それを国民に訴えるのがあたしの仕事。父の国がそれを教えている。我がロシアはまだ捨てたものではないと信じている。 バネはある。立ち直る底力を持っている。
父の国、日本は残念ながら、いま国にも、その国民にも、若さが感じられなくなった。悲しいが老朽化している」と言う。
小生「お父さんは共産党だったのにあなたはアンチ共産党なのですね」とちょっと意地悪な質問をした。 アリーナは眼鏡をちらっと光らせて「今はどうなっているか知らないが、 すくなくともお父さんが活躍した頃の日本共産党は平等と平和、民主主義を追求していた。 あたしは、纏う鎧こそ違うが、お父さんと同じものを求めている」と、さすが袴田の娘だった。
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