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チェチェン挽歌
二十八
ノリリスクニッケルの支配株不正取得問題とアリーナ袴田:
ノリリスクニッケルはインテルロスグループに買収され、今やその一部となっている。 ロシアの検察は「ノリニッケルの民営化、即ち企業買収に際して不正があった。
インテルロスは不当な廉価で支配株を取得した。ゆえにこの民営化は無効である」と主張、 検察機動隊を用いて手入れを行なった。我がアリーナ袴田は反検察、反権力の論陣を張っている。
アリーナの主張:
インテルロスは国営企業ではない。リスクをかけ利潤を追求する私企業である。
閉鎖寸前まで追いこまれていた国営ノリリスクニッケルの株を「お金を溝(どぶ)に捨てるようなものだ」とさえ言われながら、買い取った。 インテルロスはこの企業を拡大、強化して現在に至っている。国営当時、ノリリスクの従業員は給与遅延に泣いた。 しかし、いまやノリリスクはこの業界でトップの収益と賃金を確保している。
収益性が出るようになった今になって、インテルロスがノリリスクの株を不当に安く買い取ったというのは適切さを欠いでいる。 このような事がまかり通れば全ての優良企業は犯罪企業となる。 このような不条理が続けば、当然の事ながら西側からの対ロシア投資は止まる。 ロシア株は暴落し国民生活は大混乱する。実際、このドタバタ騒ぎのお陰でノリリスク株はいま既に10%以上も下落している。
この一件を許せば、ロシアの主要企業全てがマシンガンと黒マスクをつけた機動隊の急襲に脅かされることになる、と。
小生、ノリリスクには何度か足を運んだが、アリーナの言う事は実感としてうなづける。 ノリリスクは北極海のすぐ傍の鉱山の町である。近くに大河エニセイが流れる。 ニッケルの他に、銅、コバルト、金、白金、パラジウムなど産出する、まさに宝の山だ。
既に大戦前から兵器生産におけるニッケルの重要性は認識されており、ソ連にとってその確保が国家的急務となった。 スターリンはこの永久凍土帯の極北地でニッケル鉱山を開発せよとの命令を下した。膨大な数の政治囚が送りこまれた。 消耗品だった。日本人には想像を絶することだが、土砂の確保が困難な永久凍土帯では政治囚の白骨さえ資材として用いられた。 土砂代用品だった。
 
話変って、今から5年ほど前になる。ひどい煤煙だった。硫化水素を含む濃い灰色の煙がノリリスクの町のうえを漂っていた。 周りの丘に積もった雪は煤煙で黒く汚れていた。植物は見当たらない。血の色をした液体が瓦礫の溝をつたって流れていた。
これが川だという。火星に川があったら、ちょうどこのような物だろうと思った。
小生、ガス井掘削担当の副社長と仲良くなったが、彼の説明によれば「ノリリスク工場そのものが既に使用年限を超えている。 もしここで掘り続けるなら、設備を全面的に新替えするしかないが、このような超遠隔地の工場設備の新替えには天文学的な金が必要となる。 昔はスターリンだから出来た話しだ。いまや、工場がぶっ潰れるまで稼動させ、あとは捨てるしかない」と言っていた。
それをまがりなりにも維持して、同業の他工場に比べてより高い給与が払えるほどにしたという事はやはり民営化の成果として認めるべきだろう。
 
話はまた変わるが、小生と仲良くなった副社長はそれから1〜2年後、自宅前で6発の弾丸を食らってこの世とおさらばしてしまった。 彼のあどけない笑顔を思い出すと撃たれた時の無念さが伝わってきて悲しくなる。
モスクワに来る時はいつも「自分が捕った魚だ。浅塩漬けにしたからこのまま食べれる」と言って大きな川魚を持ってきてくれたものだった。 日本人は生魚が好きだと思って、わざわざ何千キロもの距離を運んで来てくれた。 夏は沈まない太陽の下で一晩中ウオッカを飲んで踊った。おかしなコサックダンスだった。
冬は太陽の出ない漆黒、横殴りの吹雪の中をジープでドライブした。音痴のロシア民謡が懐かしい。 彼は悪(ワル)にしては善良すぎたかもしれない。その世界から弾き飛ばされたのだろう。 小生、民営化、私企業化の明と暗、表と裏をかいま見た思いだった。
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二十九
ララとはフィンランドで別れた切り、何の音沙汰もない。それは当然のことで、どうしようもないことだが、 わけもなく嫉妬のようなものを感じる。おかしなものだ。心の病か。
ララと言えば、なくなったばあさんを思い出す。タマラ・ザガエバ「昔、おじいさんから聞いた話しだがね、 真夜中にロシア人居留地を襲撃したそうだ。戦利品じゃと絶品のロシア女を持ちかえったつもりがさ、 朝よく見たら豚が一頭、隣りで気持ち良さそうに寝ていたとさ.. あたしゃ、そりゃあ儲けものだったねって言ったんだけどね。おじいさん黙って、うつむいてしまったわさ.. 」と。いつものことだが、ばあさんの話はどこか噛み合っていない。 じいさんにはロシア女、ばあさんには豚が興味の対象だから、仕方ないか。
 
チムールはチェチェンの山中でゲリラ幹部の会合を開いていた。
「モスクワからの情報だが、パイプライン妨害作戦はうまく進んでいる。 秋になれば、おかしなドリルパイプを突っ込まれて偉大なるロシアも泡を吹くだろう。 チェチェン迂回ラインも大幅に遅延することになり、ロシアの石油戦略に打撃を与えることができる。
ところで、おかしな話も入ってきた。詳しいことは分からないが、電子レンジのような爆弾が使われるかもしれないというのだ。 遮蔽物は役に立たない。広い範囲で人間や動物だけを焼き殺すそうだ。しかも、建物や武器は破壊されない。 ニックネームはゴキブリ殺しというそうだ。うまい洒落だが、それがどこでどう使われるかは不明だ。 とにかく、出来るだけ多くの情報を集め、敵の動きをよく監視してほしい」と指示した。
皆、狐につままれたような気分だった。
 
ゲリラの仕事は多岐に亘っていた。勿論、最優先はロシアとの戦い。 そして横(他のゲリラ集団)との連携。さらに、コーカサス山脈を挟んで南に広がるグルジアからの武器、弾薬、食糧補給路の確保。 山を越えたグルジアは、ロシア軍からの一時避難所としても役立っている。貴重な空間だ。
一方、チェチェンの西、イングーシ(ロシアの一共和国)には20万を超すチェチェン難民が暮らしている。 ゲリラはこの中に浸透し、自己増殖を図らねばならない。
さらに、チェチェン国外に住むディアスポラ(国外移住者)には情報活動、資金調達、後方攪乱などを要請せねばならない。
チェチェンの現状はロシアという「巨象」に刃向かう「痩せ狼」のようなものだ。多種多様な戦略が不可欠だ。 特に世界的な支援を得ることが絶対不可欠だ。
コソボ(分離独立問題)であれほどセルビアを叩いた欧米がチェチェンにおいては次第に腰を 引きつつある(チェチェンはロシアの国内問題だとして)。 この欧米の対応の変化は、チェチェン側としては頭の痛いところだった。
 
小生、一人で食事をするときはテレビを流したままにするのが癖になってしまった。
テレビは一人でがなり立てていた。「9時のニュースをお伝えします。 AP電によれば、昨日、ロシア軍はチェチェン西端部でチェチェン=イングシ国境に向けて移動中のゲリラ多数を発見、 銃撃の末、これを山岳地に押し戻した。ゲリラは3名の死体を残して退却した。 尚、イングシには20万人を越える難民が今もテント生活を続けている」と戦闘のあった場所を映していた。 そこにはゲリラの死体が転がっていた。
マシンガンから発射された弾丸を何度か見たことがあるが、ええっと思うほど小さい。 長さ1aほど、直径5_ぐらいの筒状の鉄片だ。こんな鉄片でも人間の体に入れば、 最初は小さな穴を穿ち、中でグルグルと回転、乱舞し、出て行く時には大きな穴を開ける。 撃たれた箇所をすぐに止血しないと人は出血多量で死んでしまう。
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三十
大統領府経済部の次長ミーシャはナタリが傍にいないと苛立った。
「お前が会社で他の男と楽しそうに話していると想像しただけで気が狂いそうだ。 奴ら下等動物はきっとお前の裸を想像してニヤついているだろう。 今すぐにも会社に行って、辞表を叩きつけてこい」ナタリは何も言わず、悲しそうな顔をする。
それを見てミーシャははっと我に帰る。「いや、今、辞めなくてもいい。愛しいナタリ、お前を絶対に幸せにしてみせる」と 耳元に熱い息を吹きかける。
ナタリは眼をつむって時間が流れるのを耐えた。
彼女はよく働き、会社の皆から好かれた。
気持ちの良い娘だ。小生、彼女のために適当に「客先にこの書類を持って行ってくれ」などと外仕事を作って、 好きな時間に外出できるようにしてやっている。そういう時はきっとチェチェンと連絡を取り合っているだろう。 どういう風に連絡するのかこちらには分からないが、、
他の社員は彼女に対してすこし不満のようだ。彼女が終業時間ぴったりに帰宅してしまうことを小生に愚痴こぼす。 その愚痴も「彼女が帰ってしまうと、とたんに火が消えたように淋しくなる」といったもので、決して棘はない。
ただ、彼女が一分でも遅く帰宅すればタラカノフが嫉妬の黒い炎に燃え狂うことは彼女以外誰も知らない。
ミーシャは機嫌の良い時、自慢そうに自室の端末コンピュータを見せていた。
「この中にロシアを動かす魔法の呪文が入っている。どんなハッカーにもアクセスは出来ない。 もしお前がこれにアクセス出来たら、俺が赤の広場で裸で逆立ち踊りをしてやろう。 ただ、ヒントなしじゃ面白くなかろう。ひとつだけヒントをやろう。コードは俺とお前の重なり合いだ。分かるかな」と茶化す。 ナタリは顔を赤らめ「面白そう。やってみるわ」と答える。「そうか」ミーシャの指がナタリの体に何かをなぞる。
「だが、言っておくが、データを盗んでも特殊な装置でガードしないとオンした瞬間、ウイルスが働くしかけになっている。 これが敵を滅ぼし、ロシアを救う」と照明を消す。
「あなたって悪魔ね」
 
少し昔に戻るが、1991年、旧ソ連が崩壊し、ロシア連邦が誕生した。 それをきっかけにチェチェン共和国大統領ドダエフは「共和国の完全独立」を宣言した。
同じコーカサス民族でグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンが独立した。自国にもその権利はあるはずだと主張した。 これに対し、ロシアはコーカサス山脈の北側は昔からロシアの領土であるとし、チェチェンに「ロシア連邦条約」の調印を迫った。
92年3月、ドダエフは「それでは旧ソ連傘下に入るのと同じだ」と条約の調印を拒否。
94年末、ロシアは武力制圧を目して軍をチェチェンに侵攻させた。ドダエフはチェチェン軍司令官として血みどろの戦いを指揮した。 彼はロシア軍にとって最大のお尋ね者となった。
下にパトリック・ラーデン・キー著の「CHATTER」を抜粋する:
「96年4月のある晩、チェチェンの一軒家から、一人の男が出てきた。 その家は首都グロズヌイから30キロ南西のゲヒの村外れにある静かな森の中に隠れるようにあった。 まさに人里はなれた場所だった。その男はジョハル・ドダエフ、チェチェン軍の司令官だった。
(略)
ドダエフは野原の中へと向かい、インマルサット衛星電話を取り出した。 この電話は、通常の携帯電話よりもサイズが大きく、太くアンテナがついている。 そのセキュリティーと信頼性によって世界中の政府や軍の関係者に愛用されていた。 闇の中で一人ドダエフは、ロシア議会のリベラル派代議士のコンスタンティン・ボロヴォイに電話をかけた。 ボロヴォイは、ドダエフのモスクワにおける仲介者の一人で、今回の和平交渉の相手だった。 ドダエフが電話で話していると、頭上に飛行機の音がした。 その瞬間に突然、二基の空対地ミサイルが夜空を引き裂いて、彼に向かってきた。 いや、もっと正確に言えば彼の衛星電話に向けて飛来した。 一基は離れたところに落ちたが、もう一基はドダエフの立っていた至近距離に着弾した。 彼はほどなく絶命した。鋭利な破片を頭に受けての死だった」
 
チムールは思う。ドダエフが生きていた頃はチェチェン・ゲリラ間の連携はよく取れていた。 今や組織は分断され、各個撃破されつつある。敵に押されつつある。
力を分散させないよう、全体をうまく纏めてゆくことが急務だ。 今や、西のイングーシに逃れた同胞「難民」の力さえ当てにせざるを得ない。
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