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チェチェン挽歌
「おじさん」というので驚いたが、サーシャだった。
我が家は20年のモスクワ生活で一度だけ引越しをしたが、 その前半の10年間に暮した外人専用アパート(モスクワの南西郊外)の管理人の息子がこのサーシャだ。
管理人と言ったが、これはどちらかといえば「薄給のKGB(秘密警察)の手先、通報者」という感じだ。 彼らは薄給ゆえに外人の車を洗ったり、女中をしたりして細々と暮していた。 当時、我々外人の生活はオフィスの事務員や運転手(果てはアパートの管理人、掃除夫まで)によって逐一KGBに通報されていた。
サーシャの母親ゾヤはアパートの管理人だが、アルバイトで我が家のメードもしていた。 息子のサーシャは我が息子と同い年だから20歳か。 息子とよく遊んでいたあのサーシャが兵隊さんか。それにしてもよく伸びたものだ。
ロシアにはカフェーと名のつく喫茶と食堂とバーをごっちゃ混ぜにした店がある。 レストランが見あたらないのでサーシャをカフェーに連れて行き、飲ませた。 親父が酒のためにゾヤから離婚されたほどだからサーシャもよく飲んだ。飲んでも酔わなかった。
「俺、戦地からいま休暇でサマラに来ている。所属などは規則で言えないけど、おじさん、戦地はひどいもんだよ。 我が軍は攻めるときはとても調子いい。まず大砲で目標の村を徹底的につぶすんだ。 小気味はいいけど、このけちなロシアがチェチェンにはよくあんなに砲弾をご馳走できるものだと感心するよ。
けど、守るとなると話は、ばちっと変わってくるんだ。占領地の周りにポスト(哨所)とか言って小隊規模の見張り小屋をおくけど、 最初のうちは恐ろしくて眠れないよ。夜の1時頃かな。暗闇の中からポンポンと銃声が聞こえてくる。 そうするとあちこちの哨所が銃声のした方向に向けてめった撃ちする。 これが4〜5分続くと静かになる。
暫くするとまたポンポンと銃声がするといった具合で結局、目が覚めてしまう。
でも、もし敵が本気で攻めてきたらオジャンだよ。だって銃弾は、これは秘密だよ、 30分ぶんの予備しかないんだ。朝になるとパトロールをやる。 農家一軒一軒に押し入ってゲリラが潜んでいないか、武器を隠してしないか調べるんだ。 相手が下手な動きをすると容赦なく撃ち殺す。だって油断してるとこっちが殺られちまうからね。
百姓の中には血相を変えて文句を言って来る奴もいる。 ロシア軍に家を壊された、家畜が盗まれた、娘が犯された、じいさんが腕を折られた、云々言って来やがる。
でもこちらはポケットの中に空薬莢を隠し持っていてね、 相手に分からないようにその家の近くでこれをばら撒いておくんだ。 それを拾って見せながら 『ほら、テロリストはここから我が軍を攻撃して来たんだべ。 いや、おっちゃんが撃ったんだろ。銃はどこにあるの。とにかく正規の取り調べが必要だべな』 と脅すと、 相手は目の色を変えて、『神に誓って』 と言いながら、十字を切るんだよ。神なぞ信じてないくせにね。
それで、こちらがにやっとすると『いや、ご先祖様に誓って、とにかく、わしはテロリストじゃない。 もしテロリストをみつけたら、必ずあんたらに連絡する』などと心にもないことを言う。
タチの悪い兵隊は 『おっちゃん、屯所で話し合おうか』 と脅して農民から年貢をせしめるのもいるよ。 そうそう、一度うちの連中が数人である村に押し入って飲み放題、食べ放題、やり放題のどんちゃん騒ぎをやったんだ。 その晩、みんなゲロを吐いて死んじゃったよ。毒を盛られたんだろ。
定時連絡がなかったんでね、俺たちは勢ぞろいでロケット砲やマシンガンを担いで村に押しかけたんだけど、 道路に死体が転がっているだけで、村人は皆そこからとんずらしちまっていたよ。 だから『年貢』をせしめるにしても、実際に生きている牛か羊だね。 あとは樹になっている果物ぐらいかな。普通、俺達はジャガイモと期限切れの缶詰しか食べていないから 殺したての羊は最高だね。羊の血の腸詰もいけるよ」
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十一
サーシャは少し酒が入りすぎたようだ。「ところで、おじさんだって女には興味深々だろ。 だけどチェチェンの女はあまり美人もいないし、不潔だし、やばいのは下手をすると寝首を掻かれることさ。 背中から短刀というのもぞっとしないしね。でも安いもんだよ。覚悟を決めてかかれば、 ちょいの間で30から50ルーブル(1〜2ドル)さ。 勿論、まともな給料を貰っていない俺達は30ルーブルも払いたくはないけどね。
チェチェン人には仕事がないだろ。だから身を売ってでもお金を稼ぎたいんだね。
病気はないよ。エイズはあと一世紀も先の事だし、淋病とか梅毒ね、それは都会の病気だよ。 ただ、やっかいなのは毛じらみ。毛穴のなかに入り込んでチクチクしやがる。
この痒みはもう堪えられないね。毛を剃ってDDTを撒くしかないんだ。 ゴムのナイトキャップなどまったく役に立たないし、困った問題だよ。
ええっ、俺ってやっぱり酔っているかな、おじさん」サーシャはまた酒をぐいとあおる。
「おじさん、マーシャ(我が愚息のこと)はどうしてる? 昔、あいつとよく遊んだよ。 日本製のファミコンはすごく面白かった。ふたりでファミコンに熱中したもんさ。
それに、あいつと組んで近所のガキ達と戦争ごっこしたり、自転車レースしたり、 古い教会でジャングル探検したり.. 本当にあの頃が一番楽しかったな。
でもKGB (前章で「秘密警察」と記したが、Komitet Gosudarstvennoi Bezopasnosti の略で文字通り和訳すれば「国家保安委員会」となる。 ソ連時代の諜報、治安機関)の人がうちにやって来て、おじさんの所にどんなお客さんが来ているかとかよく訊かれたよ。
いつもチョコをくれるんでね、得意になってお喋りをしたよ。 おじさんちにやって来るお客さんの車のナンバーと時間をメモしておいて報告するんだ。 おじさんには分かっていたかな、小さい子供がそんなことをしてたって。
KGBのチョコは美味しかったけど、何か、親切な日本人の家族に意地悪しているようでね、、 ママは『仕方がない』ってたけど、、そのうち、マーシャと一緒に笑うことがあっても、少し間をおいて笑うようになった。
10歳の誕生日に、マーシャが引っ越してしまった。寂しくて泣いたよ。 あれからマーシャがくれたファミコンだけが友達だった」と空のコップを寝かせた。
別れの時が来た。「サーシャ、おじさんとの再会の記念にこの時計を持っていてくれ。 食べ物に困った時は売ればいい」と腕時計を外してサーシャに持たせた。
酒の勢いか、別れる時はたいそう元気そうだったが遠ざかるにしたがって、サーシャは肩を落とし、 最後は背を曲げて、小さくなって樹々の闇の中に消えていった。
サーシャが見えなくなってしまってから、急に昔のように抱っこしてグルグル舞いをしてやりたくなった。 あの巨体ではとても無理とは分かっていたが。
 
サマーラ出張からモスクワに戻ってみるとダゲスタン共和国マハチカラからメールが入っていた:
貴社経由購入のドリルパイプ破断、貴方依頼の現地視察の件
現地より視察受け入れの準備が出来たとの連絡あり。5月30日迄にマハチカラにお越し願いたし。 マハチカラ空港よりの交通および宿泊は当方にてアレンジします。 尚、損害賠償に関する事前協議も行いたく。(ペトロス-マハチカラ支局長署名)
この招待状を手にしてクレームに対する闘争心がむらむらと涌いてきた。 我がドリルパイプがいかなる環境で、いかに使われていたのかしっかり調べてみたい。 早く現地入りしたいと心は逸った。それに、チェチェンがすぐ傍というのが嬉しかった。
ばあさんの気持ちを大事にしてやりたい。今は何ができるか想像もつかないが、、
ANWY、航空券とダゲスタン通行証を受け取り、飛行機に飛び乗った。 あのマトリョシカ、それにばあさんの孫娘の住所が書かれたメモ書きをお守りにして。
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十二
第二次大戦時の爆撃機のようなプロペラ機が整地の悪いモスクワ・ブイコボ空港から昔懐かしの爆音とともに虚空に舞い上がって行った。
4時間後、マハチカラ空港では(議員専用)と書かれた別出口に案内された。
そこからジープで大小のヘリコプターが居並ぶヘリポートに移動。 驚いたことに、これはペトロスの専用へリポートだという。さすがは、ロシアの石油パイプライン全てを一手に仕切るペトロスだ。 しかも、スタッフの話によれば、これからロシア軍護衛兵とともに、完全武装のヘリ3機で掘削現場に向かうという。
「ええっ、それではまるで戦地に向かう軍隊ではないか」と、また驚かされたが、郷に入れば郷に従えだ。 精々50〜60kmの道のり、問題なかろうと自分に言い聞かせ、深呼吸をして覚悟を決めた。
小生、ペトロスという一企業が国軍を自らの土俵に引きずり込んで、意のままに動かしている姿を見て、強い違和感を覚えた。 「これがロシアの国策企業というものか」と。
ペトロスと護衛兵の主だった連中との挨拶が終わったところで、ヘリへの搭乗が始まった。 ロシア製ヘリは排ガスの刺激臭と黒煙、猛烈な振動と騒音、、悪いことづくめだ。
まず、大振動と轟音、もうもうたる排気ガスを撒き散らしながら、真っ直ぐ10数メートルほど上空に立ちあがる。
その後ガクンと頭を前に落とすと、前かがみの姿勢のまま前方に突っ切って行く。
3匹の鬼やんまが餌を求めて並んで飛んでいるようだ。それなりに勇しい。
暫し緑の景色。ゆったりした田園風景。数個の農家がかたまり、そばに小川が流れている。 ロシアのどこにもある景色がつづく。数分後、田園が途切れ、森や山が多くなる。
あれは何だろう、下方でぱちぱちと光が爆ぜている。敵襲!?
我がヘリは急に高度を上げ、フルスピードで逃避行に入る。 一方、エスコートヘリ2機は逆に高度を下げ、光が爆ぜた方向にロケット弾を打ち込み、機銃掃射も始める。 さすがはプロだ。だが、こちらは生きた心地がしない。ただ唖然。
当然のことながら、あっという間に我がヘリは他のヘリからはぐれてしまった。
しばらく高速飛行を続けたが、小生、どこを、どこに向かって飛んでいるのか、さっぱり分からなかった。 ただ、振動が急に大きくなった。素人でもこれはおかしいと思う。
パイロットからのメモが前の人から順々に廻されてきた。
「潤滑油系統故障。落ちる前に降りる」と書かれている。極めて端的だ。
これを我流に翻訳すれば「本機は(フルスピードの飛行を続けたため)、潤滑油系が故障した。 このままではエンジンがすぐ焼け付き、ヘリは落下する。その前に適当な場所を見つけて着地する」という意味だろう。
パイロットがメモを廻したのは、ヘリの騒音がとてつもなく大きく、 何を言っても聞き取れないからで、機内では重要な連絡事項については手まねとメモを廻すことになっているようだ。
ロシアの航空機の故障や事故は日常茶飯事だから、まあ、不幸中の幸いというところか。 いかれたのがエンジンや燃料系統でなくてよかった。と言っても敵中着陸は決して嬉しくない。
パイロットは出来るだけ平坦な地まで避難し(ゲリラは山地に強いので、 山地では彼らとまともに闘えない)着陸を決めた。
通信兵は躍起に救援を求めているようだ。間違いなく同行した二機のヘリが救援に来てくれるだろうからと思い、 小生は体の震えを抑えながらじっとしていた。
ところが、いつまで待ってもやって来ない。敵との戦闘ではぐれてしまったのか、墜落したのか。 通信兵に訊いたが、「現在、僚機との連絡が取れない。通信装置も故障したようだ」と頼りない。
今まで思ってもいなかったが、陽が落ちれば確かに状況は急変する。 チェチェンゲリラ、夜行性の狼が闇夜を支配する。食糧、弾薬は充分あるが、火を焚くわけにはいかない。 暗闇の中で敵の夜襲に備え、塹壕を掘り、前後左右を固める。
兵の泣き声がする。まだ若い兵だ。誰かがそれを叱っている。皆、苛立っている。
小生、緊張と興奮が続いたせいか、場違いとは思うが急に眠気がさす。 眠気を払うため、コーヒーが欲しいがそれは叶えられぬ贅沢というものだ。
仕方ないので、森を睨み銃をかまえる軍曹に話しかけた。 彼は森を見つめたまま、ぼそぼそと喋る。彼も「無性に話し相手が欲しかった」という。
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