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チェチェン挽歌
三十四
頭に血がのぼっていた。
しかし、ホテルから出ることは出来なかった。彼らがエレベータに乗り込むとエレベータホールに近寄り、数字が上がっていくのを見つめた。 それは13階で止まった。
ホテルのインターフォンで1301から1302、1303と順に廻し、「ララ?」と尋ねた。 何度も「ノー」の繰り返しだったが、1326で相手は受話器を取ったまま暫し答えなかった。 「ララだろ。分かってる。話したい事があるから降りて来てくれ」と電話を切る。
降りてくるまで待つ。来なくても待つ、何時間だって。待つあいだ、灰鉢にコインロッカーの鍵を押し込む。 灰やタバコの吸殻に混じってゴミと化してしまった。
これでお仕舞いか...
これでお仕舞いと思ったら、心がすこし落ち着いてきた。
ララに何を言おうか。何も言うことはない。一言「お仕舞い」と言えば済む。
その時ふっと、ばあさんの姿が浮かんだ。いつも老鷲のように気高く見えたあの皺顔が今はとても悲しそうに見える。
「どうしたんだい、ばあさん。ララとはもう駄目でも、ばあさんは好きだ。しょげる事はないよ。 そんなに恨めしい顔をしないで」こんな独り言をいっている自分の頭はやはりショックでおかしくなっているのかなと思う。
でも、ばあさんはなぜ悲しむのか。なぜ恨めしそうにするのか。あっ、そうか。小生がチェチェンを見殺しにするから悲しいのか..
これは自分の心の葛藤であることは分かっていた。ばあさんの顔は自分自身が作り出したものだとも知っていた。 それでも混乱した心には本当にばあさんが傍にいるように思えた。
自分の性格も知っていた。面倒になるとひどく重大なことでもすぐOKしたり、諦めたりする。あとでちょっと後悔はするけど。
ばあさん、分かったよ。一応やるべき事はやる。しっかり聴いていてくれ。ばあさんへの一世一代の手向けの歌を。
灰鉢から鍵を抜き出し、汚れを拭き落とす。少し考えよう...
部屋を綺麗にするのに時間が掛かったのか、ようやくララが降りて来た。
距離をおいて男がついて来ているようだ。そんなことはもうどうでもいい。
ララに眼をあわせず事務的に話しかける。「君の部屋からわたしのアパートに電話をかけたい」と、 ララの返答も待たずエレベータホールに向かう。
お互い黙ったままで13階まで上り、1326号に入る。ララにこれからやるべきことを指示した。 ララは黙って頷いた。モスクワに電話を入れる。
彼女は留守電に語りかける。あたかも小生に話しているかのように「長いあいだ連絡もしないでご免なさいね。 いまイスタンブールのおばさんの所にいるの。すべてOKよ。寂しがらせてご免ね。 でも、あたしがモスクワに帰るまでじっとしているのよ。 そうそう、あなたへのお土産をあたしのいとこに預けておいたから、受け取ってね。 いとこの名前は憶えてるわね。それじゃ、あなたにキスを送るわ、おやすみなさい」と。
見事な演技だ。まずはこれで良し。
「これで用は済んだ。勝手にするがいいさ」と立ち上がる。
彼女は目で小生のあとを追うが、小生、「売女」と床に落ちたタバコを呪う。
「売女..」とララのつぶやきが帰ってくる。
振りかえると、ララはじっとこちらを見詰め、眼に涙を溜めている。
その美しさに苦しいほど胸が締めつけられた。生まれて始めて見た澄んだ涙だった。
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三十五
近くのホテルに泊まり、朝を待った。身も心もひどく疲れていたが、ララの涙がつらくて、一睡も出来なかった。
朝食も取らずタクシーで日本領事館に向かう。タクシーに乗る前にコインロッカーの鍵をホテルの前面花壇の土中深く刺し込んだ。
日本の外交官は「情報収集」は大好きだが、自分から「積極的に動く」ことは嫌がる。 ちょうど町医者が重症患者をもてあまし、大病院にたらい廻しにするかのように小生をアメリカの総領事館につないでしまった。 ある程度、始めから織り込み済みのことだったが。
それでも担当武官はアメリカ領事館まで同道してくれて、彼の知り合いの担当官に小生の話を簡潔に説明してくれた。
小生の話は最初、いかに好意的に表現しても「奇異な話」としか受けとめられなかった。 が、小生が発した「中性子爆弾」という言葉がキーワードとなり、領事館員はすぐさま態度を変えた。 彼らは話の重大さを瞬時に了解したようだ。CIAらしき者が入室してきた。
応対は至極丁重であったが小生の情報、発言はひとつひとつ厳しく検証された。
「今お持ちになっているディスクがそれなのですか」という。
「どうしてディスクを持っていると分かったのですか」
「廊下に超音波など仕掛けてありますから、所持品は全部チェック出来るのです」
小生「これは偽装用の空CDですよ、ORVTはFSB(ロシアの連邦保安庁)より凄まじいということですから、 ORVTに捕まったらこれを進呈しようと思っていたんですよ」
相手は「マニアですね」と微笑む。小生も「マニアかどうか」と微笑み返す。
「それでは本物を出してください。でなければ、あなたの仰ることはすべてお伽噺になってしまいます」という。
「お伽噺と仰るならそれで結構です。ご理解いただけないなら、他を当たるつもりです。 ただ、本物はあります。それを手放さないとは言っていません。こちらのお願いを聴いていただければすぐにお渡しします」
「では、お聴きしましょう」
小生、ナタリから聞いた話 - 既にチェチェン殲滅作戦は起動している。 これをこのまま放置すれば、チェチェンゲリラの犯行として南ロシア地方でさらに幾つかの「都市爆破事件」が発生し、 グルジア軍の暴走としてグルジアの反政府地域で数万人規模の犠牲が出ることになり、 さらに、出口を塞がれたチェチェンはこの世から抹殺されることになるという話 - をより詳しく説明した。
トルコ人のウエイトレスのような女性が紅茶とケーキを運んできてくれた。
小生、紅茶の味を確かめながら「今まで、私が申したことをもとに、その筋とかを通じてロシアの動きを牽制していただきたい。 また、その結果を、少なくとも貴国にロシアを牽制する意思がある旨を、24時間以内にCNN、ABCなどに流してください。 そうすれば、25時間後にディスクをお渡しします。それを用いてロシアの動きを完全に封じ、無意味な人殺しを止めさせてください。
それから、もう一つ。モスクワでの情報源となった娘を救出していただきたい。 場所はモスクワのホテル・メジナU-832、名前はナタリ。 『ララのいとこのレナよ』と言って ドアをノックしてください」
「分かりました。ただ、お話だけでは動きようがありません。何かひとつでも具体的な証拠をだしてくれませんか」
小生、メモを渡しながら「これがイスラエルの会社名です。 イスラエルに帰化したロシア人が経営する企業でイスラエルの軍部にも顔が利くようです。 ロシアORVTはここを通してグルジア側に欺瞞工作を行っています。叩けばたくさん埃がでるでしょう」
「OK、了解しました。十分です」
小生、領事館を出た足で、海峡に行き、イルカを眺めながらばあさんが流れてくるのを待つことにした。 イルカは来なかったが、波間からばあさんの声が聞こえてきた。
「ララはお前が思うような、そんな娘じゃないよ。わしと同じぐらいお前が好きだ。 お前にしか出来ないことがいっぱいある。お願いだ。これでお仕舞いと言わず、ララとチェチェンのため働いてくれ。 チムールもお前を待っているわさ」
これも自分の潜在意識が言わせている言葉かもしれない。が、小生、波間に向かって、 「ばあさん、分かった。精一杯やってみよう。みていてくれ」と答え、空港に向かった。
まず、マハチカラか。そうだな、まずは振り出しに戻る.. か。
途中、海峡を見るとイルカがこちらを向いて手を振っていた。
我が旅立ちを祝福するかのように。
 
完 伽耶雅人著
 
(注)これはフィクションである。過去あるいは現在においてたまたま実在する人物、団体、出来事と類似していても、それは偶然に過ぎない。
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