チェチェン挽歌
軍曹は軽く握手しながら、「セルゲイ、25歳」と自己紹介してくれた。18歳で学校を卒業後、徴兵入隊。2年の徴兵任期だが、他に職がなく、そのまま職業軍人となる。 結婚。月給750ルーブル(30ドルにも満たないが、普通の人と比べればいいほうだという)。 例に漏れず1年後離婚。チェチェンに出向けば月に1000ドル貰えるというので、 食うや食わずの泥沼からなんとか這い出したくて戦地派兵に志願した。 「ここに来て既に4ヶ月が過ぎたが、まだ実際にお金を受け取っていない」という。
若者を死地に追いやっておきながら「空手形」とは、なんという国だろう。 皆が貧しければ、それはそれで納得も出来ようが、大都会では高級外車が犇めき、 郊外にはお城のような大邸宅が立ち並び、町ではカジノが繁盛している。 これが社会主義転覆の報酬ということか。人間とは、、結局はこんなものか。
話は少し逸れるが、先年のコソボ紛争でロシアは同じスラブ民族のセルビア側についた。 だが、セルビア軍は欧米の総攻撃を受け、散々に叩きのめされた。
セルビアの敗北はロシア人の自尊心を傷つけ、ロシアの国威を貶めた。 ロシア政府はなんとかその捌け口(打開策)を見つけ出さなければならなかった。
折しも、モスクワ、マハチカラ、ロストフで高層住宅爆破事件が起こった。 アメリカの貿易センタービルと同じように、多くの一般住民が爆破で倒壊した高層住宅に押し潰された。 残ったのは瓦礫と悪臭だけだった。
プーヂン(当時首相だった)は即座にこれをチェチェン・テロリストの犯行と断定した。
ロシアの土俵の中で起こった事件ゆえに、今となっては誰にも調べようがないが、 これは満州事変の引き金となった柳条湖事件(奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件)に酷似しており、 同様に仕組まれた可能性は否めない。
一方、チェチェン側は情勢を見誤った。
高層住宅爆破事件でロシア人の憎悪がチェチェンに向けられている最中(さなか)に、 愚かにもチェチェン軍は東隣の共和国ダゲスタンに侵攻した。分離独立の火をチェチェンからダゲスタンに拡げようとした。 ロシア側の挑発に乗せられたのだろうか。
いずれにせよ、これに対するロシア軍の反攻は早かった。
前回1994−1996年の(第一次)チェチェン侵攻時と比べ、 1999年8月からの今回のロシア軍の(第二次)侵攻は、少なくとも緒戦は、非常に好首尾に進められた。
接近戦でのロシア軍の脆さと弱さを知悉しているプーヂンは爆撃機と遠距離砲のみを信用した。戦果は大きかった。 歩兵は空爆と砲撃で真っ平になった敵地をただ占領するだけでよかった。 歩兵部隊はそこの置石となる。ロシアの伝統的戦法である。
この作戦を強引に推進したプーヂンの人気は70%を超えた。 (9.11事件後のアメリカがそうであったように)ロシアではプーヂンを批判する政治家は一人もいなくなった。
実際、チェチェンを南北に分けるテレク河以北の平野部を占領下においた1999年の秋口まではロシア軍の動きは申し分なかった。 兵の消耗は少なく、占領地は確実に広がっていった。 コソボ問題で屈辱感に打ちのめされたロシア人の心に「偉大なる祖国ロシア」という言葉が戻ってきた。
一方、軍部も政府もこれ以上侵攻する必要はないと言いながら、10月には暫定境界線となっていたテレク河から更に南進し、 首都グロズヌイを征圧した。さらに、止(とど)まるを知らず、コーカサスの北壁、チェチェン南部の山岳地に挑戦した。
この頃からロシア軍の犠牲が増え、チェチェンの西の隣国イングシへの戦争難民の数が20万人を上回るようになる。
小生も何度か目にしたが、難民は汚れた服を重ね着し、袋やバケツに食べ物を入れて、埃のなかを放浪する。 餓えた子供を抱く姿はこの世の地獄を思わせる。
涙が出る。
ロシアの軍部は冬が来るまでにチェチェン全土を完全掌握すると公言していたが、 長距離砲も爆撃機も山岳地では有効に使用できず、「悪天候のため進攻は一時的に停滞している。 尚、軍の犠牲は想定の範囲内」との報道が流された。これを裏から読めば、 「現在、ロシア軍は敵の抵抗に阻まれ前進できないでいる。しかも、かなりの犠牲が出ている」ということになる。
チェチェンでは夜になると恐怖が支配する。暗がりでの刺殺、背後からの射撃、手榴弾、ロケット弾、叫び声、悲鳴.. 昼間の穏やかな農民の顔が夜になると狂暴な殺戮者の顔に豹変する。
多くのロシア兵もそうだが、セルゲイ軍曹には拠るべき何ものもない。
あるとすれば、月1000ドルの空手形だ。空手形でもいい。これをしっかり握って、早く家に帰りたい。 子供の頃に帰りたい。ママのぬくもりが忘れられない。
この世に住んで良かったことは何もない。ずっと真面目に生きてきて損をしたような気がする。 これから先のことを考えると吐き気がするので考えない。軍隊はそういう意味では都合がよい。 考えず、何も考えず、撃ちまくって、いつか撃たれて死ぬのを待つだけだから.. セルゲイも喋り疲れたのか静かになった。 25歳というが、実際40歳を越えているようにさえ見える。
塹壕の中から暗い星空を見ながら考えた。
小生、長い間他国にあり旅をした。常に旅人であり、他人であり、局外者であった。
いつも自分だけがそういう位置にあると思っていたが、実は殆どの人がそうだと気付いた。 自分の意志とは関係なしに、人が勝手に決めた「運命」に翻弄されている。
セルゲイもイングシで悲惨な難民生活を送る20万を超える人々も。
自分で自分の運命を決めることは、ほんの少数の選ばれた人たちの特権かも、、
同行のマハチカラの掘削局次長・ビクトルが地を這いながらこちらに近寄ってきた。
「今のうちにこれを食べて、体を休めておいたほうがいい」と一握りのレーズンを手渡してくれた。 今、朝の2時45分。「朝が白み始める直前が最も危険だ。絶対に塹壕から出ないように」と言い、 地を這いながら闇の中に消えていった。
朝の4時過ぎ。夜が白み始める。やはり、やって来た。ヘリに手榴弾が投げ込まれ、一斉射撃が始まった。 耳をつんざく銃声と叫び声、、ロシア軍の白旗降参。
全員武装解除の上、名前と所属を訊かれ、身体検査を受けたうえで、 ゲリラの戦利品(いままで我が方の所有物だった品物)を担がされた。
ゲリラは総勢30人程度だった。頭は空っぽ。何か考えねば。 そうだ尋問された時の回答を用意しておかねばと思うが何も頭に浮かんでこない。 とぼとぼと歩きながら、みんな殺されるのかな、最初は誰だろう、目隠しされるのかな、 羊を殺すようにナイフで首を切るのかな、と浅はかな思案だけが頭の中をかけ巡る。
山峡の村。古びた農家に辿りつく。戦利品を納屋に入れる。全員がかび臭い地下室に放り込まれる。 互いに話し合う間もなく、呼び出しがかかる。
ロシア兵は一度に並んで出ていった。次にビクトルたちペトロスの職員が呼ばれ、 暫しあって小生が呼び出された。ロシア人達の姿は見えない。どこに連れて行かれたのだろうか。
「ミスターアンドか。なぜロシア軍と同行していたのか」
小生、このような場所で話を取り繕うだけの知恵と度胸の持ち合わせはない。顔は青ざめ、胸は高鳴る。 「納入したパイプにクレームがついたので現地調査にやって来た。 それがダゲスタンに運ばれ、石油パイプラインの川底トンネル掘削用に使われていることはクレームを 受け取るまで知らされていなかった.. 」
チェチェン人尋問者は手をあげ、小生の発言をさえぎり「大抵の犯罪者は自分が犯罪を犯していることを知らなかったという。 他のロシア人達は問答無用だが、当方は貴方が外人という事で丁重に応対している。 自己弁護をされたいなら、あの世に行かれてからにして欲しい。こちらには余分な話しに付き合う時間がない。
手間を省くため、こちらから貴方の回答を述べよう。もしその通りなら、そうだと言って頂ければよい。 さて、始めようか。まず、貴方は納入済みのドリルパイプに対するクレームの処理ということで当地を訪問されたということだね。 問題は掘削中の中途破断だね」
小生、まさかこんな質問が出ようとは思わなかったが、さりとて間違いではないから「そうだ」と答えた。
「そこで、貴方はペトロスからのオーダーを今後継続して取るため、 また最大限の利益をあげるため、掘削現場を視察し、どのようなドリルパイプを使えば中途破断もなく、 効率よく川底トンネルが掘れるか。最低限どういう鋼種、肉厚、ツールジョイントのドリルパイプならここで使用可能か。 そういうスペックを決めるために当地を訪問した、この通りだね」 という。
小生、いままで恐怖のためか、半分夢うつつの心境だったが、チェチェン尋問者の話しを聞いて頭に血がのぼった。 あたかも悪徳商社まるだしの自供ではないか。
「私は自分の仕事と製品に誇りを持っている。最大限の利益をあげるために最低限のスペックを作るなど夢々あるまじきことだ。 つまり、私の答えはNET(否)だ。どうせ殺すならあっさり殺してくれ」 と興奮にまかせて見栄を切ってしまった。
自分の口からこんな言葉が飛び出すとは、よほど情緒不安定だったとしか言えない。 尋問者はにやりと笑って「わたしの名はチムール・マサエフだ。暫しお休み頂こう」と地下室の方を指差す。
地下室に放り込まれてから色々と疑問が湧いてきた。
チムールはなぜドリルパイプの知識を持っているのか、またなぜ中途破断の事実を知っているのか。 何ゆえに小生を捕らえたのか。小生、最初から犯罪者扱いされて頭に血がのぼり、殺すなら殺せと息巻いてしまったが..
徹夜のせいだろう、何も考えが纏まらない内に寝入ってしまった。
暫く眠ったが毛布もないので寒いし、腹は減るし、この先の我が運命が気になるしで目が覚めてしまった。 時計を含め所有物は全て没収されたため、眠りから覚めても今どういう時間なのか見当がつかない。 ぼんやりした頭で思案を続けた。
まず、何のために小生を捕らえる必要があったのか。敵(ペトロス)に協力する者なら即座に始末してしまえばよいのではないのか。 営利誘拐のためか。営利誘拐のためなら、あのような尋問は必要ない筈だ。 ドリルパイプの中途破断を知っているということは、チムールが(またはその仲間が)現業の専門家ということになる。
まず、地形を考えると、、この辺りの河川は殆んどが西から東のカスピ海に向かって流れている。 ペトロスのパイプラインが河川を横切るということは、西の消費地、出荷地(港)への最短コースに位置するチェチェンに向けないで、 カスピ海の西岸を北上させことになる。つまりチェチェン迂回、遠回りコースだ。 カスピ海には巨大海底油田が眠っている。
今、ロシアと欧米メジャーは石油の開発にしのぎを削っている。
ロシア側としては、これから採れる大量の石油はチェチェンを迂回するパイプラインで西に運ぼうということだろう。 勿論、小規模の北上パイプラインは既に走っている。
しかし、我が社が納めたドリルパイプの径(diameter)の大きさを考えると大変な送油量となる。
チェチェンとしては大量のオイルが自国を迂回することになっては大きな収入源を絶たれることになり、 国家としての経済的自立が覚束(おぼつか)なくなるだろう。その善悪は別として、 これを彼らが妨害しようとするのは彼らとしては当然のことだろう、、
そのためにドリルパイプの限界スペックを知ろうとしたのか、、わざと中途破断を起こさせるために、、 ここまで考えたところで緊張疲労のためか、また寝入ってしまった。 ヘリが轟音をたてて墜落する夢を見て目が覚めた。汗びっしょりだった。
着替えが欲しいが勿論、望むべくもない。
上からゴトゴトという靴音がして、地下室の蓋があいた。プリーズという声が聞こえた。 小生、それに導かれるように地下室から出ていった。机のうえに暖かいスープとパンがおいてあった。 「もしや毒入り」とも思ったが、腹がすいては戦さも出来ぬ。ひとり食事をむさぼった。
食事が終わった時を見計らったようにチムールがやって来て「ミスターアンド、あなたとララ・ザガエバはどういう関係か」と問う。
小生、チムールが何を言っているのか暫く理解出来なかったが、そう言えば、ララあての人形とメモ書きをお守りに持ってきていた。 チムールたちは没収した物を丁寧にチェックしたのだろう。