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チェチェン挽歌
三十一
チムールが浸透を図るというチェチェンの西隣国イングシでは、現在、どうなっているだろうか。 イングシ難民の様子を描いた新聞記事 2000.6.27付を下に紹介する。
MOSCOW NEWS(英字 外資系)Y.バグロフイングシ記者 共和国カラブラク発AP
"Chechens Long to Return home" 「望郷の念にかられるチェチェン難民」
 
**チェチェン人 A.サダエフ
サダエフは数ヶ月間、イングシの不潔な難民キャンプで生活した後、チェチェンに戻り、そこで生活を立て直そうとした。 しかし彼の夢ははかなく消えた。「我が家は完全に破壊され、壁さえ残っていなかった。 チェチェンには家族を養うための仕事もないし、身の安全の保障もない。グロズヌイに居残れば餓死するしかない。 結局、ふたたびイングシの難民キャンプに戻らざるを得なかった。40歳を超えて、 家族を養うことも出来ないのは自分にとっては耐えられない恥辱だ」と語る。
 
**ソグラシエキャンプ地
数百人の男が何もせずぶらぶらとしている。女達は薪の火で煮炊きをしたり、洗濯したりしている。 子供達はボロボロの服を纏い、走ったり、叫んだり、顔をよごして遊びまわっている。 イングシにはソグラシエと同じようなキャンプ地が幾つかある。ソグラシには5000人の難民が暮らしている。 他のキャンプ地もここ同様、望郷の念に駆られつつ陰鬱な時が流れている。 チェチェン人が怖れているのは、難民キャンプで何ヶ月も、何年も過ごしている内に本物の流浪の民となってしまうことだ。
 
**ロシア政府
ロシア政府は「既にチェチェンは鎮定され、イングシに移った難民はチェチェンに帰還しても、 身の安全と生活は保障される」と難民のチェチェン帰還を希望している。 しかし帰還した難民はそこで家が破壊され、仕事もなく、また戦争で引き裂かれた土地には食べ物もない事をおもい知らされる。 比較的安全なキャンプ地でも生活は大変だ。難民は一日一回の食事を与えられる。大抵がスープか粥である。
多くの者が飢えか胃腸障害を訴える。与えられる食事の質の悪さが原因だ。
 
**ザラ.カデイエバ
私には三人の子供がいる。この子らのために毎日毎日「お恵み」を乞う生活にもほとほと草臥れてしまった。 人の排泄物の匂いがキャンプ地全体に漂う。テントはゴムか防水シートで出来ている。 これは雨水を防いでくれるけど、テント内は通風が悪く蒸せ返る。人々はテント村で膝までつかる泥道を歩いて行く。 黒い汚泥だ。ほんの少数のお金を持った難民が近くのマーケットで食糧を買う。 殆どの難民は自らの持ち物を売って、食べ物を買いつないできた。しかし今やそれも底をついてしまった。
 
**アスランベク.シャロズイ
私は家族の食べ物を買うため、持ち物すべてを売り尽くすことになった。 チェチェンから持ち出すことのできたテレビほか、幾つかの品物すべて。幾人かが近隣の農家などの下働きの仕事を見つけた。 しかし現地の人間より低い労賃で働かせられ、もともと気位の高い男達には耐えがたい。 多くの者はキャンプ地でトランプをやったり、仲間うちで話し込んだりしている。 ただぼうっと宙を見つめているだけの者もいる。
 
**シルバニ.ザクリエフ
一日中、俺は何かニュースはないかと訊き回っている。やることがないからだ。 チェチェンからやって来る連中はよくニュースを持ち込んでくる。 男達がごろごろしている間、女達は一日中せかせかと働きまわっている。 テントを掃除したり、着物を洗濯したり、薪で煮物をしたり。 なかには路上でタバコを一本幾ら、キャンデイを一個幾らで売っている女もいる。 また周りの山に分け入って食べれる植物を捜している女達もいる。
チェチェンの男達は「男が家事をやることは想いも寄らぬこと」だと思っている。
勿論、少数ではあるが、そっと家事の手伝いをしようという男もいるにはいる。
ザクリエフは「女は少なくとも何かやる事があるからいい。掃除をしたり、洗濯をしたり。 俺などはちょうど居候のような者さ」と語る。
 
**マルハ.マガマドバ 21歳
「グロズヌイ大学に戻りたい。でも、首都はひどく危険だから無理と諦めている。 このキャンプ地には少なくともベッドはある。しかし与えられるのは豚でさえ口にしないゴミ溜めの屑ばかりよ」という。
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三十二
最近、マガダン、ハバロフスク、ペトロカムチャツクなどロシア極東の陸海軍基地で兵卒の「職務怠慢」による 弾薬庫の暴発事故が相次いだ。巨大な花火のような光景だった。砲弾が好き勝ってな方向に飛び跳ね、着地点で炸裂した。 弾薬庫は全壊した。濛々たる黒煙が上がった。周囲の人家にも大きな被害が出た。
もしORVT(ロシア軍事技術振興会)の行動隊が事前に大量の高性能火薬を抜き取っていなければ、 被害がこれに数倍したであろう事は誰も知らなかった。
いや、厳密には言えば、複数の専門家は被害が少なすぎると気付いていた。しかし軍参謀本部の発表に口を挟む者はいなかった。
小生、うんざりするほどの仕事を終え、夜遅くアパートに戻った。
書斎に灯がともっている。「ララか」と息がつまる。ところが様子が違う。 金髪の娘がうつむいている。ナタリだ。「タラカノフを撃った」という。
ナタリはタラカノフの書斎でデータにアクセスした。 チェチェン作戦の全貌、地名、人名、組織名などの詳細があった。ナタリは青ざめた。 この作戦の前段階はすでに実行されている。最近「チェチェン・ゲリラによる都市爆破事件」が南ロシアで頻発している。
ナタリは知った。やはりこれはORVTが仕組んだものだったことを。
彼らはマガダンほかの弾薬庫から爆薬を盗み出し、ロシアの一般市民を生贄にしてチェチェンへの憎しみを掻き立てようとしている。 以前にも同じ事が起こった。
それが第二次チェチェン侵攻の引き金となった。ここ数日の「都市爆破事件」はチェチェンを完全に抹殺するための引き金だ。 これから次々と恐ろしい事件が起ころうとしている。
彼女は震える手でデータをディスクに入れようとした。まず、タラカノフの財布から抜き取ったウイルスの動きを止めるICカードを差し込み、 ベッドで聴き出した(ヒントだけだったが)コードを入れて、ディスクをセットした。
高級ブランディーと花束とともに帰宅したタラカノフはそれを見た。瞬間、彼はナタリがスパイだと理解した。ピストルを出してにやりとした。
女はにやりともせずタラカノフを撃った。
ナタリは小生に事の重大さを説明してくれた:
ロシアは、チェチェンがいつまで経っても屈服せず、しぶとく抵抗を続けられるのはチェチェンの南隣国グルジア経由の武器、食糧、兵員の 供給があること、かつロシアの攻勢時にはグルジアがゲリラのシェルターとなっていること、 このふたつが原因であると見ている。チェチェンを封殺するにはグルジア・ルートを遮断するしかない。
ただ、ちょっとやそっとのグルジア侵攻では殆んど効果がないことは今までの経験が示している。
ORVTの作戦によれば、そのためにイスラエルに会社が設立され、それが大型輸送機をチャーターする。 これがグルジアの軍事基地に舞い降りる。グルジア軍特殊部隊はそれを了解している。 イスラエルとの「秘密軍事協定」に基づくものとして。
機内から中性子爆弾が降ろされる。全てが秘密裏に行われる。ロシアの対グルジア欺瞞作戦だ。 グルジア軍は、グルジア国内で(ロシアの支援を受けて)分離独立を目論むアブハジア、南オセチア州に中性子爆弾を運び込み、 それぞれの軍事中枢域の上空で爆発させる。
つまり、ロシアは敵国グルジアを使って、ロシアの飼い犬であるアブハジア、南オセチアを攻撃させようとしている。 これが実行されればグルジアは叛徒に致命的打撃を与え、彼らの分離独立を抑えることが出来るだろう。
が、それは一時的効果に過ぎない。世界の非難を浴びる。 中性子爆弾の破壊規模は大きくないが、それによる政治的効果は計り知れないほど大きい。
これを機にロシアは対グルジア戦争の正当な根拠(宣戦布告の大儀)を手にすることになり、 大軍がコーカサス山脈を越えてグルジア国内になだれ込み、長期に亘ってグルジアを占領下に置くことになる。 その結果、チェチェンを完璧に封殺することが出来る。
このような筋書きは誰でも描けるが、具体的な地名、人名、組織名、作戦コード、日程などを記したものはこれ以外にない。 しかもこの「前段階」は既に実行されている。
ナタリは「ORVTはまもなくタラカノフの殺害と作戦データがコピーされたことを知り、すぐに動き出すはずだ。 今夜中にも私は重要容疑者になる」という。
確かに彼らの動きは早いから、ディスクを至急、かくあるべき所に持ち込まねばならない。 電話も、ファックスもまずい。アメリカ大使館も日本大使館もマークされているだろうから、近づくわけにいかない。 インターネットで出せば瞬時にウイルスが暴れ出すという。それどころか、こちらの所在地がORVTに知れてしまう。 誰かがディスクを国外に持ち出すしかない。
ロシアの一般国民が国外に出る場合、相手国のビザが必要になる。 小生はいつでもロシア国外に出れるビザ(商社の長期駐在員ビザ)を持っている。
小生がディスクを国外に持ち出し、それなりの国際機関に持ち込んでロシアの動きを牽制するということか。 ナタリはそれを頼りにしているという。いや、ちょっと待ってくれ。それは決して容易なことではない。一歩誤ったら地獄行きではないか、、
ナタリは「今、ララはロシアに入るためイスタンブールでパスポートとビザの出来上がりを待っている」という。 そうか、イスタンブールか。悪くない。と、急に気が変わった。 ナタリも始めからそう言ってくれればいいのに、冷たい女だ(いや、それは彼女の知ったことではないか)。 ホテル名を聞いた。アタチュルクという。
ナタリに「暫らくのあいだ我が家に潜んでいればいい。 こちらから連絡するまではじっとしているように。そうだ、連絡する場合の名前を決めておこう」と提案した。
「そうね、レナがいい」という。
「了解。ところで、そこの二段ベッドの上の天井裏が子供たちの隠れ家になっている。 誰かが入ってきたらそこに隠れていればいい(実際、アパートの鍵番は小生の留守中にしばしば忍び込んでいる。 それも勤務の一部らしいが)。
食糧は冷蔵庫、冷凍庫にしっかり入っている。念のため、少しだが」と多少のお金を残してやった。 脱出用ロープのありかも教えた。
小生、ORVTの目が最初に光るであろうモスクワ第1空港を避け、第3空港からの一番早いウクライナ便を選んだ。 早朝、飛行機に乗り込んでから「ウクライナ経由のイスタンブールもいいな」と余裕が出てきた。
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三十三
中性子爆弾:
現時点では(実験を含め)その使用例が公式には認められていない。
大型核の危険ばかり報道されている蔭で、各国で密かに開発が進められているのが(規模は小さいが)水爆の一種である中性子爆弾である。 これの保有を禁止する国際規約はなく、実態は明らかにされていない。 すくなくとも現時点ではいまだ実戦配備はなされていないだろうというのが大勢の見方だ。 構造はプルトニウムを中心に配し、二層目は重水素化リチウム、三層目はベリリウムで包んで爆薬で巻く。 空中で爆発させて大気中に中性子を放出。光や熱は出さない。
中性子は戦闘機や軍艦、建築物そのものは破壊せず、それらを通り抜けて人間などの生物を死傷する。 放射能物質の残留期間が短いため、戦略地の占領が容易である。
中性子爆弾による被害予測は...
地上120-150メートルで爆発させた場合、真下の半径120-150メートル(高さと同範囲)の建造物を破壊し、生物は即死。 半径800メートル前後の建造物は破壊されず、この半径の内側にいる生物は数時間後に死滅。
半径1500メートル前後の生物は数日で死滅し(数日は苦しむ) 2キロ以内の生物は日を経るごとに死滅していく.. という悪魔の爆弾である。
例えば、中台国境に米空母インデペンデンスが向かったとしたら、中国空軍は空母から1500メートルの所で中性子爆弾を爆発させれば、 インデペンデンスに気付かれずに乗員総てを死滅させ、空母を無傷で手に入れることが出来る。
ナタリがいみじくも「悪魔」と呼んだタラカノフはこれを用いてグルジア戦争を引き起こし、 チェチェンを完全に抹殺しようとしている。彼は既にこの世にいないが、悪魔の謀略はすでに起動しつつある。
小生、ウクライナのキエフ空港で飛行機を乗り換え、一路イスタンブールへ。
今後の方針を考える間もなく、イスタンブール空港に到着する。
いつものように空港の銀行でトルコの現地通貨を買う。CDショップに立ち寄り、トルコ軍楽隊のCDなどを物色、 そのあとコインロッカーを探し、例のディスクをその中に入れる。
ララがここにいると思うと心が疼く。逆足とは言え、先ずララが宿泊しているというホテル・アタチュルクを捜し、 彼女と会ってその足で、日本総領事館に飛び込む、と決めた。
アタチュルクは想像していたより豪華だった。レセプションでララ・ザガエバの部屋を訊いたが教えてくれない。 仕方がないからロビーで待つことにする。
時間を気にしながらレセプションから少し距離のある場所に席を取る。 これがプロなら重大な時間を無駄にしたということで「職務怠慢」とか「背任」とかの罪に問われるところだろうなと思いつつ、 あと30分、あと30分と待ちぼうける。紅茶も三杯お代わりした。
眼のまわりに隈が出来て、これ以上待てない、先に領事館に飛び込むべきだったと後悔し始めた時、 レセプションにララが現れる。息が止まる...
仲睦まじくといった感じで、ハイセンスに着こなした男と一緒だ。
顔からすうっと血が引いていく。心臓が割れる。彼女はこちらに気付かない。
あれは確かヘルシンキにダイヤの原石を受け取りに来た二人の男のうちの一人だ。チェチェン人だ。
思考力ゼロの状態で、いつか見た映画のシーンを思い出していた。あるベトナム駐留米兵が一途に愛し、信じていた女に「あたしも変わった。 あなたとは生き方が違うのに気がついた。別れましょう」という手紙を受け取ったとき、彼は握りこぶしを壁に打ちつけ、 泣きながら「何でもない、何でもない、こんなことは何でもないことだ」と繰り返していた。
眼を瞑って深く息をした。「もうやめよう。何もかも。やはりララはチェチェン人だった。俺は馬鹿だった。 煽られて図に乗った大馬鹿者だった。コインロッカーの鍵を捨ててしまえば、それでゲームオーバーだ。 チェチェンなど俺の知ったことではない」と二人がエレベータホールに消えて行くを見ながら独り毒づいていた。
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