31-33 34-36 37-39 40-42 43-45 46-48 49-51 52
カルムイキア
(ニキタの一生)
グダイは嫁を貰うための最低条件である山羊5頭を得るために必死になった。
今、父親のもとに8頭いる。これが小やぎを産んで5頭の余裕が出来るまで最低3〜4年かかる。 父に頼み込めば、今無理して5頭を渡してくれるかもしれない。 しかしきっと「嫁を取るには若すぎる」と文句を言うだろう。
いや、それよりも「その齢で女にうつつを抜かして」と嗤われるかもしれない。
それはいやだ。親に頼らず自分の力で山羊5頭を手に入れて見せる。男の意地だ。 でも、どこに行けば山羊5頭を手に入れることが出来るのか。
そう言えば、昔おじいさんが「馬で西に5日ほど行けば高い山地がある。 その切り立った崖に野生の山羊が群れをつくっている」と言っていた。
これを捕まえればよい。でも、生け捕りにするにはどうすればよいのか。
色々な仕掛けを考えたが、グダイの頭にはすっきりした考えは出てこない。
まずは切り立った崖で野生の山羊を追う自分の姿を想像してみた。 そうだ、馬を駆けて急坂を上下しなければならない。やってみよう。行け、フビライ、走れ。鞭を入れた。 愛馬フビライは奔った。が、グダイよりさきに音(ね)を上げてしまった。
2〜3度急坂を上下しただけで青息吐息となり、いくら尻を叩いても動かなくなってしまった。
一週間に一度母親達のところに山鼠や蛇、野兎、鳥などの狩猟物を届けることになっていたが、 グダイにはそれが待ちきれなかった。ニキタを探し、地に伏せてその姿をじっと見つめる。 何かすてきな獲物を捕まえてニキタに手渡したい。
ニキタは毒蛇から自分を救い、微笑みだけを残して消えていった若者を忘れることが出来なかった。 毒へびを射抜いたあの矢を寝床の下にしまっている。 毎晩 皆が寝静まってからそれを取り出し、指でなぞらえ胸に押し付ける。
ニキタには仏陀より現実味があり、今や仏陀より大事な存在となっている。
グダイは西の山の崖を登ってみて、馬と野生の山羊サイガの違いがよく分かった。 馬がまったく使えない急な崖を野生の山羊は鳥のように跳ね回っている。 彼らを生け捕りすることは無理だと理解した。
そこで弓で射殺し、山羊の干し肉をつくって、これを生きた羊と交換することを思いついた。 グダイは早速ヤシクリの町に行き、裏からバザール(市場)に入り、羊売りを探した。 羊売りはいなかったが、肉屋は見つかった。
肉屋は「4頭分の山羊肉で生きた羊1頭を渡そう」と提案してきた。 羊は2歳の牝だという。グダイはこれが高いのか安いのか見当もつかず、合意せざるを得なかった。
バザールの肉屋の名はラシドといった。
「死んだ山羊からは乳は採れない。それに子も産まない」(だから山羊肉4頭に対して羊1頭だという) 貧乏バザールの肉屋にしては賢そうな顔をしていた。
年が明けてニキタは16歳になった。あれ以来、自分を救ってくれた男には出会っていない。 最初の強い印象は時間の経過とともに薄らいでいった。本当にそのような男はいたのか。 現実ではなく夢だったかもしれない。もしかしてあれは仏陀の化身ではなかったのか。 だんだんと印象がおぼろげになってきた。胸に抱く矢は間違いなく現実のものであったが...
この時期、生き物は地に潜り息をひそめ、姿を見せない。
ニキタは弟や妹を家に残し、一人で遠出をした。川には魚がいる。
だが、餌をつけて糸を垂らして川辺に佇んでみたものの、魚釣りは初めて。 いくら待っても釣り針についた肉片はそのままだった。 哀れな気持ちで水面を見つめていた。水鳥が水面ではばたき、空に舞いあがる。
水鳥が大きく、美しく、近づき難いものに見え、自分が力のない、小さいものに思えた。 「小魚の一匹も私を相手にしてくれない」と惨めで泣きたかった。
寒さのなか体を震わせながら魚の反応をじっと待ったが、何の変化もなかった。
「釣れないものをいくら追っかけても仕方ない」とあきらめ、帰ろうと思った。
そのときだった。水面から飛び上がろうとして翼を広げた水鳥に一本の矢が吸い込まれていった。 鳥は水面にひれ伏した。すごいと思った。
同時にニキタはそれが誰なのか瞬間に理解した。 男は狼のような速さで川を駆け下り、投げ輪を使い、鳥を拾いあげた。
矢を抜き取り、ニキタに「受け取れ」と言って逃げようとする。
ニキタは思わず「あのとき私を救ってくれた人ね。あなたとお話がしたい」と叫んでいた。 彼は必死で「俺はモリバの息子グダイ。羊5頭を手に入れたらお前を嫁にする」と言い残すと、 狼よりも速く走り去ってしまった。
棘々草の根は土中真下に伸びている。いくら掘っても掘り尽くせない。
高さ50cmに満たない小さな草が深さ15mほどの根で自分に必要な水分を吸い上げている。 枯れた棘々草の根は木質が緻密なため、打ち合わせばキンキンという金属音が出る。
燃やせば最高の木炭になる。ニキタの家族はグダイから受け取った鳥を棘々草の木炭で焼いた。 凄まじいばかりの芳ばしい香りがあたりに漂った。
よく脂ののった鳥肉は美味だった。家族全員が幸せなひとときを過ごした。 親たちはニキタにこのような猟が出来るわけがないことは知っていたが、何も言わなかった。 それよりも、「もう一度この幸せにあやかりたい」と想った。
グダイはいよいよ野生の山羊を狩るべく寝袋を用意して西の山に駆けた。 馬を隠し、険しい岩山をよじ登り、山羊を探した。サイガという南露〜中央アジア特有の山羊だ。 1日中探しまわり、夕方ようやく牝(めす)山羊と2頭の仔山羊の家族を見付けた。
距離200m、遠すぎて矢が届かない。
野生のサイガは山の仙人のように崖を上下して、まばらな草を食んでいる。
彼らに気付かれないよう音を殺して近づく。尖った岩の崖を這いながら登っていく。 岩の鋭い刃が足に刺さるが、痛くなかった。必死だった。何としても仕留めたかった。
距離40〜50m、思い切り弓を引き絞り、矢を放った。
矢は直線から放物線に移るところで牝山羊の腰の部分に突き刺さった。
牝山羊は衝撃を受けてどうっと横ずさる。だが慌てて仔山羊を上に逃がすと、 それを追うように腰に矢をぶらさげたまま走り出した。
グダイは急いで二の矢をつがえたが、既に遅かった。射程距離外に出てしまった。 結局、牝山羊を傷つけただけで猟果は何もなかった。
彼は以前、話に聞いたことはあったが、それを今日はじめて身をもって学んだ。
つまり、成長した山羊は普通の矢では倒せない。毒矢を使わねばならない。 また親子連れの場合、子供を先に狙う。親はその場から逃げない。 残酷のようだが、不毛の地に生き抜くものに選択の余地はない。
翌朝さっそく毒へび探しを始めた。二匹が丸まって洞の中にうずくまっているのを捉えた。 こいつらを生きたまま袋に入れて持ち運ぶことにした。次に矢じりに溝をつけた。 これで準備万端整った。射る直前にやじりの溝にへびの毒を滴らす。自分ながらうまく出来たと思う。
岩壁をよじ登った。崖のへこみにサイガの糞を見つけ、そこに身を隠し、待った。 待つことには慣れている。半眼で鼻から息を吸い、口から静かに吐き出す。
体から力を抜く。手足に温かさを念じる。これを何度も繰り返し気配を消す。
心は落ち着き、半冬眠の状態になる。これで4〜5時間待った。
立派な角を持った牡(おす)が3頭の牝と数頭の仔山羊を連れている。 呼吸を乱さないよう気持ちを落ち着かせ、1匹の蛇を袋の中からつかみ出す。
喉から顎を静かになぞり、矢じりの溝に近づける。指先に力を入れ唾液腺を押す。 蛇は歯をむき出し、毒を矢じりの溝に吹きかける。
同じ要領でもう一本の矢のやじりに毒を塗った。
一頭の仔山羊に狙いを定める。きりきりと弓を絞る。矢じりの向こうに母山羊に甘える仔山羊が見える。 グダイは重い息を吐き出すと狙いを変えた。母山羊に狙いを定めた。
ひゅーんという音とともに毒のついた矢が母山羊の体に突き刺さった。 彼女はぶるるっと体を震わせたが、時を置かずそのまま横倒しになった。 蛇毒の効果はてきめんだった。
他の山羊は皆とっさに逃げ出したが、妻のひとりを殺された牡だけは怒りに燃えた。 あたりの空気を切り裂くような雄叫びを上げ、口から泡を飛ばし、岩面に足摺りする。 頭を下げ、角をグダイに向け動き出した。 そして徐々に速度を上げ、急斜面をまさに翔ぶがごとく猛然と駆け始めた。 こうなれば生きるか死ぬかの激突となる。
だが、グダイは半眼のまま、平常と変わらぬ呼吸で次の矢をつがえる。 動きは緩慢のようでまったく無駄がない。
真正面から矢を射るのは難しい。当てる場所は硬い眉間か、鋭角の胸部しかない。
牡山羊がグダイに必殺の突きを入れようと脚で地を蹴り、体を上向けたその時、矢が胸板に命中した。 牡の脳と体に痺れが走り、彼はグダイの目の前でひざまずき動かなくなった。
グダイはすぐさま小刀で牡山羊の息の根を止めた。
彼は野生の山羊2頭を馬に乗せ、ヤシクリの町を目ざし山を下った。
これ以上は馬の背に載せることが出来ない。馬はモンゴル系の小型馬だった。
ヤシクリへの途中、ニキタのバラックに近づき牡山羊を馬の背から降ろした。
ニキタが朝の水汲みに出てくるのを待った。風と寒さは強烈だったが辛くはなかった。
ニキタに変な男だと思われるのが心配だった。物で女を釣ろうとする卑しい男と思われたくなかった。 だが彼女に最高の贈り物をしたかった。
ニキタがやってくる。こんな辛い思いは始めてだった。嬉しいはずなのに苦しく、恥ずかしく、胸はドンドン鳴る。このままでは息が出来ずに死んでしまう。
ニキタが目の前に来た。
グダイは脇においた牡山羊を指差し、かすれ声で「俺が獲った。お前にやる」と言った。 ニキタは黙って手を差し伸べた。これがすべてを語っていた。
ニキタの手を取ると痺れと震えが同時に走った。それからのことはよく分からない。 グダイは自分が何をしているのか。ニキタは自分が何をされているのか。
文字どおり夢中の瞬間だった。
「羊なんかどうでもいい。ずっとあなたと一緒にいたい」
ニキタは泣いていた。グダイには涙の意味は分からなかったが、どんな宝石よりも美しく貴重に思えた。 あとからやって来た弟たちが牡山羊の死体を発見すると狂喜して家に駆け帰った。 家族全員、おじいさんやおばあさんまでがやって来てお祭り騒ぎとなった。
ニキタはグダイとのことを家族の誰にも告げるわけには行かず、 遠くに離れて皆がはしゃいでいる様を眺めていた。心はそこにあらずだった。
ニキタの母親は感じていた。遠からずニキタを嫁に欲しいという者が現れるだろうと。
コザック憲兵の恐ろしさを思うと不安だった。絶対に男を里に住まわせるわけにはいかない。 だがニキタを山中に住まわせたくもなかった。
山中ではパンも野菜もない。ただ地に這うような小動物を捕まえて食べるしか生きるすべはない。 出来ればニキタは手元に置いておきたかった。
男が今のように狩猟物を運んできてくれれば、これに越したことはなかった。
家族も助かる。本心は男手が欲しい。戦時中にカルムイクの若者は貴重な存在だ。
このまま時が経てば、ニキタはロシア人の慰みものになってしまう...
グダイは必死で野性のサイガを狩った。
1頭、2頭と狩ってはヤシクリに運んだ。4頭毎にバザールの商人は2歳の牝羊を渡してくれた。 時が流れ、既に羊が2頭になった。これを山中に潜む父親に預けて野生のサイガ獲りに専念した。 父親はグダイの考えていることは察したが、何も言わなかった。