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カルムイキア
(ニキタの一生)
ニキタの様態がおかしくなった。
下腹部が痛み、出血が始まった。母親がニキタの様態に気付き、寝床に寝かせ、茶を飲ませた。 必死でニキタの腰をさすり、呪文のような祈りをあげた。 しかし下腹の痛みは激しくなるばかりで、出血も多くなった。
ニキタは青ざめた顔で寝床から立ちあがり、砂漠の窪地に向かった。
無限の砂漠は血まみれの小さな命を吸い取った。早期流産だった。
それから数日、気が痴れたようになって床に伏せた。おばあさんがやってきた。
ニキタの手をさすりながら「カラバクはバトミに立ち寄るかもしれない」と教えてくれた。 バトミと言えば、黒海東岸、グルジアの主要な港町だ。
「バトミの港に、お前の大伯父にあたるグルコ-アリという人がいる。 今はどうなっているか分からないが、革命前には船を何隻も持っていて、かなり手広く商いをやっていた。
あの辺りではグルコ-アリと言えば知らぬ者はないほどだった。 カラバクに何かあったら大伯父に頼るよう言っておいた。 もしかしたらカラバクはバトミからそのままこっちに帰ってくるかもしれない。 ゆうべカラバクがこっちに帰ってくる夢を見た」
おばあさんの話を聞いてからニキタは元気を取り戻した。 食欲も出て、血色も戻って来た。そしてよく働いた。
それから数日後ニキタは書置きを残し、南に向かった。
「カラバクは、グダイのためには命を捨てると言っていた。 もしカラバクがバトミにいるならグダイのことを知らせよう。 カラバクならグダイを助け出してくれる」ニキタは道すがら念仏のように同じことをつぶやいていた。 同行したのはモンゴル系の小型馬だった。
南に下るにしたがって平らな砂漠から徐々に緑が現れ、はるかな山稜も見えてきた。
カルムイキアからそのまま南に下れば人里をほとんど通らずにコーカサスの壁に着く。
川の水をすくい呑み、持参した乾パン、羊の腸詰、チーズを食べた。 それから何度も川を越え、山を越えグルジアに近づいた。
気分が少しずつ晴れてきた。馬と走り、歩み、休む。心は子供の頃のように新鮮だった。 名も知らぬ果実が山道に垂れ下がる。高い山脈が行く手を阻む。コーカサス山脈の向うはグルジアだ。
山々は高く、険しく、人を寄せつけようとしない。 だが、山から落ちる清らかな流れには心が洗われる。赤い花が目に染みる。 コーカサスの峰は涼風をよび、ニキタの胸の鼓動を高鳴らせた。
同じ頃、別の場所からコーカサス山脈を見上げるカラバクとレナの目があった。
彼らはロシアの大平原を渡るとき昼間は仮眠し、夜に南進した。
飢餓の限界を超えた人々を刺激せぬよう、無用の衝突を避けて夜行を選んだ。
道中、夜の星は煌き、バトミへの道を示した。山地に入ると、さすがに人家はまばらになった。 この頃から夜行をやめ、太陽とともに行動した。
山ひだに沿って曲がりくねった登り道を進んだ。途中で鳥を撃ち、果実を採り、 ようやくコーカサス山脈の北側に着いた。目の前に3000mから4000mの山々が連なっていた。 ここから見る山々はあまりに気高く、嶮しかった。
緑は濃く、空気は澄んでいる。山の濡れた緑はレナの美しさを一層ひき立てた。
山には獲物がいた。カラバクは鳥獣の肉を十分蓄えると山越えを決めた。
グルジア軍用道路とは:
ロシアの北オセチア共和国の首都ウラジカフカスとグルジア共和国の首都トビリシを結ぶ幹線道路である。 道路が帝政ロシアによって整備されたのは19世紀。
ロシア軍のコーカサス地方への侵攻ルートとなったのが「軍用道路」と呼ばれる由来である。 因みに、ウラジカフカスとは「コーカサスを征服せよ」という意味で、 ウラジオストク「東方を征服せよ」と同様に対外侵略の重要拠点であった。
「グルジア軍用道路」は唯一無二と言っていいほど良く整備された道路だが、 カラバクやレナにとっては鬼門である。追われる身の二人は裏街道どころか人気のない獣道(けものみち)を 通らざるを得ない。
ロシアからグルジアのバトミに行くには東西に伸びるコーカサスの北壁にぶつかると、 西に進み黒海の海岸近くまで行き、そこから南に下ればよい。 しかしカラバクはコーカサス北壁から黒海に至るまでの道中が山賊の巣窟だということを良く知っていたから、 敢えて真正面のコーカサスの山越えを決めた。
馬に食料を積み、強盗の死体から剥ぎ取った襤褸を身に纏い、峰を目指して二人は歩み始めた。
一方、ニキタはコーカサス北壁の手前で西に進み、黒海の沿岸部まで出てから南下するつもりだった。 彼女が山越えをしなかったのはこの地方の状況を知らず、高い北壁に阻まれたから、 当然の成り行きとして西に曲がっただけだった。とにかく早くバトミに辿り着きたかった。
ニキタがチェルケスの山中を進んでいるとき、山賊に遭遇した。
山賊は、大抵は貧乏な山の住人で、猫の額ほどの農地を持ち、主に狩猟を生業としている。 中には「運び屋」などの流通業に携わっている者もいる。 彼らが旅人に出くわすとちょうど野鹿に出くわしたと同じ感覚で旅人を襲い、その持ち物や女を奪う。 決して旅人に敵意を持っているわけではない。貧しい山の住人の生業のひとつである。
しかし被害を受ける方はそんな呑気なことを言っておれない。 山賊は二人組で、古めかしい猟銃一本と大鉈を持っていた。 ニキタに猟銃を突きつけて「馬と一緒にわしらについて来い」という。 ニキタの体から血の気が引いた。とんでもないことになった。
暫く歩くと、そこは粗末な山小屋だった。全てが乱雑で汚かった。「入れ」という。
ニキタは観念した。ただ恐怖のためか体がほてって仕方がなかった。
「馬は貰う。お前は2〜3日、俺達と一緒に暮らせ。あとで里に返してやる」という。 ニキタは何も考えることが出来ず、ぼんやりと壁を見ていた。
彼らは遠慮も羞恥もなくニキタを順番に犯した。それぞれが何度かそれを繰返すと、 ニキタを紐で縛りつけて床に転がし、高いびきをかいて寝てしまった。
ニキタは必死でひもを外そうともがいたが、さすがに猟で食っているだけあって、 山賊どもの縛めは決して外れなかった。
ショックがひどく、思考は散り散りとなり、ニキタの頭の中では「死ぬ」と「逃げる」と いう言葉だけが回転していたが、激しい疲労のせいかニキタも知らぬ間に寝入ってしまった。
朝が来た。寒さで目が覚めた。
男達はタラムゼとオニキゼという兄弟だった。彼らは1羽の鳥を捕らえてきた。 彼らはニキタを既に「共用の女奴隷」と見做しているようだ。 ニキタの縛めを解き、「料理しろ」と鳥を投げ出す。
彼女は鳥の羽を抜き、火をおこし、塩をまぶし、焼いた。我慢が出来ないほど芳しかった。 彼らは骨ごと食べた。それぞれがニキタに小さい肉片とパン一切れを投げ与えた。 投げるタイミングが兄弟で同じだったのでニキタはおかしくなった。 ニキタがくすっと笑うのを見て、山賊たちは笑い転げた。 彼らは強い髭と鋭い目つきをしているが、ニキタには一瞬、決して本当の悪人ではなさそうに思えた。
たが、笑い転げたあと、再び昨夜の続きが始まった。
【続く】
山賊の兄弟、タラムゼとオニキゼ:
彼らにはまったく罪意識も羞恥心もないのでニキタは困惑した。
流産後それほど時間も経っておらず体が心配だったし、とにかくこんな熊どもに犯されるのは絶対いやだった。すぐに逃げ出したかったが手立てがない。
女体の性(さが)か、次第に波打ってくるものは抑えようがなかった。せめて目を閉じてグダイを想像しようと努めた。
その一方で、山賊が恵んでくれる鳥肉やパン屑、スープの残り汁は嬉しかった。久しぶりに暖かい、美味しい物を食べることが出来た。
ある日、彼らはニキタに重い足枷をはめ、二人で何かぼそぼそ語りながら出て行った。 足枷はニキタに少しだが歩行の自由を与えた。彼女の馬は既にどこかに連れて行かれてしまったようだ。辺りは森閑として生き物の気配がなかった。
グダイは死刑囚の房に入れられた。
ここでは死刑囚の数が多いので、独房という訳には行かなかった。グダイが牢に投げ込まれると、病人のように青ざめた顔をした死刑囚たちが周りに寄ってきた。彼らは一様に栄養失調の態で、隈の浮き出た目だけが異様に輝いていた。
食事は残飯を水で溶いたスープだった。彼らは各々のスープ椀に浮かぶ固形物を指先ですくい取り、グダイの椀に入れ、耳垢ほどの塩を口に含ませた。
粗末だが新入りに対する歓迎のご馳走だった。グダイは傷だらけの顔に涙をこぼした。塩がこれほど甘いものとは今まで一度も思ったことがなかった。
死刑囚にとって幸いなことは死刑執行の順番がなかなか廻ってこないことだった。役人達は個人的な報復を恐れ、死刑執行を極力先延ばしにしていた。
実際、最近エリスタの町で高官が何者かに刺し殺されたし、脅迫状も個人宅にしばしば投じられている。このような田舎では党と軍はロシアの都会ほどには強くなかった。 死刑囚にとって不幸なことは栄養失調や疫病で死亡する者が多いことだった。
ひとりの古株が目をしばつかせ、グダイの耳元でつぶやいた。「ここで生き残るためには無駄な消耗はせぬことだ。ここは体力の勝負だ」
そういう彼自身明日には死にそうなほど消耗していた。顔は骸骨そのものだった。死ぬ者は大抵、最期に水を欲しがった。病人が「水、水」と言い出したら、大抵、そいつはもうお仕舞いだった。グダイは狩猟を通じて体力を消耗しない要領を会得していた。 狩猟の基本は「待ち」である。「待ち」で大事なことは呼吸を整え気配を消すこと、つまり自らを冬眠に近い状態に置くことだ。実際、気配を消すと体温が低下する。これは体力温存の最善の方法でもある。
彼は寝台のうえで目を閉じたまま考えた。「俺は何としても生き抜く。生き抜いてこの国をロシアから開放してみせる」
最近、エリスタでも空気はしだいに涼しくなってきた。
痛みは続いていたが、死刑と決まった今、これ以上拷問はないことがグダイを安らかな眠りにつかせた。実際、気の強いグダイにさえ死より拷問の方が恐ろしかった。死刑囚は皆拷問を受けた者にしかその恐怖は分からないという。グダイはその通りだと思った。
明け方に色々な夢を見たが、夢の中でグダイはニキタを見た。ロシアの憲兵に強引に手を引かれ、どこかに連れ去られるところだった。彼女は一瞬こちらを振り向いた。その黒い目がグダイの脳裏に焼き付いて消えなかった。
目覚めたとき、ニキタのことがしきりに気に掛かった。「ニキタ、じっと待っていてくれ。何があっても生きていてくれ」グダイに激しい焦燥感に囚われた。