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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
五十二

レナは虚空から地上に目を戻し、ニキタを見た。
ああ、そうだ、ニキタにカラバクの言葉を伝えなくっちゃ。 「ニキタ、カラバクがニキタに伝えてくれって言っていた。 『我が大地を守れ、水を引き、砂漠を緑に.. 』これが彼の死際の言葉だった.. 」
「兄がそう言ったのね。ありがとう。胸の中に大事にしまっておく」

人々は東に向かって進み、石がごろごろ転がっている乾いた河原(ワジ)を歩いていた。 ニキタはリタを抱いて群集の中にいた。そばにはグダイもレナもいる。だが、ニキタの心は暗かった。 この先どこに行くのか、船に乗るのか、船はあるのか、食べる物はあるのか、寝る場所はあるのか、 考えれば考えるほど不安が募る。まだ見ぬカスピの海だけが心の救いだった。
ニキタは手をかざして、地平線の彼方に目を遣った。前方でいきなり砂埃が舞い上がり、 犬が吠え、リタが泣きだした。
そのときだった。地に身を伏せて、群集の接近を待ち構えていた歩兵の大部隊が一斉に立ちあがって猛射を始めた。 顔のない兵士達は相手を選ばなかった。
轟音と叫び声、埃と血、あたりは瞬時に地獄絵図となった。
レナが崩れ、グダイが倒れた。グダイは倒れながら、ニキタを助けようと必死で彼女を突き倒した。 無数の流弾がニキタの頭上を掠めていった。
グダイは空を睨んだまま口から血を吐いていた。レナは死の淵で夫カラバクに会えたのだろうか、 その死に顔には微笑みが浮かんでいた。
ニキタは転倒した拍子に後頭部を強く打った。あとは何も分からない。

気がついた時、ニキタは軍用列車に乗っていた。
なぜ汽車に乗っているのか。今日がいつなのかさえ分からない。
時々、夢を見ているようにフラッシュバックが起こる。女子供が顔のないソ連兵に引き立てられている。 自分が散々に殴られている。男がのしかかかって来る。グダイだと思う、記憶が霞む..
汽車はシベリアに向かっている。強制収容所に送られる。
「グダイと一緒だから楽しい。これからグダイとずっと一緒だ。 さあカラバク、レナ、リタも元気を出して... 」
傍にいる中年の女は「またこの娘がおかしなことを言いだした。 まあ、その方が幸せだろうが」と溜め息をつく。
ニキタはシベリアについて鉄道建設に従事させられた。 鉄道建設と言っても土運びだった。独り言が多かった。「グダイ、おなかすいたでしょ。 私のパンを少し分けてあげる」と言って、そばにいる男にパンを半分にちぎって渡す。
看守がニキタに手を出すこともあった。ニキタがその男をグダイと思い込んでいるうちは問題なかったが、 グダイではないと知ると半狂乱となって騒ぎ出した。 結局、保身を旨とする看守たちは皆、ニキタから手を引くことになった。

それから何年かが経って、スターリンの時代が来て、ドイツとの戦争が終わった。 また多くのカルムイキア人がシベリアなど遠隔地に流された。
ソ連を裏切った罰だという。もうニキタは若くなかった。ボルガ河とドン河を繋ぐ工事が急ピッチでなされた。 寒い時期、ニキタたちは列車でシベリアからボルガ=ドンの工事現場に移送された。
彼女は、またグダイと一緒に溝掘り作業が出来るのが嬉しかった。 今度は昔と違って工事の規模も大きいし、人も驚くほどたくさんいた。
レナ、カラバク、アクシビリ、山賊兄弟..  みんな元気で頑張っている。みんな若くて、陽気だ。リタもそばにいる。
ニキタは口ずさんだ。「みんなと一緒にヨイショ、グダイと一緒にヨイコラショ。 掘った土はカマスに入れて、グダイと一緒にヨイコラショ、緑の砂漠、我が大地.. 」
強制労働をさせられている囚人たちは「あのおばさん、幸せだよな」と悲しそうな顔をした。 1952年、ボルガ−ドン運河は完成した。全長102kmの広大な運河で、二つの大河を結び、 黒海とカスピの二つの大海を結ぶ。
5000トン級の大型船舶の航行が可能となった。
両河から水が放たれた。空掘りの水位はしだいに上がって行った。
水位の上昇とともに補修作業が行なわれた。水が入るとその圧力で軟弱な箇所は凹んだり、決壊したりする。 少しずつ水を入れ、点検と補修を行ったうえで、更に水を入れていく。かなりの時間がかかったが、 最後に運河は水で満たされた。みんな喜び、手を振ったり、踊ったり、乾杯をしたり..
ひとり、ニキタは運河の水面を見ていたが「違う。砂漠に水が行かない。 緑の砂漠はどこ。これは違う」と叫んだ。それから数日、ニキタは運河のほとりをぶらついていた。 その後、誰も気づかぬうちに工事現場のバラックから消えていた。 西日に照りかえる運河の水面に50歳過ぎの女性が浮いていた。 工事の途中での「転落事故」として処理された。運河には大型船が蒸気を吐いて航行していた。
伽耶雅人作    
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著者後書
カルムイキア人形 この小説のオリジナル(原文)を書いたのはモスクワ駐在中(2000年頃)のことだった。 地方出張のため空港に行くと、しばしばDELAYで何時間も待たされる。 話す相手もなく、徒然なるままに筆を執ることとなった。
雑で荒削りだったが、その原文をプリントして現地雇用の女性スタッフに見せたところ、 「ロシア語に翻訳したいが、いいか」というので、勿論OKと答えた。
暫く経って、彼女から「日本−カルムイキア協会(モスクワ)からの記念品です」と素朴なカルムイキア人形を 頂戴した。こんな嬉しいこと後にも先にもこれ一度きりだった。もう10年も昔の話だが。
 
 
 
 
 
 
 
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