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カルムイキア
(ニキタの一生)
少し後戻りするが − カラバクがチェチェン・グデルメスの淫売窟からニキタを救出していた頃、 先にカルムイキアに到着したレナ達の本隊は町から20kmほど離れた山影にキャンプを設営した。
数日間、首都の動きを調べた結果、最近、エリスタの刑務所内で頻繁に銃殺が行なわれているということが 分かった。カラバクの到着を待つことになっているが、急がねば、グダイも銃殺されてしまう。
レナはよれよれの襤褸を身にまとい、前回、脱獄した仲間に教えられた「連絡場所」に向かった。 狭い通りが迷路になったスラム街の一角だった。
物乞いの老婆に小銭を渡し「ケバブの売り場はどこか」と訊いた。
老婆は一瞬レナに鋭い眼差しを向けたが、「明日、同じ時間にここに来い」という。
翌日、レナは同じ格好で同じ時間にスラム街にやって来た。
指定された場所の1ブロックほど手前で、家と家の間の小さな隙間から「同志!」と彼女に呼び掛ける声がした。 「危険」と思ったが、賭けるしかない。
彼女は振り向いた。声の主は「その帽子を脱いで顔を見せてくれ」という。
彼女は帽子を取った。金色の髪がほどけた。
「レナだろう。君に会えて嬉しい。元気だったかね」
そこにはレナが尊敬した老革命家エルダールが立っていた。レナは嬉しさのあまり、 痩せこけた老エルダールに飛びつき、体がへし折れるほど抱き締めた。
エルダールは元のアジトから少し離れた新しい隠れ家にレナを案内した。
「お前さんが刑務所のわしのところに飛び込んできて、同志カラバクを救いたいから、 アジトを教えろと言われたときは、罠かと思って疑ったもんじゃ。 しかしこんなに澄んだ目をした人が罠を仕掛けるとは思えんでの。 まあ、ひとつ賭けてみようかと思うてアジトを教えた。お蔭でわしも脱獄することが出来て、 今はここで地下活動をやっておるんじゃが。しかし、お前さんも度胸が座っておるな。よくここまで来てくれた。 ところで、今度も誰かの脱獄を考えているんかの」
レナは顔を赤らめ「実は、あの、同志カラバクは今は私の夫です。 その夫を助けてくれた義弟のグダイが逮捕され、いつ銃殺されるか分からない状態なのです」という。
「そうか。そういうことなら、わしもそのグダイに助けてもらったわけじゃな。ならば一肌脱がにゃなるまいて」
「ありがとうございます。ところで、今度は50名ほどの騎馬隊も支援してくれることになりましたので、 まず政治囚全員を救出してと思っています。かなり大規模になると思います。 これを成功させるためには多くの仲間との連携が必要になります。 同志エルダール、ご協力いただけるでしょうか」
「それはこちらとしても願ってもないことじゃ。しかし50の騎馬兵とは恐れ入ったもんじゃ。 日取りが決まったら前日に知らせくれ。お恥ずかしいことじゃが、情報漏れの危険があるんでな。 わしは当日に協力者たちに決行を連絡をすることにする。
もちろん事前にある程度は下ごしらえしておく。いずれにせよ、出来るだけ多くの者を動員することにしよう。 ところで、あんたは『先ず政治囚全員の救出』と仰ったが、『先ず』のあとは何をお考えておられるんじゃ。 よければ話してもらえんかの。歳をとると色々なことに興味が湧いての、まあ持病じゃが」 レナとエルダールは夜遅くまで語りあった。
グデルメスからカルムイキアへの道中、ニキタは必死で祈った。 グダイのためなら自分の命と引き換えにしてもいいと仏陀に祈った。 彼女は仏陀が「取引」に応じるわけがないことは分かっていた。 人を殺めた自分には仏陀に祈る資格さえないことも知っていた。 それでも祈った。祈るしかなかった。
カラバク、ニキタの一隊がエリスタ郊外に到着して本隊と合流すると、 いよいよ刑務所襲撃(破獄)の計画が動き出した。まず、エルダールのもとに「明朝4時」との伝令が走った。 そして日が沈むと、カラバクの隊はエリスタ向けて発進した。
夜のうちに刑務所近くまで運んできた砲車を一番高い見張り搭の機銃に向けた。
朝が白けるのを待った。春近くになり、4時は朝が白ける時間だった。
4時きっかりに砲車が刑務所前面の見張り搭を破壊し、すぐさま砲を回頭して、正門を砲撃、破壊した。 刑務所の廻りの電信線は切断された。カラバクは「もし刑務所内から鳥が飛び立てば、必ず撃ち落とせ」と 指示した。敵が伝書鳩を使う可能性もあった。
これで一応、刑務所は孤立させた。もう一発、本館に砲弾をぶち込み、降伏を促した。
カラバクが正門前に立ち大声で叫んだ。「我々はこの刑務所を完全に包囲した。 外部との連絡も遮断した。我々の要求は政治囚全員の解放だ。貴我ともにこれ以上の犠牲を出さぬよう降伏を 勧告する。降伏した者の生命の安全は保障する。三分以内に白旗降伏されたい。 さもなくば徹底的な攻撃を開始する」
降伏勧告に対しての回答は沈黙だった。
沈黙のあと、刑務所内から空に向けて赤色花火が何発か打ち上げられた。
エリスタの軍や党にSOS(救助信号)を発信したようだ。
「仕方がない。殺し合いだな。砲車は回頭して赤軍の来襲に備えよ。機銃隊は前進。 攻撃開始!」
敵側からも銃弾が飛来し始めた。味方の銃撃は敵の火線に集中する。
10分ほどで敵の反撃が静まった。何と言っても刑務所の看守程度では本物の戦争屋に歯が立つわけがない。 あとで言い訳が立つようにすこし抵抗して、軍の救援を待つのが関の山だった。
カラバクの兵とパルチザン(武装抵抗集団)は雪崩れ打って所内に突入した。看守達は抵抗を止めた。 こういう状況で一人でもパルチザンを殺せば、どんなリンチを受けるか分かったものではなかった。
ひとり、所長のモロゾフが残った機銃座に陣取り、反抗を続けている。
しかし、彼は機関銃には射手のほかに装填手が必要なことを忘れていた。
最初の数発はうまく発射されたが、すぐに弾帯が縺(もつ)れてしまい、二進(にっち)も三進(さっち)も 行かなくなってしまった。そこにパルチザンが押しかけ、家族を銃殺された者たちがモロゾフを殴り、 蹴り、棒で突き、殺してしまった。パルチザンの中には女子供も多かった。
叫び声、馬のいななき、砂塵の中でニキタはグダイを探した。
グダイはひっそりと佇む死刑囚房におり、皆と同様に幽霊のような顔をしていた。
ニキタは躓きながら、必死でグダイに駆け寄った。グダイを抱いた。軽かった。骨と皮の干物のようだった。
ニキタはグダイにキスの雨を降らせた。グダイの顔はかなり破壊され、傷跡が生々しかった。 よく生き延びたものだ、と思えるほど全身に水気がなかった。
カラバクがやって来た。「本当に大変だったな。よく生きていてくれた。ありがとう。 これからはみんなで助け合い、ここにすばらしい国を創って行こうな、グダイ」と手を握り締めた。
グダイがその干からびた口から発した最初の言葉は「ロシア人を叩き出せ」だった。
エリスタの共産党政治局長スネコフに刑務所の赤色花火の通報が届いたのは朝の5時過ぎだった。 彼は直ちに政治局に走り、エリスタ駐屯軍に攻撃指示を出した。
ロシア軍は伝統的に小回りが利かない。「監獄内の敵を殲滅せよ」という命令が出ると、中に看守がいようと、 女子供がいようと関係なしに殺戮する。政治局長スネコフひとりが特別ではなかった。 こういう事態はロシアとソ連のすべての時代に共通した現象だった。いまでもハイジャックが起きると、 ハイジャッカーとともに飛行機の乗客全員が機動隊の攻撃に晒される。テロリストが劇場を占拠すると、 FSB(連邦保安庁)はテロリスト、観客の見境なく皆殺しにしてしまう。
いずれにせよ、優勢な赤軍のエリスタ駐屯軍が刑務所を目がけて押し寄せて来た。
攻めるスネコフも必死だった。 去年の脱獄事件に引き続いてこの事件ゆえ、失敗は自分の命取りとなる。
ニキタはグダイに水とミルク粥を食べさせながら、涙ばかりこぼしていた。
グダイは無口だった。外ではエリスタ駐屯軍が刑務所を目掛けて押し寄せてくるという噂が立ち(本当の噂だが) 騒ぎが起こっていた。囚人とパルチザンの一部は浮き足立ち、刑務所から逃げ出すものもいた。 相手が駐屯軍となれば看守相手の「破獄」とはスケールの違う本格的な「戦争」となる。
パルチザンの幹部が説いて回る。「逃げるな。逃げれば脱獄者として捕らえられ、銃殺されるぞ。 虫けらのように踏み潰されるぞ。皆、逃げず闘え!」
カラバクも大声で呼び掛ける。「皆、聞いてくれ。ここには武器や食糧も十分ある。 ともに戦おう。生き抜いて、ここに我々の国を創ろう。この大地は我々のものだ.. 」
ニキタには遠くから聞こえてくる兄カラバクの言葉に光が見えたような気がした。
「..ともに戦おう、この大地を守れ。生き抜いて、明日は銃を鍬に変え、水を引いて、田畑を耕そう。 ここに百姓と羊飼いの国を創ろう.. 」
外が人馬と砂埃に沸き立っているとき、死刑囚房の中でニキタを見つめるグダイは無口だった。 彼はニキタを見て「何か違う」と感じた。
・・・ ニキタは顔色も悪くないし、肉付きもちゃんとしている。とても美しく愛らしい。
何もおかしいはずない。でも、何か違う。何か変だ.. ああ、そうか、そうなのだ。
俺は襤褸をまとって、やつれ果てたニキタを想像して、いつもそれを追い求めていた。 目の前のニキタがそれと違うから、おかしいと思ったのだ。 長い間、牢にいて俺の精神状態がおかしくなっていたのだ。おかしいと思うほうがおかしいのだ。
これが現実のニキタだ ・・・
グダイはニキタの肩に手を伸ばした。ニキタはびくっと体を震わせた。
「グダイ、いま言っておくことがあるの」という。それだけ聞いて、グダイの痩せた顔から血の気が失せた。
彼はかすれた声で「やはり、そうか。尋問官が言った男友達というのは本当だったのか」と呟いた。 「長く別れていたから、仕方ないことだな」
「そんなんじゃないの。あたしは兄さんにあなたを牢から助けて出してもらおうと思ってバトミに走る途中、 山賊に誘拐されて.. 」涙が流れ、声が震える「売春宿に売り飛ばされたの..」 顔を下に向けたまま、涙は床を濡らす。
「数えきれないほど、男とやらされた。死にたかった。 でもグダイのことを、カラバクに知らせるまでは死ねないと思った」
幽霊のようなグダイの顔に赤みが注してきた「なんだ、そうだったのか。それならいい。 虫に刺されたと思えばいい。そんなことで、お前に死なれては元も子もないよ。 お前がいなくては俺は生きてゆけない」
「でも、感じまいと努力しても体が反応するの。心が麻痺するくらい感じてしまう。 足がからみつき、手が男を抱きしめてしまう。私は淫らな女。グダイにはふさわしくない。 今やっと目的を果たしたので、消えて行くわ。許してね」
「過去を全部忘れろ。女の体はそんなふうに作られていると聞いたことがある。 考えて見ろ、足の裏をそっと触られたら我慢出来なくなるほどくすぐったくなるだろう。 足の裏をくすぐられて笑ったからと言って、笑った者に罪があるわけないだろう」グダイはあらん限りの頭脳を 働かせてニキタの説得に努めた。地獄の中で生き残って、やっと会えた。 もう絶対にニキタを手離したくない。
「頼む、俺の傍にいてくれ。お前がいないと俺は生きてゆけない。ニキタ、過去は忘れよう。 傍にいてくれ」声がむせて、ごほごほと咳き込んだ。ニキタにはグダイの気持ちが痛いほど響いた。 (まだ私を愛してくれている)
「有難う。分かったわ。あなたが私を必要とする限り傍にいて、あなたに尽くすわ。 あなたの為ならどんなことだってする。いままで生きていてよかった」
カラバクは騎馬隊を二つに分けた。
自分は10騎の隊長となり、残りは全員アクシビリに預けた。
アクシビリには敵の弱点に波状牽制をかけるよう指示した。彼は「例の虚仮おどしですね」と念を押した。 自軍を実体の5倍か10倍の大軍に見せかける。敵を混乱に落し入れる。 高度の情報力、判断力、機動力が求められる。
「今の段階では牽制に力点をおいて、攻撃は手控えろ。我が軍の犠牲は極力抑えろ」 「了解。アクシビリ隊、早速発進します。カラバク隊長、お達者で!」