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カルムイキア
(ニキタの一生)
ロシアの周辺部、特に南東の中央アジアにはイスラム系の雑多な民族が入り乱れており、 ソビエト政権はこの地域に厳しい監視の目を光らせた。 この地域は昔からイギリスを始めとする西欧列強の狙い目であり、ロシアにとっては死守すべき防波堤であった。
この地域(中央アジア諸国)とは具体的にはカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、 タジキスタン、キルギスタンの5カ国だが、カルムイキアはそういう国々への通過点の一つであった。
カルムイキアは面積こそ広いが、民族としては取るに足らぬほど小さく、強力な党組織や軍隊を送るべくもない と見做され(実際その余力もなかったが)あり合わせのものを送り込んできた。
それと直接関係あるかどうかは不明だが、すぐに問題が起こった。
自尊心の高い遊牧民は社会主義というよりロシア人の支配を嫌った。 その発端はロシアの歩兵小隊がつくった。
徴兵され、まともな訓練も受けていない若年兵たちだった。 彼らは行進中、羊の群れを見つけた。 半年以上も干からびた薄肉しか食べていない兵は新鮮な肉が食べたいと思った。
一人が羊をめがけて発砲すると、それが連鎖反応を起こした。数頭が犠牲になった。 銃声を聞いて駆けつけた農夫は倒れた羊を見るなり、顔を引き攣らせ、体を震わせた。 言葉にならぬ言葉を発しながら、短刀を抜いて歩兵におどりかかった。
兵たちはそのとき始めて大変な事をしでかしたと気づいたが、 狂気の男に発砲しないだけの度胸を持ち合わせていなかった。兵たちの銃が火を吹いた。
哀れな農夫は短刀を握ったままその場に倒れた。
近くにいた息子はあっけに取られ、しばらく茫然としていたが、 死体にかけ寄ると泣きながら父親を何度も何度も揺すった。だが父親が再び起き上がることはなかった。
息子は恐ろしい形相で兵達を睨みつけると、ひくひくしながら部落に駆け戻った。 部落に着くさま「ロシア人がおとうを殺した」と泣き叫んだ。
部落の皆が手に金物や蛮刀を持ってその場に駆けつけた。
ロシア兵は銃を構えて一塊になっていた。少年の泣き声の中で沈黙の睨み合いが続いた。 兵たちは無限に続く泣き声と睨みあいに堪え切れなくなくなった。 彼らは銃を構えたまま、「いつでも撃つぞ」という顔つきをして後ろずさりに退却していった。
そのあと、殺された農夫の女房がやって来たが、あわれな夫の姿を見るとそのまま卒倒してしまった。
それから数日して3人のロシア人歩兵がパトロール中に刺し殺され、 首があの農夫が殺された場所に並べられた。
エリスタの政治局はこれを社会主義政権に対する明らかな敵対行為と見做した。
新政権の反応は以前のものとは違っていた。
ロシアの皇帝政府は徴兵忌避者が山中に逃げるのさえ大目に見た。
勿論、思い出したように彼らの隠れ家を襲い、見せしめの晒し首はやっていたが。 今から見るとかなり甘かった。
新政権は自らの威信にかけて反抗は絶対に許さず、弾圧するとなったら徹底的にやった。
事件のあった部落の周囲は兵で固められた。まず、大砲が崩れかかった家々を吹き飛ばす。 機関銃が唸り声をあげる。銃剣を構えた歩兵が部落に突入。一方的な戦いだった。
死体は転がったまま放置され、蝿がたかった。
ニキタは思い悩んでいた。夫は兄と楽しそうにしている自分に厭な顔をする。
口には出さないがグダイの顔つきで自分には分かる。 兄だからと思っていたが、グダイからすれば決してそうではないようだ。 男と女の関係はそう単純ではないのか。自分が兄から遠ざかった方がよいかもしれない。
あれこれ思いあぐねている最中に新しい事態が生じた。 ヤシクリの近くの部落でロシア兵による虐殺事件が起きたという噂が伝わってきた。 兄のことは別にしても、ここに残っていてはロシア人を憎んでいるグダイは暴発する。
ニキタはあれこれ思い悩んだ末、まだ時期は早いが親に頼んで遊牧に出ることにした。 「用事を済ませたらすぐに追いつく」というカラバクを残してニキタの一家は旅に出た。 グダイは「道中で狩りが出来る」と喜び、矢作りに熱中している。
ニキタはそんなグダイが可愛くてたまらなかった。「兄に嫉妬するなんてお馬鹿さん!」
彼女は冷たい川で体を洗いながら深いため息をついた。お腹に子供が出来たようだ。 掌を合わせ仏陀に喜びを伝えた。
カラバクは共産主義を信奉し、共産主義者は「弱い者の味方」というその精神を愛した。
それゆえに共産主義者による不正義は絶対に許せなかった。 彼はエリスタまで馬を飛ばし、カルムイキア共産党政治局に向かった。それは町の中心部に位置していた。 政治局の建物は最新鋭の機関銃と銃剣を持った「赤衛兵」が固めており、 許可証を持たない者は中に入れない。
カラバクは仕方なく赤い星の形をした赤軍栄誉勲章と証明書を提示した。
「カラバク騎馬隊」はこの地では伝説になっていた。そのカラバク本人が目の前にいる。 赤衛兵は緊張して最敬礼すると、石のようにぎこちなく歩き、先導した。 白い制服は汗びっしょりになっていた。
会議室に案内された。カラバクは政治局の幹部達の挨拶を受けた。
彼らは南部戦線の武勇伝が聞けると思い、期待に胸を弾ませた。 色々な部署から20人近くが集まってきた。ロシア人が半数以上、残りはカルムイキア人。
女性も3人ほどいた。皆、にこやかだった。
ところが、彼らの期待に反してカラバクはいきなりヤシクリ東部の部落での虐殺事件を持ち出した。
これを社会主義政権にあるまじき蛮行だと非難した。 「我々は何のために革命したのか。何のために多くの血を流したのか。世の不正をただすためではなかったのか。 心ない者たちの蛮行は直ちに公にし、被害者に対する謝罪と補償をしなければならない」と。
これを聞いて、皆、表情を変えた。
政治局長スネコフが「場所を変えて話し合おう」と止めに入ったが、 カラバクは構わず「君らはこの国に何をしに来たのか。共産主義の理想に泥を塗り、人民を敵に廻すつもりか。 今回の事件の責任は未熟な歩兵小隊ではなく、事後に部落の皆殺しを命令した政治局にある」と声をあらげた。
自分がこれほどストレートに目の前の犯罪者を糾弾したのは生まれて初めて、 自分自身にも意外なほど攻撃的だった。今までの不正に対する憤りが爆発したのだろう。 空気は凍った。スネコフが「衛兵!この反革命分子を取り押さえろ。訊問官に背後関係を洗わせろ」と 言うなり席を蹴って出て行った。二人の衛兵がかけよりカラバクの両腕を掴み取った。 スネコフに続いて他の者も無言で会議室から出て行った。
最後になった女性だけがカラバクに向かって小さく頭を下げた。名をレナというロシア人だった。
状況は変わっても、理想を心に燃やしつづける共産党員はいた。
レナもそのひとりだった。彼女は思った。 革命前、共産党員は皆、ロシア政府から追及を受ける「犯罪者」だった。 弱く、貧しい人々の味方だった。革命が成ると、組織も人も自己保存のために変質してしまった。 レナはカラバクを見た瞬間、この人は本物だと思った。
同志カラバクのためになんとかしたい。たとえ裏切り者のレッテルを貼られても。レナの心は燃えた。
カラバクの逮捕を知らず、ニキタたち家族は緑まばらな砂漠での遊牧を続けている。 宵の宴。月の明かり。満天の星。カラバクを想う母が歌う。
体にグルジアの血が流れる母の歌、ずっとずっと向うの黒海沿岸地方の歌。
「お前は港を離れた孤り舟。私は港。港は遠くで、お前を見つめるだけ。
いつか海が荒れたら帰っておいで。その時は冷えた体を暖めてあげよう」
目の前の砂漠がはるかな海に見えてくる。ニキタは母の歌を聞きつつカラバクを想う。
兄が陽気に語ってくれた共産主義のことは暫く心から離れていたけど、今宵はなぜか鮮明に思い出される。
資本主義とか、搾取などはよく分からないけど皆が助け合って働く明るい社会。
働くもの、貧しいもの、虐げられたものが国の主人。皆が作り、皆が分け合う。 誰もが無料で医療や教育を受ける。胸のすく思い。近いうちにそうなるという。
兄からもう少し話しを聞きたい。
政治局長スネコフはエリスタ共産党の拡大評議会を召集した。
スネコフは昔からの共産党員で、多くの修羅場を踏んできている。
別の政治局員に「同志カラバクの赤軍栄誉勲章剥奪に関する緊急動議」なるものを提出させた。
スネコフが立ち上がり「親愛なる共産党および赤軍の同志諸君、 諸君も御存知の通り今や新生ソビエト政権は世界の帝国主義列強に包囲され、存亡の危機に立っております。 ヤシクリ東方部落の騒乱は事件としては小規模ではあるが、ソビエト政権にとっては重大な問題を孕んでおる。 諸君はソビエトを愛していますか」
彼は聴衆の「そうだ!」「異議なし!」の反応を待ち、悠然と頷いて演説を続けた。 「諸君の愛すべきソビエトはまだ若く壊れやすい。どんな小さなひびでもすぐにその体を蝕んでゆき、 それを死に至らしめる。諸君、ともに戦おうではないか!」よく通る低い声で訴えた。満場の拍手を受けた。
スネコフの演説を引き継ぐ形でカルムイキア赤軍指令官のゾロトフが立ち上がり、カラバクを告発する。 「干渉戦争から一旦手を引いた世界の列強は、現在、ソ連の内部に癌を植えつけようと企んでいる。 カラバクはその手先だ。彼は南部戦線の英雄と言われているが、その裏で敵と取引をし、敵に投降した。 ここにカラバクが帝国主義者と取引をした証拠をお見せする。諸君の目前にあるのはイギリスの紙幣だ。 これは彼のズボンの裏ポケットに隠されていたものだ。ソ連の貨幣にして1500ルーブルに相当するものだ。
次にイギリス紙幣の所持について担当訊問官の証言を...」
結局、カラバクは栄誉勲章を剥奪された。しかもこの場で出席者の圧倒的な拍手で死刑が宣告された。
「カラバク逮捕さる」の報は3日後には遊牧中のニキタの一家にも伝えられた。
母親は気が狂ったようになった。ニキタはカラバクを残して旅に出たのを後悔した。
みんなが暗く沈んだ。おじいさんが呆けたように胡弓を弾いている。
グダイはみんなから離れて棘々草を見つめていた。
彼はカラバクを見直した。「かれこそ本物のカルムイクだった。 俺は自分の命を賭けても俺の兄を救わねばならない」と心に決めた。
ニキタは夜ふたりだけになったら、グダイに赤ちゃんが出来たことを告げるつもりだった。 だがその前にグダイは愛馬とともに消えていた。狩猟のために用意した全ての矢を持って。 ニキタは胸を痛めた。一人で暴れまわっても埒があかない。
グダイも同じとき、同じことを考えていた。ロシア人の4〜5人を殺してもカラバクを助けることはおぼつかない。情報を集めるとか組織と連携するなどは自分には苦手だが、そうは言っておれない。 グダイは先ずヤシクリに入ることにした。ヤシクリに着くと以前世話になったバザールの肉屋ラシドをさがした。
ラシドが陣取っていた場所には小太りの中年女性が蜜棒のようなものを売っていた。
「ラシドの知り合いだが、彼が今どこにいるか知らないか」
「ラシド、ラシドと気安く呼ばないでほしいね。ラシドは私の大事な良人だよ。 あんたはだれさ。警察や憲兵の手先なら帰っておくれ。話す事などないね」
「俺は、山から獲ってきた山羊の肉と交換に羊をもらっていたグダイという男だ。 警察や憲兵の手先ではない。この顔と身なりを見れば分かるだろ」
「いまどき顔や身なりじゃ信用できないね。あんた、野生の山羊を捕まえたというけど、 まずその証拠をお見せでないか」
グダイは腐ったトマトを取って、バザール裏の空き地に出た。
ラシドの女房に「このトマトを思い切り向うに投げてくれ」という。
女房はトマトを思い切り投げた。それをグダイの矢が追いかけ、喰らいついた。
よほどの腕がなければ、飛んでいる物を弓矢で射落とすことは出来ない。