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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
四十九

この大軍をすり抜けてモスクワに行くわけには行かない。
まずこの大部隊の進軍を停止させねばならない。カラバクはバイラム、 イルガルとともに西方レモント1万の大軍を目指して山を駆け下った。 中腹まで下ったあたりで砲弾が飛来した。
ドシーンと地を揺らす。ソ連の大軍はカラバクたちの存在に気づいたようだ。 カラバクはイルガルに手旗信号で「交渉に来た」と伝えるよう指示した。
イルガルはカラバクに言われた通りに赤・白の手旗を振る。そして、同じ内容を必死に数回繰り返した。
これに対しての答えは更に近い距離での着弾だった。耳をつんざく轟音とともに、大量の土砂が舞い散る。 さらに、敵の砲煙の近くから線香花火のような煌めきとともにパチパチという射撃音が聞こえてきた。
カラバクは「『攻撃を止めよ、話し合いたい』と、もういちど手旗を振れ」と叫ぶ。
その手旗に対し、砲煙、着弾音、線香花火のパチパチ音は勢いを増して来た。
イルガルが倒れた。カラバクはイルガルの首に手を当てたが脈はない。 銃弾が胸を貫通している。「いかん。バイラム、エリスタに戻って、皆に緊急避難させよう」
夜まで待って、ソ連兵にまぎれてしまうという方法もあるが、今は味方に大軍の出現を急報することが最優先だ。 この分では明日か、おそくとも明後日にはエリスタを襲うだろう。 追撃を受けることを覚悟で、エリスタに向かって突っ走ることにした。
「いいか、バイラム、遅れを取るな。替え馬は置いておけ。続け、まっすぐ東に向かう!」
カラバクとバイラムの二人に対し西のレモントから30騎ほどの騎馬隊が追撃を始めた。 ソ連軍はカラバクたちを発見した段階でカラバクたちの動きを読んでいた。
西のレモントからの射砲撃が始まった頃、南斜面のカルモボからは50騎ほどの騎馬隊が既に北東に向かって 動いていた。
カラバクとバイラムが東に向かって走り始めた時には南からの騎馬隊は二人の動きを封じるべく北北東、 凡そ1時の方向に追いあげてきた。つまり、行く手の東側を塞いで、 二人を追撃隊のいる西方向に追い込もうという作戦だ。
「やばい。こいつら相当出来る。前を塞がれては駄目だ。後ろから来る追撃隊に捕捉されてしまう」
カラバクは叫んだ「あくまで東に進め。南の敵とぶつかっても突き切って逃げろ!」
南からの敵騎馬隊がさらに迫いあげて来た。バイラムはしだいに北に寄って行く。
カラバクはバイラムが北に寄せていくのをくい止めようと左横に出て、右への追い込みをかけたが、 恐怖に駆られたバイラムは言うことを聴かなかった。
彼にはカラバクが大軍の敵に向かって進んで行くように見え、目前の恐怖に打ち勝てなかった。 つまり、北方向に進み、更に西に追い込まれて行った。
ちょうど魚が網の中に追い込まれるように、どんどんと挟撃陣に追い込まれて行った。 バイラムはもう救えない。
カラバクは行く手を塞ごうとする敵を右に見ながら愛馬ドンに鞭を入れ、彼らの前方をすり抜けた。 今度は10騎ほどが西の追撃隊から抜け出て、カラバクを追いはじめた。
騎馬隊中、精鋭の10騎だろう。その動きには淀みがなく見事なものだった。 一方、カラバクも一人になると、逃走はかなり楽になった。
後方から敵の射撃音が聞こえて来るが、乗馬のままの射撃は難しい。なかなか命中するものではない。 カラバクはひるまずドンを疾駆させた。
騎手にとっては馬上で銃を構え、射撃に身を入れる分だけ、前方の敵との距離を広げることになる。 つまりカラバクは結果として、それだけ追撃隊から遠のくことが出来た。 「俺は何としても逃げ切って、エリスタに急報する」
一刻も早く、一人でも多くのカルムイキア人を避難させねばならない。
愛馬ドンも汗をかき、口から泡を飛ばしはじめた。
「お前がばてたら、お仕舞いだ。ドン、もう少しだ、頑張ってくれ」
頭上をひゅんひゅんと銃弾が飛んで行く。「あいつらはよほど鍛えられているな。 このままでは、エリスタの中心地に着くまでに俺は奴らにやられてしまいそうだ」
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五十

そのとき、ビシッと後方から脇腹に敵弾が命中した。
もの凄く熱い。真っ赤に焼けた火箸を脇腹に刺し込まれたようだった。 体は前に押し倒されそうになった。脇腹に手をあてると、上衣が血で濡れていた。
このままでは出血多量で死ぬ。その前に気を失ってしまう。だが馬を止めるわけにはいかない。 「もうエリスタはあきらめる。せめて我が家まで頑張ろう。ドン、頼むぞ」
乾いて固い土地に銃弾があたると、プイーンと唸り声をあげて弾かれる。 着弾音がカラバクに近づいてくる。「ドン、お前もマリーに会いたかろう。 俺を急いでレナのところに運んでくれ」とカラバクは痛みに堪えながら、 ありったけの力をふりしぼって鞭を入れた。
部落が見えてきた。林檎の木が見える。マリーがいる。
「ドン、行け!」
ドンは愛するマリーをめがけて突進した。ちょうど家の前に出たとき、カラバクは思いっきり手綱を引いた。 ドンは急に立ち止まろうとする。砂埃が立つ。 カラバクの体は馬の背から転げ落ち、砂利の道を転がった。
レナが駆け寄ってきた。
カラバクは仰向けになり「レナ、よく聴け。他人のふりをしろ。評議会に伝えろ。レモントに1万、 カルモボに2万弱。今日の午後2時、エリスタ向け進軍中だ。明日、遅くともあさってには本軍は エリスタに到着する。非戦闘員の退避を急げ。抱き起こすな。他人のふりをしろ。俺から離れろ。 お前を愛している。レナ、今まで、ありがとう。幸せだった。もし、ニキタに会えたら、伝えてくれ。 我が大地を守れ、水を引き、砂漠を緑に.. 」
10人の騎馬兵が押しかけてきた。
レナは茫然としていた。
隊長らしき男が近づいて来た。「女、この男は何かしゃべったか」
「いいえ、馬から転げ落ちて、そのまま... 」
「お前はロシア人だな、こんな所で何をしている」
「ロシアで食えなくなったので、家族で流れてきたの」
「ロシア人でなければ、生かしておかないところだった。早々にこの地から立ち去って、ロシアに帰ることだな。 ここはもっとひどくなる」と、拳銃を腰から抜き出し、カラバクの頭脳に弾丸を撃ち込んだ。
レナは自分が撃たれたように体をのけ反らせ、その場に倒れそうになった。
必死で両手を地につけた。頭の中は真っ白になった。「倒れてはいけない」ということだけを念じた。
ほかは全く頭に入らないし、聞こえもしなかった。そのあと騎馬兵達が何を言い、 自分がどうしたのか全く記憶にない。
レナは気がついたら、カラバクを抱いていた。
カラバクのほつれ髪を梳かしていた。ロシア兵たちは消えていた。
「そうだ、カラバクが命がけで知らせてくれたことを急いでエリスタに伝えねば」
あらん限りの力でカラバクを抱き、家の中に入れ、毛布をかけ、頭の下に枕をおいた。 その時になって、涙がとめどもなく流れ出だした。
涙声を震わせ、「マリー、行くわよ!」と愛馬に鞭打ち、エリスタ向けて飛び出した。
7kmの道は涙で霞み、暑いカルムイキアの夏も初冬のごとく寒々と感じた。
人民評議会は直ちに動いた。
各地に伝令を飛ばした。「老人、女子供は当面の食糧を持って山中や砂漠に退避せよ。 成人男子はエリスタ防衛のため武器を持って集結」と指示した。
このあとレナはニキタとグダイにこの状況を伝えようと思い立ち、エリスタから灌漑作業現場に向かった。 ボルガ河の一支流からの水路建設工事だった。
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五十一

赤軍兵には「立っているものは射殺せよ」という命令が出されていた。
中央から見れば、カルムイキアは、国全体が反共分離主義者の巣窟で、 忌まわしいペストの感染源だった。
赤軍兵はカルムイキアの領内に侵攻すると目に映るものには手当たりしだいに射砲撃した。 彼らはカルムイクを恐れた。
歪曲され、誇張された情報だが、ソ連兵は「昼間に奴らを殺さなければ、夜には寝首をかかれる。 夜行性の残忍なモンゴル系の人種だ。あのジンギスカンの子孫だ」と深刻に恐怖した。 恐怖が暴力を生んだ。相手が手をあげていても、男なら撃った。

ボルガ河の東岸から西岸に渡った侵攻軍が南下して来るという情報を受けて、 蜂の巣を突いたようにごった返している工事現場でレナはニキタとグダイを探した。
彼女はエリスタを出ると夜を徹して走った。あちこちを探し回り、朝になってようやく二人を見つけるとができた。 小さなバラックの中だった。
彼女はよろめくようにニキタに抱きつき、カラバクが殺されたことを伝えた。
「おかげで多くの人を逃がすことが出来た。私はいまでもカラバクが死んだなんて思えない。 ひょっこり出て来て、冗談を言うようで.. 」と言うと、ワアワア泣き出した。
泣いて、初めて気がついた。泣いた顔を埋める胸がない。泣き顔を持って行く場所がなくなった。 悲しいときはいつも優しく抱いて慰めてくれた男がいなくなったと思うと、 もう何もかもがなくなってしまったようで、生きていく気持ちがしなくなった。

兄が死んだ。ニキタは唇を噛んで泣くまいと頑張ったが、我慢できず涙がぼろぼろこぼれた。復讐したい。 だが、復讐しようにも、相手は巨大すぎる。仕返しをしようにも、相手の顔が見えない。
ニキタに抱かれた赤ん坊のリタが泣き出した。リタが泣くと、今度はニキタは我慢ならず嗚咽を始めた。
女三人が泣いている中でグダイはただ茫然とするしかなかった。 いつかカラバクのことを「よき兄、よき友」として思い出せるときが来るだろうかと思った。 自信がなかった。
レナのやつれた顔を見て「少し休んだほうがいい」とニキタのベッドを指し示した。 そう言われてレナは二夜連続で寝ていなかったを思い出した。「そうね、ありがとう」
しかし身を横たえる間もなく、ボルガ河を渡った数万の大軍がもうじきここにやって来るという情報が ドア越しに飛び込んできた。工事現場の全員がすぐさま南のエリスタに向かうことになった。
食べ物、衣類、毛布などを馬の背に乗せて南に数時間進むと、 ニキタたちは首都エリスタから北に向かって落ちのびて来た大きな群集と鉢合わせとなった。
彼らは「エリスタは人民評議会を中心に抵抗を試みたが、あっという間にソ連軍の手に落ちてしまった。 だが、抵抗軍が時間を稼いでくれたおかげで多くの人々が首都から四方に落ち延びることができた.. 」という。
ここを中心に北のボルガ河からは数万の大軍が押してきている。南のエリスタは落ちた。 西はその前に潰されている。あとは東のカスピ海岸部に向かうしかない。
誰が指示するともなく、皆が東に向かって歩き出した。 人々は食べ物や衣類などの入った袋や不揃いの銃を持っていた。中には羊や山羊を連れた者もいる。 犬もいる。老人も子連れの女たちもいる。子供の泣き声や母親の怒鳴り声が聞こえる。 人々は砂埃にまみれて、カスピ海目指して、いそいそと歩く。数千人の群集となっていた。
レナは「モーゼに率いられてエジプトを脱出したユダヤ人達もこういう感じだったのかな。 我々に奇跡は起こるだろうか。私個人には奇跡は要らない。カラバクと生きた幸せなときがあったことで十分だ。 本当に楽しかった。いまカラバクもいないし、カラバクの夢も、全てが壊れてしまった。もう未練はない。 あとは静かに消えたい。せめてニキタとグダイが何とか生き延びて、幸せな家庭をつくって欲しい」
彼女は空を見上げ、空にカラバクの霊をさがした。「革命は愛だと言ってたカラバク、いまどこにいるの。 答えて、革命も愛もどこに行ってしまったの... 」
空は暑く、一片の雲もなかった。
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