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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
十六

レナはこの時を待っていた。彼女は数名の仲間とともに刑務所に向かう隊に合流した。 偽パトロール隊の先頭に立ったレナは刑務所の扉をノックした。
門衛にスネコフ政治局長のサイン入りの命令書を示した。 門衛は政治局員・レナの顔をよく憶えており、局長のサインが偽造だとは夢にも思わなかった。 彼らは快く門を開き、兵隊を中に入れた。機関銃の馬車も一緒に入った。
刑務所長はスネコフの指令書を受け取った。これに「緊急、極秘」というスタンプが押してある。
「命令書:現在起こっている首都内の騒乱状態に対する緊急措置として、 添付リストに示す重要政治囚20名を至急、極秘裏に他所に移送すべき事」と書かれている。
刑務所長としても「現在起こっている騒乱状態」は轟音と地響きから認めざるを得ない。 しかし、彼は職務がら「スネコフの指令書」には当然の疑念を抱いた。 「なぜ政治局員はレナ一名なのか」「護衛の兵は正規兵か」「他所とはどこか」、 それらを確認したいと思ったが、言い出す勇気はなかった。 それを言い出せば、いつ目前の機関銃が火を吹くか分からなかった。 首都にはまともな正規軍は残っていない。
それにソ連ではスタンプの権威は絶大だった。スタンプのついた書類には逆らうべくもない。 彼には抵抗する意志も意味もなかった。指示されるままに20名を引き渡した。 対象者はみな現政権に反抗的な政治囚だった。この計画の首謀者はこの牢獄内にいた。
彼は共産党創始当時からの共産主義者で、政治囚で、ヨシフの父親であった。 共産党員は、革命前は帝政ロシアの弾圧を受け、民衆からはペストのように嫌悪された。 革命が燃えると「労働者と農民の政権を打ち立てる」というスローガンを掲げた共産党は 民衆の圧倒的支持を受けた。エルダールは民衆の先頭に立って戦った。 しかし暫しすると、状況は暗転していった。党は旧勢力の一掃を図り始めた。 すなわち旧軍人、官吏、地主、企業家、学校教師、バザールの商店主、自作農まで一纏めにして抹殺しようとした。復讐のための虐殺だった。
党としては政権維持のためにはこれも致し方なしという立場だったが、エルダールはこのような復讐に反対し、 党と対立するようになった。かれは党の組織より人間を愛した。党の政治局から「反ソ的自由主義者」という 烙印を押され、しかも公金横領罪も着せられ投獄された。

刑務所の看守は囚人よりも野蛮で、殴る、蹴る、たかるは日常茶飯事だった。
看守に睨まれたら、服も毛布も剥ぎ取られたうえで、胴震いのまま一夜を過ごすことになる。 朝は水路堀りの強制労働が待っている。食べる物は殆んどなく飢餓地獄が無限に続く。 自殺した方がはるかに幸せだった。一口で言えば、ここは前時代の牢獄だった。
しかし、所内の管理が杜撰(ずさん)だったおかげで、地獄の沙汰も金しだい、 外部との連絡には困難はなかった。老革命家エルダールは多くのシンパに支えられて外部との連絡を取り、 政治囚の脱獄を練っていた。
これに政治局の女性スタッフが自ら進んで協力してくれたので事はうまく行った。 20名という大量脱獄を成功させた。
ゲリラ隊は一台の馬車に機関銃を載せ、これに続く二台の馬車にエルダールほかの政治囚を乗せた。 偽の護送兵が前後を固めた。
郊外の解散地点に到着した。ここで当座の食料と衣類が配られた。 まずは四散して身を隠すこと、今後とも連絡し合い、協力して闘って行くことが提案され、皆の賛同を得た。
政治囚はゲリラとともに東に西に散って行った。
ここでグダイはヨシフほかの仲間と別れることになった。ただグダイはヨシフの屈託ない顔を見ながらも、どう努力してもヨシフとは本当の友人にはなれないと思った。
いまでも彼はニコラエフ上等兵を殺す必要はなかったと思っている。
ヨシフは自分の父親とその仲間三人ととに村に帰るという。 これからも真の社会主義のために命を賭けて闘うと言う。 グダイにはヨシフが殺戮そのものを楽しんでいるように思えてならなかった。 それは自分自身についても言えるような気がした。だから厭だった。
ヤシクリの肉屋ラシドはグダイの誘いを断り「暫くのあいだ海の方に行く」という。 ラシドはグダイに何度も頭をさげていた。きっとまたいつか会えるだろう。
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十七

グダイはカラバクとともに逃げることになった。問題は一頭の馬しかいないことだった。 一頭の小型馬に二人が乗るとつぶれそうなので休憩を入れながら走らざるを得なかった。
馬を降りて山道を歩いているとき、レナが駆けつけ「一緒に行きたい」と言い出した。 グダイには意外だった。まさか首謀者の一人が自分達と一緒に逃げ落ちたいと申し出てくるとは 思ってもいなかったからである。
グダイはロシア女が同行することには「目立つから」と反対したが、カラバクはレナの同行に同意した。 カラバクは「いやならお前ひとりで先に帰っても良い。一緒に行きたいという者は誰あろうと拒まない」と 厳しくグダイの反対を突っぱねた。
カラバクを見るレナの目を見てグダイははっとした。
彼にはカラバクの愛すべき純真さが可笑しかった。 「カラバクはレナの本音を知っているのかな。俺の知ったことではないけど」
レナはすべてを捨ててカラバクを救うことを決心した。
始めは「彼は本物だ」と頭で思ったが、時がたつうちに心でカラバクを思うようになった。 スネコフが執拗に自分を追うことは分かっていた。
彼女を生かしておいては自らの破滅にも繋がるし、 スネコフにはこれほどの屈辱的な裏切りは耐えられないことも知っていた。 レナはすべてを捨てたが、自分とカラバクのための二頭の馬だけは別だった。
それはグダイを喜ばせた。これで一頭の馬にカラバクと相乗りしなくてもよくなった。
カラバクは人間としてはいい奴だが図体が大きく、愛馬のことが心配でならなかった。
グダイはモンゴル系の小型馬をフビライと呼んでニキタの次に愛した。
馬の数が増えると道が早かった。
砂漠の道なき道を北東に向けて走る。後ろに土埃が立ち登る。道すがらヘビや野鼠、兎などを見つけると 弓矢で射捕らえ、串焼きにする。不毛の砂漠の旅に慣れたグダイは水と塩だけは常に携帯している。 レナは最初ヘビや野鼠をいやがったが、グダイの料理にしだいに馴染んできた。 美女とて背に腹は変えられなかった。ただ、グダイの手伝いをしようと思うには思うが、 ヘビやねずみを料理するにはレナの勇気はまだ未熟だった。
ただ獲れる絶対量が少なく、この間三人とも空腹感を満たすことは出来なかった。
既に三日間走っている。ずっと後方に注意を払っていたが追捕の気配はなかった。
ここで九十度進路を曲げ、南東方向に降りる。
更に二日間走る。馬の顔にも疲労がかなり色濃く出ている。
ここで馬に一日の休息を与え、三人で馬の餌になる草を集める。 棘々草はいくらでもあるが馬の餌になる草は山できのこを見つけるのと同じぐらい難しかった。 それでも馬が一応納得できるだけの草を集めることは出来た。
グダイはナイフを使って草の地上部分のみならず根の部分もかなり深く掘り出した。 草の根も馬には貴重なエネルギー源だった。
レナはグダイに「あなたがいなければとても砂漠を横断することは出来なかった。本当にありがとう」と 感謝の気持ちを伝えた。
グダイは「そんなことはカラバクに言ってくれ」と無愛想に答えたが、やはり嬉しかった。 その晩、レナとカラバクは夜遅くまで話し合っていた。
睡眠に落ちる前のグダイの耳に「スネコフとは.. 」とか「こんな私でも..」という言葉や 忍び泣きが聞こえていた。
グダイは「二人はきっと引っつくぜ」と思いながら寝入ってしまった。
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十八

翌日、一日中走って夕方に家族の待つキャンプに着いた。
ニキタは三人の姿をかなり遠くから見つけた。 グダイとカラバクの姿を見ると、ニキタは今までの苦労をきれいに忘れ去ってしまった。
嬉しくて飛び上がりたい。私の夫が兄を救った。グダイがカラバクを助けた。
でもひとり見知らぬ人がいる。遠くでよく見分けがつかないが夕陽に浮かぶ姿はロシア人女性のようだ。 どうしてグダイとカラバクがロシア人の女性を連れているのだろう。 しかし、疑問よりも喜びの方が勝った。
嬉しくて我慢ができず、家族のみんなに「グダイがカラバクをエリスタから救い出した。 今二人がこっちにやって来る」と告げた。
父も母も弟妹もみんな出てきて手を振る。羊が幸せな鳴き声をあげる。
おじいさんは長い角笛をかき鳴らす。「ペ〜ペ〜」と鳴った。
ニキタは掌を合わせ仏陀に感謝した。
グダイが馬から降りるなり、ニキタは手を広げグダイに飛びついた。 彼女は「もう絶対に離さない」と思った。涙が止まらなかった。
グダイはニキタを抱いて「やっと家に帰った」と思った。同時にニキタの肌の感触が若いグダイの脳髄を焼いた。 ニキタを抱いたまま自分達のテントにもぐり込んでいった。 弟や妹がにこにこして姉達のあとについて行こうとした。一緒に遊べると思ったのだろう。 母親が彼らを制止して「馬に餌をあげておいで」と命じた。
彼らは馬に触ることが出来るので、ニキタのことはもう忘れていた。
ニキタはグダイに懐妊したことを告げるのを先延ばしにした。今は自分とグダイの間に子供を挟みたくなかった。 今はグダイの胸にずっと顔をうずめていたかった。
陽が沈むとまたおじいさんの角笛が鳴り出した。弟や妹がみんなで踊ろうとはしゃぎ回る。 せがまれてニキタとグダイが自分達のテントから出てきた。
ニキタはまだ夢から覚めやらぬ顔を赤らめていた。今日は特別な日となった。
おじいさんが小高い場所に立って「今日は二つのお祝いだ。 一つは、カラバクがグダイと一緒に無事帰ってきたことだ。グダイもカラバクもようやった。 もう一つはグダイに子供が出来ることだ。ニキタ、でかした、偉いぞ。 お母さんみたいに子供をいっぱいつくれよ」と声高らかに宣言した。
このふたつを祝って、羊を一頭つぶすことになった。みんなお祭り気分だった。
グダイは自分に子供が出来ると聞いて呆然とした。
恥ずかしいやら、嬉しいやら、説明のつかない気持ちだった。 まだニキタのおなかは目立たないが正月頃には生まれる予定だという。
カラバクはみんなの前で月の光に照らされるレナを紹介した「この人はレナといって エリスタの共産党政治局のスタッフだ。いやスタッフだった。 私やほかの政治囚を解放するため身を捨てて闘ってくれた。 グダイとともにレナは私の命の恩人だ。私はこのふたりの為にはいつでも命を捨てるつもりだ。
私は牢の中で考えた。今のカルムイキアは間違った方向に進んでいる。 ただ、小さなカルムイキアの中でいくら頑張ってもコップの中の水を掻きまわすだけだ。 間違った方向は国全体、つまりソ連全体の問題だ。私はモスクワに行って、 社会主義をそのあるべき姿に戻す仕事をしたい。 レナとも話しあったが、私はレナと一緒にモスクワに行く。 そのまえに、今日ここでレナと結婚する。みんなで祝福してくれ」と重大宣言をした。
レナはその美しい目をうるませた。「こんな私でよければ.. 」あとは言葉にならなかった。
おじいさんがまたまた長い角笛を吹き鳴らした。カラバクとレナの結婚は祝福された。 みんなで羊の肉を食べ、お茶を啜り、歌い、踊った。
月光と焚き火の明かりをたよりに皆でカラバクとレナのためのテントをつくった。 遊牧に出るときの粗末なテントだが羊の毛布もあり、 何といっても二人だけの空間が出来たことは最高だった。
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