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カルムイキア
(ニキタの一生)
憲兵隊がやって来た。
家族一人一人に訊問を始めた。貧相なバラックが取調室となった。
憲兵隊長は家族がカラバクとグダイを逃がしたと判断すると、 母親を呼び付け「あなたの息子さん達をどこに匿っておられるのかお教え願いたい。 さもなくば、ご家族のなかで最も健康で、長旅に耐えれそうな娘さんのニキタにご同行願うことになる。 そうなれば、あとは専門の訊問官に委ねることになるが、私個人としては、それはお勧めしかねる。
理由は説明するまでもないだろう。ニキタがもとの体で帰って来れるかどうか、神のみぞ知るところだろう。 尚、このことは私とあなただけの秘密にしておきたい。
ご家族の誰にも相談されない方がよかろう。夕方までじっくりお考え願う。夕方に再度お呼び出しする。 ああ、念のために言っておくが、全てを正直に言わないと家族皆に被害が及ぶことになる。 これは脅しではない」という。
母親は悶々と時間を費やした。彼女はこの数時間で一気に老け込んでしまった。
結局、母親は「最愛の娘と新たに生まれ来る生命を守るため」と自分に言い聞かせ、娘の夫を密告することにした。結局、憲兵隊長がにらんだ通りになった。
我が息子を救ってくれた娘婿グダイを見殺しにするのは辛く、ニキタの嘆きを思うと耐えがたかったが。 家族全員の身の安全を条件に話した。
「カラバクは一週間ほど前にモスクワに向かった。ルートは言わなかった。レナという女性が一緒だった。 グダイは山中に潜んでいる。明日かあさってには様子を見るためにここに降りて来るはずだ」
憲兵隊長の顔色が変わった。期せずしてレナという大物が掛かった。
再び家族全員を一人ずつ呼び付けた。尋問はレナとカラバクの行き先に絞った。
色々と脅しをかけたが、カラバク達がどのような物を持ってモスクワに向かったかという程度しか収穫はなかった。
グダイがカラバクに与えた拳銃のことは家族の誰も知らなかったので勿論、憲兵隊が知るよしもなかった。 グルジアのバトミに立ち寄る可能性があることも知らずじまいだった。 憲兵は馬を遠くの谷間に隠し、グダイの接近を待った。翌々日の早朝、グダイはバラックに近づいた。
彼はバラックの近くに敵が潜んでいるのを感じると、敵に悟られず、もと来た道に引き返そうとした。
ところが憲兵隊のなかにも鋭い感覚を持った隊員がいた。 グダイが近づいてくるのを悟ると隊長に指でその方角を示した。
隊長が大声で「同志グダイ、こちらに出て来なさい。君が逃亡するなら家族全員が脱獄幇助の罪で 連行されることになる。それでもよいのか」と叫ぶ。
グダイは手をあげて出て来た。
その場で両手を後ろに縛られて馬に乗せられた。憲兵の一隊が護送した。
エリスタへは疲労と空腹の長旅となった。彼らはグダイにひとくちも口を聞かなかった。 水も与えなかった。憲兵の本隊はモスクワの方面にカラバクとレナを追った。
政治局に引き渡されたグダイはぼろぎれのように疲れた体を引きずって訊問室に入った。
ところで、ソ連共産党政治局(politbureau)とは:
ソ連共産党では毎年開催される党大会が最高決定機関である。 大会と大会の間の期間は、党大会によって選出される中央委員会が党の指導を行うことになっている。 が、実際には中央委員会から選出される政治局、書記局、中央委員会機構が党務を担当していた。
特に極少数の党員で構成される政治局が最高意思決定機関として機能していた。 つまり政治局が立法、行政、司法の総司令塔であった。 政治局の権能は中央モスクワのみならず各共和国においても同様であった。
尚、スターリンの時代に入ると本来、政治局や中央委員会の補助的機構であった書記局が 人事、組織統制の権限を高め、特に書記長に権力が集中するようになった。(参考まで)
暑い夏の空気の中でこの尋問室だけはひえびえとしていた。
訊問官が悲しそうな顔で「君の奥さんが密告し告発した」という。
「ところで君の足取りはヤシクリから始まっていることは分かっているが、 ヤシクリの反革命分子のアジトが分からない。どういうきっかけで連中と知り合ったのか教えてくれないか。 ヤシクリが反革命テロリストの合流点になっていたようだね。
いや、殆どの脱獄囚はいま回収されつつあるから、すぐに事情ははっきりすることだが、 君の立場を少しでも良くしておきたいのだ。君はまだ若いから、 これからこの国の建設を担って行く大きな力になれる。 私としても今のうちなら君を救うことが出来る。何とか助け合って行こうじゃないか」
グダイにはヤシクリのラシド夫婦がそれほど重要な位置を占めているとは思えなかったが、 絶対ラシド夫婦のことを口にしないと心に決めた。
それにニキタが俺を密告したというが、それは全くの嘘だ。
告発もあり得ない。
顔の表情でグダイの心を読んだ訊問官はグダイに揺さぶりをかけることにした。
「あれから、残った憲兵たちが何をしたか分かるかね。奥さんはあの辺りじゃ有名な美人というじゃないか。 そりゃ、ただで済ますほうがどうかしているよ。君がヤシクリのことを話してくれたら、一旦帰宅させてあげよう。 君も奥さんと会って、色々と話をしたいだろう。このままでは一生会えないかもしれないよ。 まあ一晩じっくり考えることだな。明日の朝また話し合おう」
ニキタが憲兵たちに犯されたって? あり得ない。と思いたいが、あり得なくもない。俺はいますぐここを出て、ニキタに会いに行きたい。 ひと目でもいい、会いたい。そうだ、協力すると見せかけてうまく奴らを出し抜いてやろうか..
などとあれこれ思案しているうちに、気付かぬまに廊下を通り過ぎて、牢に戻っていた。
牢格子の向うに鳥を見た。グダイは心の中で弓を引き、矢を射た。目に見えぬ矢が飛ぶ鳥を追っていた。
その時ふと気づいた。これは敵の罠だ。そうだ。俺だって動物を捕らえるときは色々考え、罠を仕掛ける。 奴らはヤシクリのアジトを押さえたいから罠を仕掛けているのだ。 奴らを出し抜こうと考えること自体が奴らの罠にかかってしまうことだ。余分な考えを捨て、自分を通そう。 俺はあのラシド夫婦を裏切るわけにはいかない。
見苦しく命乞いをしたうえで、銃殺され、死体に唾をかけられるようなことは カルムイクの尊厳にかけて絶対出来ない。
翌朝、グダイは自供を拒んた。ここで拒否した以上自分はもう死んだと思った。
それでよい。実際、俺も今まで多くの鳥や獣を殺してきた。 彼ら鳥獣自身も弱肉強食の世界に生き、最後の最後は勝者に自らの生命を捧げる。
負けた以上、彼らと同じようにその運命を受け容れよう。俺の人生は幸せだった。
ニキタに心で「ありがとう」を言って、静かに別れよう。
銃殺されるものと思っていたが、拷問が始まった。歯を食いしばって耐えた。
麻酔なしの外科手術に似ていた。激痛が脳を貫く。心臓が割れんばかりに早鐘を打つ。
顔も体も血みどろで、もとのグダイの顔を想像することさえ出来ないさまになっていた。 早く楽にして欲しかった。喉が渇いてしようがない。水が欲しい。痛い。
拷問が二度三度つづくと、恐怖心のせいか看守の靴音を聞いただけで体がむやみに震えた。
ニキタは生きた心地がしなかった。
仏陀に祈るしか方法はなかった。終日仏陀に祈った。
自分はどうなっても構わない、グダイを救って欲しい。そのためならどんな事でもすると。 だが、仏陀は何も語らなかった。
親達が心配して粥やチーズなどを食わせようとするが一切受けつけなかった。 そんなニキタを見て母親はいっそう老けこんでしまった。 羊達の心にも家族の気持ちが映ってか、乳の出が悪くなった。
カラバクとレナは家族の悲劇を知るよしもなかった。
彼らが早々とカルムイキアを出たのは幸運だった。カルムイキアを出ると広大なロシアの穀倉地帯が姿を現した。 以前、この時期はとうもろこしも麦もたわわに実り、農民の顔にも収穫前の期待と気力がみなぎっていた。
ところが今、とうもろこしも麦も枯れて痩せ、農民の姿も殆ど目につかない。 革命前には考えられない事態がロシア全土で起こっていた。
1921年に飢饉が発生し、21年から22年にかけて3千万とも言われる人々が犠牲となった。この惨状は遊牧民族がまばらに棲むカルムイキアの比ではなかった。
初代国連高等弁務官フリチョフ・ナンセンの報告によれば 「市場などで公然と塩漬けの人肉が売られていた」ほど悲惨なものだった。
カラバクとレナは、道中あちこちに痩せて青黒い顔をした死骸を目にした。
暫くして、二人は立ち往生する嵌めになった。ロシアは極度の物不足のためにお金の価値がひどく下がり、 持参したお金が紙屑同然となった。
結果、食料の確保が不可能となった。
さらに悪い事が起こった。カラバクとレナは強盗に遭遇した。
それは飢餓の時代には当然の現象で、こういう時に男と女が軍の警護なしに カルムイキアからモスクワまで長旅をしようということ自体がまったく無謀なことであった。
ボルガ河畔の寒村ノギナを通り過ぎたところで、左横から銃声が聞こえてきた。 レナの愛馬マリーが身を痙攣させ右に傾いだ。レナが転び落ちると同時にマリーはどすんと横倒しになった。
レナは倒れた愛馬を壁にして路上に身を伏せた。
元騎馬隊長のカラバクはとっさの行動に長けていた。
胸のガンホルダーから拳銃を引き抜くと、銃声のした方向に単騎突進した。
六人の強盗はもともと銃のプロではなかった。いきなり飛び込んできた騎馬にまごついた。 しかも馬上の男はいともたやすく二人を射殺した。ガンガンと耳のそばで雷が鳴り響いた。
生き残った四人は銃を投げ出して一目散に逃げ出した。 銃を持っていれば次は自分が殺されると思ったのだろう。
カラバクはレナのところに戻って来た。マリーはまだ息はしていたが、動くことは出来なかった。 残念だがレナの愛馬はここに残して行くしかなかった。
頭を撃ち抜き安楽死させてやるのがマリーにしてやれる全てだった。 結局、ふたりは哀れな強盗達に馬肉を残して行くことになった。 その代わりに彼らが残した小銃のうちで最もましな銃と弾帯、それに哀れな強盗の死体が身に纏っている襤褸を (無断で)貰いうけることにした。二人は荷物をまとめ、カラバクの馬に相乗りした。
レナは最初泣いていたが、カラバクの歌を聴いているうちに元気を取り戻し、 最後には甘えてカラバクの胸により縋っていった。
カラバクはこのままモスクワ方向に進むことは不可能と判断した。 一旦、グルジアの大伯父を頼ることに決め、道を一路南に転じた。かなりの遠回りとなってしまったが。 母親達が作ってくれた石鹸のようなチーズや干し肉を大事に食い繋いでいくことにした。
この先、食料が間違いなく確保出来るかどうか確信はなかったが、他に方法がなかった。
〜イギリス人は利口だから、水や火などを使う。 ロシア人は歌を歌い、自ら慰める。死んだ親があとに残す宝物は何ぞ。 力強く男らしい、それは仕事の歌。
Hey この若者よ、Hey 前へと進め! Hey みんな前へ進め!〜
彼らは歌を歌いながら南に進んで行った。
次の日にカルムイキア憲兵隊がここノギナに到着するが、 特別な手がかりもないまま西のモスクワ方面に進んで行った。 盗賊二人が銃で殺されたことも、生き残った者が馬肉をせしめたことも、 全てが闇の中に掻き消されてしまっていた。
結局、カラバク達は二度の幸運に恵まれたことになる。
レナがカラバクに「こうして旅をしているとグダイを思い出すわ。 彼ならどんな所だって生き抜く力を持っていると思う。荒野の鷹みたいに」と語る。
そのグダイは拷問を受けていた。
激痛と疲労、不眠の連続で脳は朦朧としていた。訊問官の前に引き出される。
訊問官は異形で、悪臭を放つグダイから目をそらせ「君らのやったことは無駄だった。 我々は脱獄した者も、それを幇助した者も全員逮捕し終えた。自分のした事を悔やむがいい。 君の行為は国家に大きな損害を与え、人民を苦しめるだけの結果となった。
君は弾薬庫を爆破した。この損害を取り戻すためだけでもカルムイキアの人民は今まで以上の苦痛を味わわされる ことになる。君の家族もシベリアに送られることになるだろう。 君は自分の家族さえ死の淵に追いやっているのだ。皆に対して罪を感じないのかね。
君に最後のチャンスを与えよう。ヤシクリの誰とどこであったのか」抑揚のない声だった。
グダイはぼんやりとした顔で答えた。「無駄じゃなかった。カラバクやラシドを助け出した。 カラバクはカルムイキアの英雄だ。お前らを追い払ってくれる。ラシドだって最高に良い奴だ.. 」
訊問官の眼鏡が光った。彼は親指を下に向けて衛兵に合図した。
「もう必要ない。処刑せよ」という意味だった。
訊問官はグダイが部屋から連れ出されると「そうか。ヤシクリのラシドか」と独りごとを言った。 「ラシドの周辺を丁寧に洗い直す必要があるな.. 」