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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
十九

朝早くからニキタは起きて羊の乳絞りをした。
兄カラバクは夫のグダイと猟に出かけた。祖父母、父母の朝の勤行が始まる。 遠くに聞く勤行は心を落ち着かせてくれる。ニキタの父親はグダイの父親と同じ無口な男だが、 いつぞやニキタに「私が願うのは自然がその生命を繰返し、朝に人が生まれ、昼に人は働き、 夕に何も残さず静かに逝くことだ」と言っていた。ニキタは朝焼けに向かって手を合わせた。 朝にこの子が生まれるのか、とお腹をさすってみた。まだ動きはなかった。 目をあげると砂漠がはるかな海のように遠々と広がっていた。

カラバクとグダイが早朝の猟から帰ってきた。珍しく渡り鳥が2羽も獲れた。
みんなで朝食をとった後、若い4人がカラバクのテントでお茶を飲んだ。
ニキタとレナはすぐに仲良くなった。
ニキタがカラバクとレナに「共産主義はとても難しい理論だと聞いたけど、実際どんなものなの」と尋ねた。
カラバクが優しい目を妹に向け「昔々、人間が農業を知らなかった頃の話しだ。 みんなで猟をしたり、木の実や果物を採ったりしていた。それをみんなで分け合って食べていた。 というのは独り占めしてもどっちみち肉や果物は長持ちしないだろう。
このように皆で取って、皆で分け合うやり方を共産制と言って、 大昔の共産制を特別に原始共産制という呼ぶんだ」
「それだったら今の私達の生活は原始共産制なわけね。みんなで働いて、みんなで分け合っているから」
「そうだ、その通りだ。でも考えてごらん。税務署や行政府の役人が兵隊を連れて来て羊や馬や若者を 曳いていくだろう。俺達の生活は原始共産制のようで、実際にはもう別のものになっている。 それは人間が農耕を覚えたときから始まっている。
農耕を覚えて穀物を作るようになると、それは長持ちするから蓄えることが出来る。 備蓄というんだ。狩猟だけでは、お前もよく知っている通り、人々はいつも飢餓線上で生きている。 それに引き換え、備蓄できる農作物、特に小麦のような穀物は命の糧だ。 これがあれば、木の実もなくなり、鳥獣もいなくなる冬でも人間は生きていける。
でも、それにはそれに向いた土地や水が必要だ。そこで皆が土地や水を欲しがる。 これがあり余るほどあれば問題ないが、そうは行かない。
奪いあいになり、強い者が力づくで土地や水、それに人狩りをして労働力も独り占めをするようになる。 人間は働く者と働かせる者に分かれる。
思うに、人間は生まれながらに、他人が不幸になっても、たとえ殺してでも、 自分は生き長らえようとする業(ごう)というか、本能があるようだ。
備蓄が出来るようになって、すぐに始まる奪い合いとか、 独り占めというのは自己保存本能の仕業だと思う。弱肉強食も人間の天性だろう。
ところが女という生き物は子供を産んで、これを守り育てるように出来ているから そういう傾向はかなり中和されている.. と思うんだが、正しくないかな。
まあ、それはともかく、奪いあいの中で兵という力の集団が生まれ、 勝った方と負けた方の間で支配関係が生まれる。強い集団が弱い集団を呑み込んで行く。 一旦これが始まるとあとはどんどん連鎖反応を起こす。
戦いのなかで集落から村に、村から小国に、小国から大国になっていく。 というようなわけで、人間の文明、人間の歴史は大体どこでも戦乱の時代から始まっている。
支配者は内外の敵から我が身を守るために行政制度を整え、 税を取り立てて、軍隊を強くするわけだ。機あらば他国を侵すのも保身のひとつだ」
ニキタ「何か、恐ろしい話ばっかりね。人間って皆そんなに野蛮なの」
カラバクは「皆に余裕があればね、人間は人間らしく生きれる。奪いあいしなくてもよくなるからね。 だから、我々はそのために皆に労働を呼び掛けている。 そして皆が労働の果実を公平に分かち合えるような仕組みに変えていこうとしている」と ようやく結論めいたところに到達した。
「共に働き、共に分かち合う、これが共産主義だ」
ニキタは「そんな単純なこと、なぜ今まで誰もやらなかったの」と首を傾げる。
グダイが口を挟んだ「さっき、カラバクが言っただろう。人間は生まれながらにして本能があるのさ。 人を殺しても自分を大事にする、欲っていう本能さ」
グダイは「くだらんことを言ったかな」と思ったが、意外やカラバクはその通りだという。
「そうだ。仕組みがいくら良くても、中味の人間が欲張りだと全てが駄目になってしまう。 問題は中味の人間だ」
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二十

カラバクは嘗て自分の部下だった農奴出身の騎馬兵に話を転じた。
農奴とは、辞書によれば「領主の身分的支配を受け、土地に縛られて移転の自由をもたない。 領主から貸与された土地を耕作し、賦役・貢納などの義務を負う者」、つまり土地に縛りつけられた 農業奴隷のことである。その農奴出身の騎馬兵はカラバクにこう語ったという。
「農奴はロシア王族、貴族たちの優雅な生活をまかうために、食うや食わずの生活を死ぬまで続けていた。 農奴の親子・夫婦の関係は貴族たちの気まぐれでいとも簡単に切り裂かれた。 若い農婦が領主に弄ばれたという話しはどの村にもある。 現に自分自身が村の子供達から(ご領主様の落しだね)と随分ひやかされた。 (落しだね)という意味が分かったときは死ぬほど恥ずかしく辛かった。 貴族の堕落は目に余るものがあった。奴らは農奴を10人、20人と束ねてトランプの賭け札にもした。 農奴は人間として扱われなかった。
俺は革命に夢を抱いた。すばらしい時を過ごした。でも、生き過ぎた。 出来れば、未来に夢を抱いたまま討ち死にでもしていたほうがよほど良かったかもしれない。 今の地獄を見る前に.. 」と。
カラバクは続ける。「俺はモスクワに行き、もの凄く立派な建物が林のように建っているのを見て肝をつぶした。 でも、みんな農奴の血と汗の上に立っている。壁のひとつひとつに農奴の怨念が染みついている。 それを思うと俺はあんな場所には絶対住みたくないと思った。 まずはこういう世界をぶち壊して、貧富のない、皆が豊かに暮らせる社会をつくることだと思った。 とにかく、まずは仕組みを変えることだと思った」
ニキタは溜め息をついた。カラバクの話しは半分ぐらいは分かったけど、 その何倍も混乱してしまったような気になった。
結局、人間の社会はカラバクの言う「弱肉強食」に支配されているように思えて、悲しい気持ちになった。
勝った者がその政権を維持するために民衆を押さえつけ、搾取するということは分かった。 でも、人間には強い者と弱い者がいる以上、ロシアが社会主義のソ連になってもこの関係は変わらないように思う。人間そのものが変わらなければ社会は変わらないのではないのかな。
やっぱり、世の中の仕組みよりも、おじいさんが言うように「一人一人が欲を捨て、 分かちあう心を持つ」ことが先だと思うけど.. あとでレナにも聞いてみよう。レナならもっと分かりやすく説明してくれるだろう。
ニキタはひとり思いにふけっていたが、グダイの言葉が彼女を我に帰らせた。
グダイはカラバクの目をじっと睨み「カラバク、革命が成功してからもう3〜4年たつが、 共産党自身が食うや食わずの農民から容赦なく食料や家畜を奪って行くのはなぜなんだ。 一言文句を言っただけで牢にぶち込んだり、銃殺してしまう。 これが労働者と農民のための政権なのか」
カラバクは「グダイ、お前の言う通りだと思う。ソ連は内部から腐り始めている。 俺とレナはここに来るまで砂漠の中で色々と話し合った。ソ連は今のうちに建て直さないと駄目になる。 このまま進めば恐ろしい奴隷国家になってしまう。
思うに、ソ連は反共包囲網に過剰反応してしまったために、労働者の独裁ではなく、 軍事独裁国家となってしまった。強制の国になってしまった。
これは大きな間違いだ。俺は共産主義を否定しない。共産主義の社会で、 人々が自由で豊かな生活を享受出来るなら、強制しなくても、軍事独裁にしなくても皆が共産主義の国を守る。 大事なものを守るために自ら進んで命を捧げる。
今のソ連の状態は一時的な過剰反応なのか、またはこれが共産主義の宿命なのか。 これが共産主義の宿命なら、そしてこれを改めることが出来ないなら、 我々は別のあり方を追求すべきだと思う」という。
ニキタはその通りだと思った。「別のあり方」に光を感じた。
ところが、カラバクはニキタには思いも寄らぬことを言い出した。 「だから俺はモスクワに行き、共産党の指導者と会う。正すべきは正さねばならない」
グダイはロシアとその後継者・ソ連を憎んでいた。 「カラバク、わざわざ時間や労力をかけてモスクワに行ってソ連の善悪を見極めるまでもないだろう。 いままでのことで共産主義はそれ自体が奴隷制以外の何者でもないことは分かるだろう。 エルダールの息子も『計画経済は共産主義の根幹だが、まさに計画経済であるがゆえに人を強制する、 人間の自由を奪う』と言っていた。だから、共産党のえらい奴に会ってもしようがないよ。 カラバク、お前は俺達カルムイクの誉れだ。頼む、みんなとずっと一緒にいてくれ。 カルムイキアにはお前が必要だ」
「いや、俺はまだ希望を捨てたくない」
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二十一

レナが始めて口を開いた「私はカラバクの行くところに行く。カラバクを信じている」と。
カラバクは明るい顔でレナに向いて「それでは決まりだ。明日出発しよう」
そして妹夫婦に向き直り「やることをやったら帰ってくる。グダイ、ニキタ、それまで頼むぞ」という。
その日は家族のみんなが驚き、青采に塩をかけたように元気を失い、しょげてしまったが、 カラバクの明るさに負けてだんだんと元気を取り戻していった。
カラバクは赤軍騎馬隊にいるときに憶えた労働歌をみんなに教えた。レナも手伝った。 「嬉しい歌、悲しい歌、たくさん聞いたなかで、忘れられぬ、ひとつの歌、それは仕事の歌、、」
みんなはレナの優しく澄んだ声にうっとりと聞き惚れていた。ニキタはすぐ歌詞やメロディを憶え、 上手に歌うようになった。ニキタの歌はレナのそれよりも労働歌らしかった。 レナの声は優しすぎて労働歌には向かなかった。
昼からカラバクは弟妹たちを馬に乗せて手綱さばきを教えた。 子供らは有頂天になり、いつまでもカラバクを離さなかった。
ニキタは長い間、レナと一緒だった。おしゃべりが尽きないようだった。
グダイは「女という動物は口から先に産まれて来たに違いない」と思った。 レナにまとわりつくニキタは童女のように生き生きしていた。
「考えてみれば、俺が子供のニキタを無理矢理おとなにしてしまった」
その晩は夫々が夫々の思いを胸に抱いて床についた。 グダイは眠れず、ニキタを愛馬フビライに同乗させ、星降る夜を長らく駆けた。 ニキタの唇は甘く、やわらかだった。
朝が来た。清涼な空気が胸にしみ込んでくる。
グダイはバザールの肉屋ラシドの奥さんから貰ったお金をすべてレナに渡し、 エリスタの守備隊の士官から奪い取った拳銃をカラバクに握らせた。 グダイにはとても大切なものだったが。
家族全員が貧しい中でありったけの物をカラバクとレナに与えた。
その中には羊の血を詰めた腸詰め、羊の干し肉、石鹸のようなチーズ、よく研いだ小刀、 それに二人分の羊の毛布もあった。
おばあさんがカラバクに「黒海東岸グルジアの港バトミに私の実家がある。 兄の姓はグルコ、名はアリという。お前の大伯父にあたる。革命前のことだが、船を数隻持っていて、 かなり手広く商いをやっていた。今はどうなっているか分からないけど、何かのときは兄に頼って行けばよい。 お前たちのために手紙を作っておいた」とアリあての手紙を渡してくれた。
レナは涙に濡れた目で家族のみんなを見つめ、頬に別れのキスをした。
カラバクとレナは出て行った。そして、それから数日が経った。
彼らの存在があまりにも際立っていたので、暫くはみんな放心したような状態が続いた。 目を閉じれば、まぶたの裏にいつまでも二人の残像が残った。 この世のものと思えないレナの美しい顔、カラバクの朗らかな顔。
そんなとき憲兵隊がやって来た。
朝の陽光に向かって手を合わすニキタは20人ほどの騎馬兵が遠くから近づいて来るのを見つけた。 彼女は青ざめた顔でグダイに兵隊がやってくることを告げ「急いで逃げて」と声を震わす。
グダイは「目的は俺ではなくカラバクたちだと思うが.. ともあれ暫らく山中に身を隠すことにする。あとで様子を見に降りてくる。 お父さんやお母さんによろしくと伝えてくれ。お前は子供のためにも体を大事にしろ」と馬に乗った。
モンゴル系の小型馬は走るときも大きな音が立たないから遁走には都合が良かった。 憲兵隊の対象はカラバクとグダイだった。レナがカラバクと一緒にいることは知られていなかった。
カラバクのみならずグダイも逮捕の対象となったのは、逃亡した者のうちの数名が既に逮捕され、 口を割ったためだった。
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